第一話 スキルなし、ポテチあり
死ぬ直前に考えることが、まさかポテチだとは思わなかった。
神代悠真、享年二十六歳。職業は無職(自称・情報収集家)。趣味はアニメ鑑賞、ゲーム、料理研究、および深夜のポテチ単独鑑賞会。
死因は——信号無視のトラックに轢かれたこと。
轢かれる瞬間、頭に浮かんだのは「昨日買ったのり塩、まだ半袋残ってる」という事実だった。
そういう人間だった。
◇
目が覚めたら、牢屋にいた。
石造りの壁。籠の外から差し込む緑がかった光。どこかから虫の鳴き声——というより、虫が言語を発している声。
(異世界転生か)
悠真は落ち着いて状況を確認した。オタクとして二十六年間ライトノベルとアニメで培った知識が、この瞬間のためにあったと言っても過言ではない。
体はある。痛みもない。服は元のままだ——くたびれたパーカーとジーンズ。財布の中身は三百二十円。スマホは圏外。
そして。
壁に光る文字が浮かんでいた。
【ステータス確認】
名前:神代悠真
種族:人間
戦闘力:F
魔力:なし
スキル:——
スキルの欄が完全に空白だった。
ダッシュですらなく、完全に何もない。フォントが対応していないのかと思ったが、そういう問題ではなかった。
(運が良ければ……何かあるかもな)
と思ったが、どう見てもなかった。
◇
牢屋の外に気配がした。
扉が開く。入ってきたのは——身長二メートルを超える、黒光りする外骨格を持つ何かだった。
触覚。六本の腕。腹部の縞模様。
(ゴキブリ……いや、ゴキブリ人だ)
思わず後ずさりしそうになったが、牢の壁がすぐ背中に当たった。逃げ場はない。
ゴキブリ人は悠真をじっと見た。外骨格の顔に表情を読むのは難しいが、なんとなく「困惑」しているような気がした。
「……人間か」
低い、しかし妙に聞き取りやすい声だった。
「そうです。神代悠真と申します。今日転生してきたばかりで、土地勘がなくて」
ゴキブリ人は沈黙した。
しばらく経って、
「……なんでやねん」
関西弁だった。
◇
G・クリムゾンという名前だと、彼は名乗った。害虫連邦の総司令官。戦闘力S。自称不死。
「で」と悠真は言った。「なんで俺、ここにいるんですか」
「こっちが聞きたいわ。ウチの斥候が森で発見したんや。スキルなし、魔力なし、武器なし。せやのになんで生きとるんや、お前」
「運が良ければ……なんとかなる主義なので」
G・クリムゾンはもう一度「なんでやねん」と言った。
沈黙が続いた。悠真は牢の中を見渡した。石の床、石の壁、かび臭い空気。ひとつだけ小さな窓から外が見える。緑色の空だった。
「ひとつ聞いていいですか」
「なんや」
「ここ、ポテチ売ってます?」
G・クリムゾンは長い沈黙の後、
「……お前、ほんまに大丈夫か」
と言った。悠真は「たぶん」と答えた。
◇
処刑されるかと思ったが、そうはならなかった。
理由は単純で、G・クリムゾンが「こんな無害な人間を殺すのは時間の無駄や」と判断したからだ。スキルも魔力も武器もない人間は、害虫連邦にとって脅威ゼロだった。
むしろ厄介なのは「どうするか」だった。
「人間の王国に返すわけにもいかんし、かといってここに置いとくのも……」
G・クリムゾンは腕を組んで考え込んでいた。六本腕が全部組まれている様子は、なかなかシュールだった。
「あの」と悠真は言った。「俺、料理できますよ」
「……料理」
「はい。和食、洋食、中華、一通り。あとワインと日本酒のペアリングが得意で。ここに食材があれば何か作りますけど」
G・クリムゾンはまた沈黙した。今度の沈黙は少し質が違った。
「……お前、害獣帝国の斥候と間違えられて捕まったんやで。わかっとるか」
「わかってます」
「なんで落ち着いとるんや」
「運が良ければ何とかなると思って」
「三回目やぞそれ」
悠真は少し考えて、
「……一応聞くんですが、この世界、今どういう状況なんですか。人間と害虫と害獣が戦ってる、みたいな感じ?」
G・クリムゾンは答えた。人間王国との緊張関係。害獣帝国との小競り合い。そして最近になって出始めた「宇宙からの何か」の気配。
悠真は聞きながら、頭の中で整理した。
三つ巴の状況。どこも疲弊している。そして共通の脅威が外から来る。
(なんでやねん……じゃなくて、これは)
——まとめられるかもしれない。
根拠はなかった。スキルもなかった。勝算という言葉の意味を考えたら笑えた。
でも悠真には「話を聞く」ことと「状況を整理する」ことだけはできた。二十六年間、ゲームとアニメで磨いた「敵対勢力の攻略ルートを考える」能力が、妙にリアルな場面で起動し始めていた。
◇
「ひとつ提案していいですか」と悠真は言った。
「なんや」
「俺を処刑するでも追い出すでもなく、しばらく置いといてください。その間、料理を作ります。あと話し相手になります」
「……それだけか」
「それだけです。代わりに、ここで見聞きしたことを他に漏らしません。あと料理の腕は保証します。死ぬほど練習しましたので」
G・クリムゾンは長い長い沈黙の後——
「……まず一席、聞いてもらえるか」
唐突だった。
「落語ですか」
「なんで知っとるんや」
「なんとなく。どうぞ」
G・クリムゾンは六本腕の二本を後ろに組み、残り四本を前に出して——絶妙に落語の「扇子を持つポーズ」に近い体勢を作った。
そして語り始めた。
話は長かった。脂っこかった。オチが三回あった。
それでも悠真は最後まで聞いた。
語り終えたG・クリムゾンは、外骨格の顔で、少しだけ——「満足そう」に見えた。
「……お前、笑わんかったな」
「笑いどころがわからなくて。でも面白かったです」
「ほんまか」
「ほんまです。なんか、語り口が好きで」
また沈黙。
G・クリムゾンは、低く、ぼそりと言った。
「……置いといたる。一週間だけや」
悠真は頭を下げた。
「ありがとうございます。ちなみに、この辺の食材で何が手に入りますか」
「なんでそっちが先やねん」
「腹が減っていて」
G・クリムゾンは「なんでやねん」と三回言ってから、渋々食材を調達しに行った。
◇
その夜、悠真はこの世界で最初の料理を作った。
食材は謎の根野菜と謎の肉と謎のきのこ。調味料は塩だけ。
それでもなんとかなった。二十六年間の研鑽はだてではない。
G・クリムゾンは一口食べて、長い沈黙をしてから言った。
「……なんでやねん」
今回の「なんでやねん」は、明らかに違うトーンだった。
悠真は、運が良ければこの世界でも生きていけるかもしれないと思った。
そして今夜だけは、のり塩ポテチのことを忘れることにした。
〈第一話 了〉




