第43話 アラセアの花VIII
【帝国紀元1799年6月25日 17:30】
【アルデリス伯爵領・アラセア正門付近】(ルシア視点)
西の山間に沈み始めた夕陽が、アラセアの背後にそびえる山を赤く照らしていた。街は山影に入り、一足早く暗がりに沈み始めている。
荒れ果てた正門前。ルシアはユリア中隊の留守部隊を率いている。周囲を警戒しながら片付けを進める兵士たちの様子を確認した。ゾンビの死体を運び出す者、バリケードの残骸を整理する者。疲労の色は濃いが、作業は順調に進んでいる。
胸の奥に、何か冷たいものを感じた。空気が震えるような感覚。魔力の波動だ。
顔を上げる。街の中心部、高台の方角から濃密な魔力が流れてくる。
「これは……ユリアの魔力?」
間違いない。ユリアが魔力を解放している。この街で戦闘中、これほど強い魔力は感じなかった。なぜ今?
近くにいたセリーヌが慌てた様子で周囲を見回す。
「へ? あ、あれ? これ、なんですか!?」
魔力に敏感な者なら、誰でも感じ取れる規模だ。セリーヌの声は上ずっている。
「……街中で何かあったみたい。ユリアの様子を見に行ってくるわ」
静かに言う。落ち着いた声だったが、胸の奥では不安が広がっていく。ユリアが魔力を解放するほどの事態。それは尋常ではない。
「こ、これ、隊長の!?」
セリーヌが驚愕の声を上げた。
「少しここを任せるわよ」
「え!? わ、私も行きます!」
セリーヌが一歩前に出る。
「指揮官がみんないなくなっちゃダメでしょ。少し様子を見てくるだけよ」
ルシアは首を横に振った。誰かがここに残らなければならない。
「……わかりました」
セリーヌは不安そうな表情を浮かべたが、頷いた。
「じゃあお願いね」
「はい」
ルシアは周囲を見渡した。
「魔導小隊第三分隊ついてきて。それと医療班も何人か」
「ハッ」
兵士たちが素早く動き出す。
(ユリアが魔力を解放するなんて……まさか瑞希が? でもなんでこのタイミングで?)
胸の奥で嫌な予感がする。瑞希の魔力暴走。以前、カラディン城館で見た光景が脳裏に浮かぶ。あの時の、制御を失った魔力の奔流。
「第三分隊準備できました」
兵士の声に我に返る。
「わかったわ。急ぎましょう」
一行は正門を抜け、暗くなり始めた中央の坂道を駆け足で登り始めた。
石畳の道には崩れたバリケードが散乱している。その周囲には、深々と切り裂かれた死体がいくつも転がっていた。ゾンビの残骸だ。ユリアが通った痕跡だろう。
坂道を登るにつれて、魔力の気配が強くなる。肌がざわめいた。
城館が近づいたところで、ふと気づく。
(これは……こっちの高台?)
魔力の中心は城館ではない。もっと奥、北西の高台。あそこには確か――
「こっちよ」
進路を変える。兵士たちが慌てて後を追った。
「ふ、副官殿、この魔力はなんなんですか!?」
兵士の一人が不安そうな声を上げた。
前方から複数の足音が聞こえてきた。城館の方角から、松明の明かりが近づいてくる。
レオニダスだった。数名の兵士を率いて駆けてくる。
「これはルシア殿!」
息を切らせながら声をかけてきた。
「レオニダスさんもこの魔力で?」
「はい。これは一体? 私でも気づけるなど尋常じゃありません」
声には明らかな動揺があった。彼ほどの歴戦の兵が動揺するほどの魔力。
「……ユリアと、あともう一つ誰かの魔力よ。おそらくは瑞希ね」
「ミズキ殿ですか!?」
レオニダスが驚きの声を上げる。
「ええ。急ぎましょう」
「は、ハッ」
二つの部隊が合流し、魔力の発生源へと向かう。石畳を踏む足音が夜気に鳴った。
坂道の途中で足を止める。
前方の高台、神殿のある方角から、暴れるような光が見える。風がうなる音。魔力がぶつかり合う衝撃が、空気を震わせている。
兵士たちも立ち止まり、恐る恐る高台を見上げた。
半ばまで登った頃、突然、あたりに静寂が戻った。
光が消える。風の音も止む。
息を呑む。
(収まった……?)
