第68話 交錯のウルファリアIV
【帝国紀元1799年10月19日 22:00】
【ウルファリア郊外・ユリア大隊野営地】(ルシア視点)
瑞希が遊び疲れて早々に寝息を立てる横で、ユリアとルシアは報告書の確認に追われていた。卓上のランタンが揺らめき、羊皮紙に二人の影を落としている。外からは秋の虫たちの合唱が聞こえていた。
「ねぇ、ルシア。少しいいかしら」
不意に、ユリアがペンを止めて顔を上げた。
「どうしたの?」
「今日のことだけど……」
改まった口調に、ルシアは眉をひそめた。今日の気晴らしで何かあったのだろうか?
「Nostra manent secreta」
――われらの秘密は守られん。
ルシアは短く詠唱した。
ふっと周囲の音が遠ざかり、瑞希の寝息すら聞こえなくなった。天幕の外の虫の音も、風の音も、すべてが水の向こうに沈んだように薄れていく。
「もう大丈夫よ。瑞希さんにも聞こえていないわ」
「ありがとう」
ユリアは小さく息を吐くと、少し言い淀むような仕草を見せた。
「今日、三人でウルファリア大神殿に行ったのだけど……そこの古い神殿で、例の声を聞いたわ」
「この世界に飛ばされたときの!?」
ルシアは思わず身を乗り出した。
「おそらく同じ声だと思うわ。声質も、言語も、内容もそっくりだった」
「なんて言われたの?」
「『力を持つ者よ。新たな力を望むか? 』だそうよ」
「カラディンでは『力を授ける』だったかしら……」
ルシアは記憶の糸を手繰り寄せる。
「ええ。あの時は瑞希だけが魔力を得たように思えるのだけど……」
「そうだったわね。なら今回も?」
「たしかに、瑞希に向かって薄っすら魔力の帯が伸びているのは見えたわ。でも、私が拒否したら全部消えちゃったのよね」
「ユリアの拒否で?」
ルシアは怪訝な顔をした。
(あの時は有無を言わさず進んだはず……。今回は瑞希さん以外の拒否で止まる……? それともあの時も拒否すれば止まった? 誰でも停止できるような安全装置がついている?)
「そうなのよ。今回は問いかけだったから拒否が通ったとも見えるけど……神殿の聖域全体に刻まれるような大規模な魔法陣の発動を、そんなに簡単に止めるものかしらね?」
「それだけ危険で重大な魔法ってことはない?」
「ああ、そうね。いくら無駄が出ても、ミスが重大な影響を及ぼすなら、簡単に止められるようになっていてもおかしくはないわ」
ユリアが納得したように頷く。
「……そんな魔法が自動で発動して、瑞希さんに何かしようとしているのも十分恐ろしいのだけど……」
「瑞希さんを神殿に近づけないほうがいいかしら」
「理由の説明が難しいかもしれないわね……たしか、リオフェルさんによると、古代帝国の魔法陣って話だったわよね。そこから魔力の帯が伸びたから危険だから止める? 魔力の帯が見えるのは、知っている限りだとリオフェルさんとセリーヌさんだけよ」
「そこの情報を開示する必要が出てくるわけよね……」
ユリアが苦渋の表情を浮かべる。
「それに、こちらの世界に飛ばされたときと同じ声なんでしょう? 帰る手がかりにならないとも限らないわ。距離をとるだけじゃ、いずれ限界が来ると思う」
「虎穴に入らずんば、ってことね。ならなおさら瑞希さんには事情を話す必要があるわね……」
「でも、おそらく今は疑惑レベルで止まっている私たちの魔法の情報を開示する危険も考えると、全部から距離をとって、文献の調査みたいな正攻法だけで帰還方法を探すって選択肢もあるのよ」
ルシアは慎重に言葉を選んだ。
「今のところ手がかりなしでしょう?」
「それは……そうだけど……。私たちは所詮は放浪者。ただ新しく流れ着いた場所が、このアルカディアだったと考えてもいいのよ」
「……私たちだけならそれでもいいけどね。瑞希さんは帰してあげたいじゃない。両親は亡くなってしまったけど、親戚も友達もいるだろうし、こんな過酷な世界で生きていけるかどうかも分からないもの」
ユリアの声には、迷いのない強い意志が込められていた。
「……そう、ね」
(ユリアは瑞希さんと自分を重ねているのかしら……)
「やっぱり、情報を開示して協力をお願いするほうがいい気がするわ。このままじゃ、本当に死ぬまでこの世界にいることになる気がする」
「ユリアがそう言うなら……誰まで開示する?」
ルシアはユリアの決意を静かに受け止めた。
「貴族は外したほうがいいでしょうね。この世界の貴族は有能過ぎる」
「それがいいでしょうね。思わぬところで利用されかねないわ」
「なら、当事者の瑞希さん、魔法に詳しいリオフェルさんとセリーヌさんの師弟コンビは外せないわね」
「今日同行したアウレリアさんは? アラセアでも至近距離で目撃しているし、今回もなら……」
「ああ、そうね……。アウレリアさんとレオニダスさんは近くで目撃しているから、話しておいたほうがいいわね……」
ユリアが指を折って数えていく。
「その二人も入れて、全部で五人……くらいがいいんじゃないかしら?」
「そうしましょう。今度時間をとって、集めて話すことにするわ」
「ええ。さあ、もう遅いから寝ましょう」
