第62話 ディアグラの銀翼VIII
【帝国紀元1799年10月3日 16:00】
【ディアグラ伯爵領・東部バトマニス山】
早々に暗くなり始めた山影、その影の中の谷間に、バフラームの案内で入っていくユリアたち。
谷の奥には簡易な柵が設けられ、そこにはいくつもの天幕が張られていた。天幕は粗末な布で作られているが、補修の跡が見える。長く使い込まれたものだろう。
薪の煙が立ち上り、生活の匂いがする。だが、活気は感じられない。どこか沈んだ空気が漂っていた。
飢えと疲弊。そして絶望。もうこの集落は長くはない。
「ここが我が集落だ。……ここから先は少数にしてもらいたい」
バフラームが振り返る。その表情は緊張していた。
「ええ。もちろんよ。アウレリア、医療班を率いて中へ。レオニダス、護衛で荷物を持ってあげて。それと糧食も」
「はい」
「ハッ」
「糧食もか? ほらよ、レオニダス、隊長のこと、頼んだぞ」
カリスが荷物を渡す。
「隊長にかなうやつがいるものか」
「それもそうか、はっはっはっ」
木の門を抜け、天幕の合間を通って広場に出る。
周囲の天幕からはいくつもの顔がこちらを覗いている。老人、女、子供。警戒の色を隠さない。中には怯えた表情を浮かべる者もいる。
帝国軍の姿を見て、天幕の中に引っ込む者もいた。子供を抱いて慌てて隠れる母親。武器を手に取ろうとして、家族に制止される若者。
ユリアは周囲を見渡す。天幕の数は百を超える。だが、どれも小さく、一家族が入るのがやっとのように見える。
広場の隅には薪が積まれているが、その量は少ない。食料を調理する場所も質素で、使い込まれた鍋がいくつか置かれているだけだった。
「治療が必要な者は?」
「あの奥の天幕の中だ」
バフラームが指差す。
「おい、バフラーム! なんで帝国の人間を集落に入れた!?」
突然、横合いから老いた鳥人が怒鳴り込んでくる。
羽毛は灰色に変わり、くちばしには欠けた跡がある。首や腕にはいくつもの装飾品が巻かれており、高位な者のように見える。だが、その装飾品も古びて、光沢を失っていた。
周囲の鳥人たちは二人のやり取りを見ると、慌てて天幕の中に引っ込んでいく。誰も近づこうとしない。広場には長老とバフラーム、そしてユリアたちだけが残された。
「言っただろう! 交渉の結果だと!」
「帝国人を信用すんなと教えられなかったか!? あいつらに何度ひでえ目に合わされたことか!」
「そんなことを言ってられる状況じゃなかったんだ!」
「フン、どうだか? 戦いもせずに口で負けておいて、何が族長だ」
「いくら長老と言えども許されんぞ……!」
二人の言い争いがエスカレートしていく。
少し騒がしいわね……集落ではあまり脅したくないのだけど……。
少しだけ身に魔力をまとう。
「ご老人。私はこの者を族長と認め、交渉相手として認めたからここにいるのです。この者じゃなければ今頃ここは火の海に沈んでいたでしょう。あなたもこの者を族長として認めていたのでしょう? 信じてはどうですか? それとも、あなたが私の前に立ちますか?」
「な、あ……」
ユリアの威圧の前に老鳥人は腰を抜かす。
圧を解き、目線を合わせる。
「族長と話をさせてもらってもいいですか?」
「あ、ああ……バフラーム、お前に任せる……」
「決して粗略には扱いませんよ。さあバフラーム殿、静かな場所で話しましょうか?」
「わ、わかった。そこの天幕に準備をさせている」
「あそこね。行きましょう」
先行するユリアを慌ててバフラームが追ってくる。
すぐにバフラームが追い抜き、天幕の入口を開け中を案内する。
木に簡単な加工をしただけのテーブルに、丸太そのものの椅子。家具は質素だが、清潔に保たれている。
しかし、テーブルクロスや椅子に置かれたクッションは、帝国では見たことのない鮮やかな色彩だった。深い青、鮮やかな赤、明るい黄色。複雑な幾何学模様が織り込まれ、光の加減で色合いが変わる。
貧しくとも、誇りを失っていない。ユリアはそう感じた。
向かい合って座る二人。
用意された酸味の強い果汁が入った乳飲料に口をつける。少し癖があるが、悪くない味だ。
「ユリア殿は平然と飲まれるのだな」
「あなたたちのもてなしでしょう? それに、美味しいわよ」
「ありがたい言葉だ。帝国の方は我らのもてなしを口にされることが少ないのでな」
ユリアが椅子のクッションに手を触れる。滑らかな手触りだ。
「帝国と獣人は長年敵対していると聞くけど、交流もそれなりにあるの?」
「国同士はそうだが、全ての部族がそういうわけではないのだ。我々も時折南の交易都市に行商に行き、そこで帝国人と取引することもある」
「へぇ、商品はこの見事な織物?」
ユリアがテーブルクロスの端を指で撫でる。バフラームの表情がわずかに和らいだ。
「織物はあまり帝国人には受けがよくなくてな……。やはり貴族に受けが悪いものは物好きにしか売れないな。どちらかと言うと都市国家群の方がよく売れるな」
「そうなの。もったいない。じゃあ帝国には何を売っているの?」
バフラームの体が一瞬強ばる。器を持つ手が止まった。
「……薬草と傭兵だ」
ユリアが器を置く。視線をバフラームに向ける。
「薬草は不足していそうね。傭兵ができそうな者はどれくらいいるの?」
「……群れを離れられる者は私を含めて10人程だ」
「もっと兵はいそうだけど?」
ユリアが首を傾げる。
「家族の唯一の男手だったり、まだ一人で戦えない未熟な者は除いている」
「全ての兵の数を教えて」
バフラームが視線を逸らす。だが、答えないわけにはいかないと悟ったようだ。
「……戦えるものは50人。怪我や病気ですぐには戦えない者が30人だ」
全部で80人……普通ではありえない割合ね。遊牧民のように成人の多くが戦える文化なのかしら?