魔力の波動が急速に弱まっていく。ユリアの魔力だけが、かすかに残っている。
「……急ぎましょう」
再び駆け出す。
やがて視界が開け、壊れた神殿の扉が見えてきた。正面の扉は無残に破壊され、周囲には死体が散らばっている。
神殿を見上げる。建物のあちこちに損傷が見える。壁に亀裂が走り、窓は割れている。
「さっきの魔力は……裏手みたいね」
魔力の残滓が、神殿の裏手から流れてくる。
「建物の中は危険です。外から廻りましょう」
レオニダスが冷静に判断した。
「ええ」
頷き、神殿の外壁に沿って裏手へと向かう。
石壁には深い亀裂が走り、崩れ落ちた石材が散乱している。焦げた跡、削れた石。魔力による損壊だ。
「こ、これは……」
レオニダスが息を呑む。兵士たちもざわめいた。
「落ち着いて。もう魔力は収まっているわ」
静かに言う。
渡り廊下が見えてきた。その先に、崩れかけた倉庫がある。壁が大きく崩れ、屋根の一部が陥落している。木材が裂け、瓦が散乱していた。
そして――
銀色の髪が、夕陽を受けて輝いていた。
* * *
倉庫の前、瓦礫が散乱する場所に、ユリアがいた。
小柄な少女をそっと抱きしめている。瑞希だ。ユリアの胸に顔を埋めたまま、小さく肩を震わせている。泣いていたのだろう、顔には涙の跡が残っている。
その奥、倉庫の入口には白い巫女服の少女が座り込んでいる。虚ろな目で、何かを見つめていた。壊れた扉の向こう、その下に神官服の裾が見える。
息を呑む。
「ユリア!」
駆け寄る。ユリアが顔を上げた。疲労の色が濃いが、笑みを浮かべている。
「あら、姉さんにレオニダスまで。少し驚かせてしまったわね」
その声はいつもと変わらない。だが分かる。ユリアも相当に消耗している。
「これは一体……」
周囲を見回す。激しい魔力がぶつかり合った痕跡だった。
「瑞希がちょっと魔力が暴走しちゃってね」
ユリアは瑞希の髪を優しく撫でながら言った。瑞希はもう泣き止んでいるが、小さく身体を震わせている。
「それより、そこの女の子を保護してあげて」
ユリアが視線を向けた先、巫女服の少女が呆然と座り込んでいる。
「城館で最後まで生き残った医療者よ。名はアウレリア。おそらく過労だと思うけど、念のため検査して」
「え、ええ。医療班、彼女を」
振り返ると、後方に控えていた医療班の兵士が慌てて少女――アウレリアに駆け寄った。
「お嬢さん、少し診せていただけますか」
医療班の兵士が優しく声をかける。アウレリアは虚ろな目のまま、ゆっくりと頷いた。言葉を発することもなく、兵士に促されるまま立ち上がる。その足取りはおぼつかない。
医療班が少し離れた場所へアウレリアを誘導していく。
ユリアも瑞希を抱えたまま立ち上がった。
「担架を」
医療班の別の兵士が慌てて担架を広げる。ユリアは瑞希をそっと担架の上に横たえた。瑞希の顔には涙の跡が残っている。目を閉じ、浅い呼吸を繰り返していた。泣き疲れたのだろう。ショックと疲労で、意識を失っているようだ。
「瑞希が暴走したって……どうしてまた?」
不安を隠せなかった。カラディン城館での暴走を思い出す。あの時も、瑞希は記憶の断片に苦しんでいた。
「そこの倉庫でアウレリアの家族が圧死していたわ。扉の下に挟まれて……それがきっかけだとは思うんだけど……」
ユリアの視線を追うと、倉庫の壊れた扉の下に神官服の裾が見えた。
「今まで瑞希は家族のことなんてまったく話さなかったじゃない?」
「ええ。それで辛い記憶を封じ込めて……そういうことなのね」
瑞希はずっと、あの事故の記憶を心の奥底に押し込めていたのだ。両親の死。自分だけが生き残った罪悪感。それらすべてを。
「おそらくね。だいぶ混乱していたから、相当いっぱい思い出したんじゃないかしら……」
ユリアの声は心配そうだった。
「それは……ちょっと今後が心配ね」
「ええ」
重い沈黙が降りた。
「隊長殿」
レオニダスが一歩前に出た。
「ん、なに?」
「その、瑞希殿は一体? 魔力が強いとは知っていましたが……あれはあまりにも」
レオニダスの声には困惑があった。彼ほどの歴戦の兵が動揺するほどの魔力。それは尋常ではない。
「私たちにもよく分からないのよ。最初は魔力はなかったはずなんだけど……」
ユリアは小さく首を振った。
「そう……ですか」
レオニダスは納得していないようだったが、それ以上は追及しなかった。
(レオニダスが瑞希の魔力を気にするなんて意外ね。魔法にはあまり興味なさそうだったけど)
ルシアは内心で思った。レオニダスは実直な武人だ。魔法よりも剣と槍を信じるタイプだと思っていた。それが瑞希の魔力を気にしている。よほどの衝撃だったのだろう。
「さあ、落ち着いたから本陣に戻りましょうか」
ユリアが言った時、後方からアウレリアの声が聞こえた。
「あの、ユリアさん」
振り返ると、アウレリアが医療班の兵士と共に歩いてきていた。まだ顔は青白いが、先ほどよりは焦点が定まっている。
「明日、朝から埋葬するわ。もう少しだけ待ってちょうだい」
声は優しかった。