ルシアが静かに魔法を解くと、遮断されていた虫の音や瑞希の寝息が、波が押し寄せるように戻ってきた。
「そうするわ。おやすみなさい」
「おやすみ」
二人はそれぞれの寝床に入った。ランタンの明かりが消え、天幕の中は闇に包まれる。外からは変わらず、秋の夜長の虫たちが鳴き続けていた。
【帝国紀元1799年10月25日 12:00】
【ウルファリア市街】
数日後、ユリアは副将ルシア、副官瑞希を伴い、バフラームの案内で熊獣人傭兵のオルフェンを訪ねていた。
「あの、本当にここで待ち合わせなんですか?」
瑞希が不安そうに尋ねる。
「ああ」
バフラームが短く答える。
「ここ、この前、アウレリアさんとセリーヌさんと一緒にスイーツを食べに来たお店なんですけど……」
「合っている」
目の前にはパステルカラーの外装が可愛らしい、行列のできる人気菓子店があった。甘いバターとバニラの香りが通りまで漂っている。
「……いいわ。行きましょう」
ユリアが意を決して足を踏み出す。
「ああ。すでに中で待っていると聞いている」
一行は店の奥の個室へと案内された。店内は華やかな装飾で彩られ、女性客たちの楽しげな笑い声がさざめいている。
通された個室では、テーブルを埋め尽くすほどの巨体を持つ茶色い毛玉が、小さなフォークで器用にケーキを頬張っていた。
「連れて来たぞ、オルフェン。……もうそんなに食べたのか……」
バフラームが呆れたように言う。
テーブルの上には、いくつもの空皿が塔のように積み上げられていた。この茶色い毛玉がオルフェンらしい。
「歓迎する。そこに着席。店員、新作、人数分追加」
案内してくれた店員に流れるように注文を告げると、こちらにも着席するよう太い腕で促してきた。
「こちら、例の帝国軍の大隊長、ユリア殿だ」
バフラームが紹介する。
「ユリア・コニシ。カラディン軍大隊長よ。今は東部方面軍の鉄道修理任務でここに来ているわ」
「オルフェン・グル・バルンカル。熊人。若熊傭兵団、団長」
オルフェンが簡潔に名乗った。
「見ての通り、ちょっと変わってはいるが、腕はたしかだ」
バフラームが補足する。
「近接戦闘、盾役、破壊、森林、市街地、得意」
「前線で戦うタイプなのね? シールドなんかは使えるの?」
「シールド、適性ない」
オルフェンが首を横に振った。
「……生身で受けるわけ?」
「毛皮、厚い。意外と平気」
「多少の銃弾程度なら問題ないらしい。信じがたい話だがな」
バフラームが苦笑しながら説明する。
「そう……人数はどれくらいいるの?」
「今、三十人。全部で五十人。呼べば、もっと来る」
「若熊傭兵団は構成員五十人程度だが、一族はかなり大きい。声をかければ、まだ増やせる」
「縄張り、狭い。皆、飢えてる。若熊、外に出て、稼ぐしかない」
オルフェンの声に、隠しきれない寂しさが混じる。
「うちと似たような感じだ。ただ、熊人は戦闘力が高いから勢力を維持できているだけで、持て余された若者は、この傭兵団みたいに外に出されて稼ぎ、仕送りをするのが役目になっている」
「いつか、一族、戻る。若熊、希望」
「そう……」
(口減らし、か)
ユリアは複雑な表情をした。
「これからかなり移動することになるけど、長期の仕事でも問題ないの?」
「長い仕事、嬉しい」
ちょうどそのとき、頼んであった新作のケーキが運ばれてきた。オルフェンの小さな目がケーキに釘付けになっているが、なんとか堪えてこちらに続きを促してくる。
「追加を呼ぶとしたら、どれくらい呼べそう?」
オルフェンは少し唸ってから、太い指で数を数えるように話し始めた。
「一族、様子、今は分からない。俺、いたとき、百人、出せそうだった」
「逆に、一族側から呼び戻される可能性は?」
「今まで、なかった。たぶん、これからも、きっと」
オルフェンの声が沈む。
「悪いことを聞いたわ。でも、そうね、あなたたちを雇うことに問題はないわ」
「本当か。長い仕事、か?」
オルフェンの目が輝いた。
「ええ。まずは一か月。その後も問題なければ継続するつもり」
「ありがたい」
「そちらの希望はあるかしら?」
「食い物、多め。甘味、必要」
「甘味はこいつの嗜好が強いだけかと思ったが……全体的に、酒より甘味を好む種族だ」
バフラームが肩をすくめる。
「そう。わかったわ。給料はこれくらいでどう?」
ユリアが羊皮紙を差し出す。オルフェンはそれをじっくりと見つめた。
「バフラーム。この値段、本当にいいのか?」
「ユリア殿からの評価だ」
「ううむ……ありがたい話。受ける」
「決まりね。瑞希、契約書を」
「はい、こちらです」
瑞希が準備しておいた契約書を取り出した。
「姉さん、補給品の手配もお願い」
「ええ。甘味はウルファリアで調達する形でいいかしら?」
「そうしましょう」
ユリアがさらさらと契約書にサインする。オルフェンも大きな手で慎重にペンをつかみ、不器用ながらも丁寧に自分の名を書き込んだ。
「これからよろしく頼むわ、オルフェン」
「こちらこそ、よろしく」
オルフェンが深く頭を下げる。そして、ようやく堪えきれないといった様子で新作のケーキに手を伸ばした。その嬉しそうな様子を見て、ユリアは小さく笑みを浮かべた。




