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終末の血族  作者: 天津千里
1章:異界に堕ちた日
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第5話 異界に堕ちた日I

【2029年3月24日 17:00】

【久世市郊外・山道】


 雨宮瑞希は後部座席から夕暮れの空をぼんやりと眺めていた。高校二年生最後の登校日が終わり、補習からの帰り道。明日からは新しい土地での生活が始まる。

 不安がないわけじゃない。知らない学校、知らない人たち。両親が決めたことだから――きっと、いいことがあるはず。そう信じたかった。


「......あの子たち、まだバイトしてんのかな」


 瑞希はぽつりと呟き、スマホを伏せた。画面には既に「圏外」の文字が出ていた。山奥に入ったことで、あの子たちと連絡を取るのも難しくなる。別れ際の「また連絡するね」という言葉が、遠い約束のように胸に響いた。


「瑞希、疲れた? もう少しで宿よ」


 前の助手席から、母の声が優しく届く。いつもの、包み込むような声。振り返った横顔には、娘を気遣う温かい笑み。


「うん、ちょっと眠いだけ。酔ってはないよ」


 運転席の父が、ルームミラー越しに目を細めて笑う。笑うと目尻に刻まれる皺を、瑞希は昔から好きだった。


「さすがだな。俺はもう山道の運転がしんどくて。年には勝てないかな」

「お父さん、まだ若いじゃない」


 瑞希が苦笑すると、母も一緒になって笑った。いつものやり取りに、心が温かくなった。

 父は嬉しそうに窓の外を指差した。


「ほら見てみ。景色すごいぞ」


 母がいつものように軽く肩を叩く。


「あなた、前を見てて」

「はいはい」


 言われて窓の外に目を向けると、山の稜線が血のように赤く焼けていた。陽が落ちかけた空で、千切れ雲が流れるように動いている。美しい――瑞希は素直にそう思った。新しい土地にも、こんな夕焼けがあるのだろうか。


「新しい学校、楽しみ?」


 母が振り返って尋ねる。心配そうな、期待に満ちた表情で。眉をわずかに寄せるのは、母の癖。


「うん......ちょっと不安だけど、大丈夫だと思う」

「瑞希なら大丈夫よ。どこに行っても、すぐお友達できるもの」


 母の言葉に、瑞希はそっと微笑んだ。根拠はないけれど、母がそう言ってくれると本当にそんな気がしてきた。

 カーブの続く山道を、車は注意深く下っていく。杉林の合間を縫うように進み、時折開ける景色の向こうに町の明かりがきらめいていた。やがて前方に錆ついた鉄橋、その向こうに一軒だけぽつんと建つ洋館。薄暮に包まれてひっそりと佇む古い建物を見つめながら、瑞希は小さくつぶやいた。


「......綺麗だね。でも、少し寂しい感じもする」


 母が振り向いた。その眼差しは、すべてを見透かしたように優しかった。


「それはたぶん、今感じている寂しさよ」


 瑞希は照れくさそうに目をそらす。

(......べつに、そんなに仲良かったわけじゃないのに)

 胸の奥が、確かに少し温かくなった。

 時が止まったような静寂を湛えた洋館が、車窓の向こうをゆっくりと過ぎていく。エンジン音だけが山間の静けさを破っていた。

その時だった。


「......あれ、なんだ?」


 父の声が硬くなった。

 瑞希が反射的に前を向いた。道の先のカーブに、異様な光景。

 空間そのものが溶け始めたかのように、現実が歪んでいく。熱を帯びた大気が肌を刺し、異臭が鼻腔を衝いた。

 その向こうに――蜃気楼というには余りに鮮明な、古い石造りの街並みが脈動するように現れる。尖塔、城壁、石畳の道――まるで中世の街がそのまま現れたかのように。


「嘘......何、あれ......」


 瑞希の呟きは震えていた。幻影は淡く光る粉を撒いたように輝き、現実の風景を侵食していく。街並みの奥で、何かが蠢いている。


「あなたっ――危ない!」


 母の甲高い絶叫が響いた瞬間、父がハンドルを切る。もう遅い。

 タイヤが悲鳴を上げて路面を滑り、ガードレールが火花を散らして砕けた。強烈な衝撃が身体をシートベルトに叩きつける。

 瑞希の視界は天地を失い、激しく回転した。車は勢いを止められずに宙に舞い、重力に引かれて暗い谷底へと落下していく。

 金属の軋み、ガラスの破砕音――時間が引き延ばされたかのように、ゆっくりと、ゆっくりと墜ちていく。意識が暗闇に吸い込まれる直前、あの石造りの街の幻影が消えていくのが見えた。

 すべてが闇に包まれた。


 どれくらい時間が経ったのだろう。

 谷底を流れる川のせせらぎが、途切れることなく響いていた。木の葉が風に揺れる音、遠くで梟が鳴く声。それらが混ざって、混濁した世界の中で、瑞希はゆっくりと目を開いた。