「ありがとうございます……」
アウレリアは小さく頭を下げると、壊れた扉の手前まで歩いていった。膝をつき、扉の向こうに視線を向ける。
「ごめんなさい、お義父さん、もう少しだけ待ってね」
声は震えていた。涙が頬を伝う。
しばらくそのまま祈りを捧げていたアウレリアは、ゆっくりと立ち上がった。
「お待たせしました」
「もういいの?」
ユリアが確認する。
「はい。皆さまにご迷惑をおかけするにはいきませんから」
アウレリアの声には、無理に気丈に振る舞おうとするものがあった。
「……そう」
ユリアは何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
「隊長殿、私は城館を撤収させてきます。部下は伝令として各部隊に向かわせようと思いますが」
レオニダスが提案した。
「わかったわ。よろしく」
「ハッ」
レオニダスは兵士たちに指示を出し、自らは城館の方へと向かっていった。兵士たちも散っていく。
ルシアは夕陽を見上げた。もう山の稜線に隠れかけ、あたりは薄暗さを増していく。暗くなる前に、正門まで戻らなければ。
「戻りましょう」
ユリアが言った。
「ええ」
一行は神殿を後にした。担架に乗せられた瑞希、医療班に付き添われるアウレリア、そしてユリアとルシア。
アラセアの街に、夜の帳が降り始めていた。
* * *
【帝国紀元1799年6月26日 13:00】
【アルデリス伯爵領・アラセア正門前】
正午を過ぎた陽光が、荒れ果てた街を照らしている。朝からの埋葬作業を終え、ユリア中隊の面々は出発準備を整えていた。
正門前の広場には、兵士たちが隊列を組んでいる。魔導小隊、近接小隊、そして輜重部隊。荷馬車には物資と共に、アラセアの生存者たちが乗せられていた。文官や商人など、数十名ほど。疲労の色は濃いが、救出されたという安堵も見て取れる。
ユリアは隊列を見渡した。兵士たちの表情は引き締まっている。任務はまだ終わっていない。バヤジドでリディア大隊と合流するまで、気を抜くわけにはいかなかった。
「予定より少し早いけど合流地点に向かうわよ。出発」
号令が流れた。
「ハッ」
兵士たちが一斉に応える。道案内の兵士を先頭に、一行はアラセアを発った。
先頭の魔導小隊が正門を抜け、街道へと進んでいく。続いて近接小隊、そして輜重部隊。馬車の車輪が石畳を軋ませながら、ゆっくりと動き出した。
部隊が順次出発するのを待ちながら、後方の輜重部隊へと歩く。生存者たちの様子を確認しておきたかった。
荷馬車の周囲には、護衛の兵士が配置されている。その一角、正門の外に白い巫女服の姿が見えた。
アウレリアだった。
街の方角を向き、静かに祈りを捧げている。その背中は小さく、風に巫女服が揺れていた。
足音を立てないように近づく。
アウレリアがこちらに気づいたようで、振り向く。
「ユリア様」
「邪魔しちゃったわね」
ユリアは軽く手を上げた。
「いえ。ちょうどお別れの挨拶を終えたところだったので……どうされました?」
アウレリアの声は落ち着いていた。昨夜のような虚ろさは消え、しっかりしている。
(お義父さんに、最後の挨拶をしていたのね)
ユリアは内心で思った。アウレリアが見つめていた方角。あそこには神殿がある。埋葬した墓がある。
「ちょっと様子を見にね」
ユリアは視線を街へと向けた。荒れ果てた建物、崩れたバリケード。まだゾンビの死体が残っている場所もある。それでも、この街は守られた。
「……ほんとに私たちに同行するの? あとでアルデリスに帰るから、そこで保護してもらっていいのよ?」
ユリアは改めて確認した。アウレリアは若い。これから先、危険な戦場に身を置くことになるかもしれない。
「はい、大丈夫です。もう私に帰る家はありませんから……それに、ここでならきっとお役に立てると思うんです」
アウレリアの声には、静かな決意があった。
「そう? ……無理はしないようにね?」
「はい、ありがとうございます。ユリア様」
ユリアはその呼び方に眉をひそめた。
「私は貴族でもないのだから"様"はつけなくていいのよ」
「これが一番しっくりくるので……ダメですか?」
アウレリアが小首を傾げる。その仕草には、どこか可愛らしさがあった。
「……わかったわ、好きになさい」
小さく息を吐く。
「はい、ユリア様」
アウレリアが微笑む。昨夜とは違う、穏やかな笑みだった。
「元気そうだから戻るわ。何かあったらすぐ言うのよ」
「ありがとうございます」
踵を返し、先頭へと戻っていく。背後から、アウレリアがもう一度街を振り返る気配がした。
強い子ね。
家族を失い、故郷を失った。それでも前を向こうとしている。その強さは、尊敬に値するものだった。
先頭の部隊が街道を進んでいく。ユリアは馬に跨り、隊列の先頭へと向かった。
アラセアの街が、徐々に小さくなっていく。
バヤジドまでは、まだ距離がある。気を引き締めて進まなければ。
前方を見据える。街道は続いている。その先に、リディア大隊が待っているはずだった。