「集落全体で500人くらいかしら? なかなかの比率ね」
バフラームが身を乗り出す。
「だが、この者たちを全て出すことはできん! この者たちが狩りなどで食料を調達してるんだ!」
普通に考えればそうでしょうね。でも、そのやり方では無理だったのよ……。
ユリアが穏やかに微笑む。
「そうでしょうね。ならこうしましょう。兵の全てと、働けるものを全て傭兵や補助要員として私の部隊で雇いましょう。家族の同行も許可する」
「それは……どういう意味だ?」
バフラームが目を見開く。理解が追いついていないようだ。
「給料は多くは渡せないけど、食事は提供するし、支払いを行えば家族の分を追加で提供することも認める」
「どういう……」
バフラームの手が震えている。乳飲料の入った器を置き、ユリアを見つめる。
「あなたの部族を丸ごと雇うって言ってるのよ。部族の民は移動はできる?」
「移動は……元々我らは遊牧生活をしていたから問題ないが……」
バフラームの声が掠れる。その目には驚きと、そして希望の光が宿っていた。
「なら大丈夫ね。すぐに結論はいいわ。よく話し合ってちょうだい」
ユリアが立ち上がる。
「あ、炊き出しをしてもいいわよね?」
「あ、ああ、感謝する……」
バフラームが呆然とした表情で頷く。
「じゃあ、準備してくるから。よく話し合って」
「ああ……」
天幕を出ると、山の稜線から月が見え始めていた。
「どうでしたか?」
レオニダスが近づいてくる。
「後は彼らの選択次第ね」
「そうですか……。医療班も初期治療を終えたようです。栄養失調が多く、集落に持ち込んだ糧食はあまり残っていないようですが……」
「すみません、ユリア様。どうしても栄養が必要な方が多く……」
アウレリアが申し訳なさそうに頭を下げる。
「いいえ、よくやったわ。レオニダス、追加分を持ってきて。アウレリア、炊き出しの準備を」
「追加を? よろしいので?」
「ええ。そのために持ってこさせたのだから使わないと。フィリオに麓からの追加輸送もお願いしておいて」
「ハッ」
「アウレリア、炊き出しの時は子供を中心に族長バフラームが交渉して私を動かしたと話しておいて」
「それでいいのですか? もちろん否やはありませんが……」
「ええ。よろしくね」
「はい、おまかせください」
二人が動き出し、すぐに広場には粥などの香りが立ち込み始めた。
始めは警戒していた鳥人たちだったが、やがて一人の女性が恐る恐る近づいてきた。治療を受けた鳥人の妻のようだ。手には幼い子供を抱いている。その子供は痩せており、頬がこけていた。
「あの……本当に、もらってもいいのか?」
「ええ、どうぞ。お子さんの分もありますよ」
アウレリアが優しく微笑む。女性は驚いた表情で粥を受け取り、子供に食べさせ始めた。子供は夢中で粥をすすり、母親が涙ぐむ。
それを見た他の家族たちも、少しずつ列を作り始める。小さな子を持つ親たち、治療を受けた者の家族、老人たち。
「あったけえ……」
「こんなにもらっていいのか……?」
「帝国軍が……なんで……」
鳥人たちの声が聞こえてくる。戸惑いと、そして安堵の声だ。
「族長が……帝国軍を動かしてくれたんだと?」
「ああ、そう聞いたぞ」
「バフラームが……」
鳥人たちの間で囁きが広がっていく。
子供たちが粥を食べながら笑い声を上げている。その声を聞いて、さらに多くの鳥人が天幕から出てきた。やがて村の多くの者が受け取るようになっていた。
ユリアはその様子を遠くから静かに眺めている。
さぁ、あなたはどう決断するかしら? でも、もう逃がすつもりはないわ。
広場の端、天幕の影からバフラームが様子を見ていた。その目には複雑な光が宿っている。族長としての責任、部族への愛情、そして帝国軍への複雑な思い。
やがてバフラームは静かに天幕の中へと戻っていった。