 辺りはすっかり暗くなっていた。夕暮れだったはずなのに、今は深い紺色の夜空に星がまたたいている。事故からどれくらい経ったのか――時間の感覚が曖昧だった。


「......う.............」


 何が起きたのか、すぐには思い出せなかった。視界の端で何かが赤く明滅していて、自分の体が酷く痛む。口の中に鉄の味、鼻腔を刺す甘ったるい匂い――血の匂いが、自分の吐息と混じっていることに気がついた。

 身を起こそうとして―――右腕に、焼けるような激痛が走った。


「あ......あぁ......」


 声にならない呻きが漏れる。動かない。恐る恐る左手で触れてみると、腕が途中で妙な方向に曲がっていた。骨が折れている。胸の奥は軋むように痛み、呼吸をするたびに肋骨がきしむ。腹部がひりひりと疼き、制服のブラウスが血で重くなっている。


「......ママ......? パパ......?」


 かすれた声で呼んでみた。答えはない。前を見ようとして―――息が止まった。

 車の前方部分は完全に潰れ、運転席も助手席も、見る影もなく押し潰されている。金属と血とガラスの塊。エンジンからは白い煙が立ち上り、どこかでオイルが燃えるような匂い。

 父の姿も、母の姿も、そこにはもう―――人の形をしたものは、何も。


「嘘......嘘でしょ......」


 声が震える。さっきまで笑っていた。話していた。お父さんは景色を褒め、お母さんは振り返って微笑んで――

 それが、これで終わり?


「パパ......ママ......嘘だよね......?」


 誰も答えてくれない。夜風だけが、冷たく頬を撫でていく。

 現実を受け入れたくない。これは悪い夢だ。きっと悪い夢に違いない。

 痛みは現実で、血の匂いも現実で――この絶望的な静寂も、紛れもない現実だった。

 もう二度と、あの優しい声は聞こえない。もう二度と、あの温かい手に触れることはできない。

 明日からの新生活も、新しい学校での出会いも――すべてが、一瞬で遠い過去になってしまった。

 涙が頬を伝った。それすらも途中で止まってしまう。

 絶望が津波のように胸を満たす。ついさっきまで確かに存在していたすべてが、一瞬で遠い過去になってしまった。

 全身が痛む。寒気が骨の芯まで染みる。頭は割れるように痛み、車は谷底近くの大きな杉の木に引っかかって傾いたまま止まっていた。いっそ眠ってしまえば、この苦痛から逃れられるのだろうか。

 思考がまとまらない。この重い怪我と、人里離れた山奥という状況で、助けは本当に来るのだろうか。

 だんだん、どちらでもいいような気がしてきた。

 その時、何かが草を踏むような物音が聞こえた。

 瑞希は反射的に目を凝らす。草を踏む音、小石が転がる音。一定のリズムを持った――これは、足音だろうか。

 複数の人影、二人だろうか。そして、揺らめく光。松明のような、でも違う。やわらかく、温かい光。

 二つの人影が、急ぎ足でこちらに向かってくる。声が聞こえるが、言葉が上手く聞き取れない。

 身体がどんどん冷えていき、視界が白く霞んでいく。さっきまであれほど激しかった痛みも、もう遠いもののように感じられた。

 光が近づいてくる。やわらかく、温かくて、どこか懐かしい。

(あれ......人?)

 暗く沈んでいた視界の中に、誰かの姿がはっきりと浮かび上がった。

 月光に髪が揺れる優美な女性と、小柄で銀髪の少女が立っていた。どちらも、その立ち振る舞いには普通の人とは違う、何か神秘的な気配。まるで絵画から抜け出してきたかのような、この世のものとは思えない美しさを纏っている。

 自分の腕や胸に、誰かの手が触れているのを感じた。冷たいはずなのに、なぜか温かい。

 耳元で、優しい声が響いている。言葉はうまく聞き取れない。聞き慣れない響きだった。外国語? でも、それにしては音楽のような......旋律のような美しさ。

 驚いたことに、あれほど激しかった身体の痛みが、少しずつ和らいでいく。折れたはずの腕の焼けるような熱が引いて、胸にあったはずの痛みも、ゆるやかに消えていく。

(これ......なに? 治ってる......? でも......)

 違う、これは夢に違いない。だって、こんな光、こんな人たち――現実にいるはずがない。


「......天使、みたい......」


 自分でも驚くほど、かすれた声が口から漏れた。その声に気づいたのか、小柄な方の少女がわずかに動いたような気がした。意識が薄れて、はっきりと見ることができなかった。

 不思議と恐怖はなかった。この人たちは――この天使のような存在は、自分を救ってくれる。そんな確信が、弱々しい心に宿った。

 お父さんとお母さんが、天国から遣わしてくれたのかもしれない。

 視界がぼんやりとかすんでいく。温かさとともに、深い眠気がゆっくりと全身を包み込む。安らぎに満ちた眠り――それは、痛みも悲しみも忘れさせてくれる、慈悲深い闇だった。

 意識が深い静寂の中へと落ちていく中で、奇妙な音が聞こえ始めた。風音だけが、耳の奥で響いている。

 やがて、すべてが静寂に包まれた。


【同日17:30】

【久世市郊外・山道谷底】 (ユリア視点)


 月明かりが谷底を照らす中、二つの人影が静かに動いていた。

 指輪が発していた淡い蒼光が薄れていく。

 ユリアは深く息を吐き、震える指先を見下ろした。小柄な体を屈め、少女の傍らに膝をつく。彼女の銀髪が夜風に揺れ、紅い瞳に疲労の色が滲む。黒いブラウスに深紺のスカートという落ち着いた装いだが、袖口は血に染まっている。

 少女の身体には、命の気配が戻っていた。呼吸は浅いが規則正しく、鼓動も微かだが確かに脈打っている。顔色も、死人のような青白さから、薄っすらとした血の気を取り戻している。


「......ひとまず、峠は越えたようね」


 隣で治癒の補助をしていたルシアが、そっと囁いた。すらりとした長身を優雅に折り曲げて座る姿は、まるで舞踏会の貴婦人のようだった。彼女の金の髪が月光を受けて絹のように輝き、蒼い瞳には深い慈愛が宿っている。

 頷きながら、ユリアは安堵の息を漏らす。少女の傷は想定していたより深く、思った以上に魔力を使ってしまった。指輪に込められた治癒の力も、ほぼ底を尽きかけている。


「治癒はあとは私が引き継ぐわ。ユリア、あなたは少し休んで。魔力を使いすぎてるみたいだから」


 ルシアが手を差し出し、治癒の続きを申し出る。その薬指に嵌められた銀の指輪が、ユリアのものとは異なる淡い金色の光を宿していた。ユリアは感謝の気持ちを込めて頷く。


「ありがとう、ルシア。それじゃあ、私は車の様子を調べてくる」


 立ち上がったユリアは、木に引っかかった車へと向かった。

 車に近づくにつれて、惨状がより鮮明になった。前方部分は原形を留めないほど潰れ、運転席と助手席は完全に押し潰されている。フロントガラスは粉々に砕け、ダッシュボードからは煙が立ち上っている。

 運転席と助手席の二人は――もう、助からない。

 車内を見回すと、事故の衝撃で後部座席に投げ出されたカバンが目に入る。留め具が外れて中身があちこちに散らばっており、その中に学生証が見えた。ユリアは小さな手でそれを拾い上げる。


「雨宮瑞希......」


 カードに記された名前を、ユリアは小さく呟いた。アメミヤ・ミズキ。写真には、人懐っこそうな笑顔の少女。高校二年生―――まだ十七歳の、若い命だった。

 きっと、家族と一緒にどこかへ向かう途中だったのだろう。楽しい旅行だったのかもしれない。それが、一瞬で悲劇に変わってしまった。

 ユリアの胸に、古い記憶が蘇る。自分もかつて、一夜にしてすべてを失った。あの時の絶望、孤独感、世界が崩れ落ちる感覚―――この子も目を覚ましたとき、きっと同じ思いをするのだろう。

 自分にはルシアがいた。

 しかし、この子はたった一夜で未来も過去も失った。

(この命を救ったことは、せめてそれだけでも意味があると信じたい)

 胸が締め付けられる。救えた命への安堵と、これから背負わなければならない責任への重圧が入り混じった。この子を守らなければ――そんな使命感が、静かに芽生え始めていた。

 しばらくそこに立ち尽くしていたユリアだったが、ふと、妙な風音が響いているのに気づいた。耳の奥で風音だけが響く。

 見回すと、どこからともなく銀色の霧が立ち込め始めていた。まるで生きているかのように蠢きながら、三人を包み込もうとしている。

(何かおかしい......)

 空気がざわめいている。肌がざわつく。魔力に敏感なユリアの感覚が、何か得体の知れないものの接近を告げている。


「ルシア、ここを離れましょう。何かおかしいわ」


 ユリアが振り返り、声を上げると、ルシアも顔を上げた。金髪が不安げに揺れている。


「たしかに何か変ね。彼女の状態も安定してきたし、離れたほうが良さそうだわ」


 ルシアも同じような違和感を覚えたようで、立ち上がりながら周囲を見回している。霧はどんどん濃くなり、視界を遮り始めていた。


「......来る。これは一体......?」


 ユリアが低く呟いた瞬間――

 世界が変わった。

 濃密な霧が三人を呑み込み、突然の嵐が空間を引き裂く。現実の境界が曖昧になり、光の粒子が舞い踊った。見えない力に引かれるまま、三人は次元の狭間を漂っていく。

 耳の奥で風音が轟き、世界が虹色に染まった。遠い彼方から、巨大な石造りの影が姿を現した。

 意識が薄れゆく中で、ユリアは最後の力を振り絞って瑞希をしっかりと抱きしめた。この子を、絶対に失ってはならない。

 すべてが光に包まれて――

 新たな世界で、新たな運命が三人を待っていた。

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