第42話 アラセアの花VII
「けが人ですか? 噛まれていますか? さあどうぞこちらへ......」
この女性がアウレリア......?
自動的に応じるような口調。瞳に焦点がない。極限の疲労と恐怖が、正常な判断力を奪っているのだろう。
「あなたがアウレリアね? けが人ではないわ。あなたを助けに来たのよ」
アウレリアの動きが止まった。
「私を? ......あなたは?」
「カラディン軍所属、ユリアよ。中隊長をしているわ」
「そう、ですか......」
力なく頷く。まだ状況を理解できていないようだ。
「アラセアの街の敵は私が打ち払っているところよ」
「敵を......」
アウレリアの目が一気に焦点を結んだ。
霞んでいた意識が、一瞬で鮮明さを取り戻す。
「街は!? 神殿はどうなったんですか!?」
掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ってくる。
ユリアは片手を上げて制した。
「神殿? 神殿についてはまだ情報がないわ。すぐにゾンビを掃討するから、その間に治療しましょう」
振り返る。
「瑞希、栄養剤はある?」
「は、はい、あります」
その直後だった。
「お義父さん......!」
アウレリアが駆け出した。
「え!? 待ちなさい!」
「えぇぇ!?」
慌てる瑞希の横をすり抜け、アウレリアは廊下からエントランスへと向かっていく。
細身の体が驚くほどの速さで遠ざかる。
(外に行くつもり!? ......まさか、神殿?)
「止めてくるわ!」
「わ、私も行きます!」
瑞希と共に追いかける。
エントランスではレオニダスたちが警備にあたり、医療班が生存者たちの診察を行っていた。
その間を、アウレリアが滑るように抜けていく。
外を警戒していた護衛兵たちも虚をつかれたようだ。
どこにそんな体力が残っていたのだろうか。
「レオニダス! ここの警備は任せたわよ!」
「は、ハッ! 今の女性は!?」
「例の巫女よ!」
振り返りざま、近くにいた文官に声をかける。
「そこのあなた! 神殿はどこ!?」
「へ、え、神殿でしたら北西の方角です! 坂を下った先の高台にあります!」
「わかったわ! ありがとう!」
その間に瑞希が先に進んでいる。
崩れた門を出て坂を見下ろすと、アウレリアが路地裏に入ろうとしていた。
(速い......!)
遠くで瑞希が呼びかけている。
「アウレリアさん! 外はまだ危ないです! 待ってください!」
急いで坂を下る。
石畳が足元で滑る。
アウレリアの消えた路地裏に飛び込んだ。
狭い。両側の建物が迫り、薄暗い。
路地の奥から、低い唸り声が聞こえる。ゾンビだ。
「瑞希!」
「はい!」
瑞希が前を走っている。
その先にアウレリアの白い巫女服が見え隠れする。
倒れた樽を飛び越え、崩れた壁の瓦礫を避ける。
――速い。
一瞬、踏み込む足元に魔力が集まるのが見えた。
(足に魔力が......! あの子、民間人じゃないの......!?)
考える暇はない。
ユリアは距離を詰めるため、さらに速度を上げた。
路地の曲がり角から、ゾンビが這い出してきた。
「邪魔よ!」
剣を一閃。斬り捨てて駆け抜ける。
路地を抜けると、視界が開けた。
神殿の見える丘だ。
そこで、アウレリアが立ち止まった。
次の瞬間、足がもつれ、身体が前に崩れかける。
「......っ」
倒れ込む前に、瑞希が慌てて支えた。
「だ、大丈夫ですか......!」
アウレリアは神殿を見上げたまま、肩で息をしていた。
「まだ外は危険よ。それにあなたの体も限界のはずよ。治療しましょう」
「あ、あそこにお義父さんが......」
アウレリアの視線の先には、高台の上に建つ神殿がある。
「神殿ですか? でも上り道にはゾンビが......」
瑞希の言葉に、アウレリアの肩が小さく震えた。
それでも、その視線は神殿から離れない。
ユリアは短く息を吐いた。
「......いいわ。私が切り開くからついてきなさい」
「は、はい。すみません......」
アウレリアが小さく頭を下げる。
「少し落ち着きなさい」
瑞希が鞄から陶器の小瓶を取り出した。
「あ、これを。栄養剤です」
「あ、ありがとうございます」
アウレリアが受け取り、一口飲む。
少しだけ顔色が戻ったようだ。
ユリアは神殿へと続く坂道を見上げた。
ゾンビの姿が点々と見える。
「行くわよ」
二人を後目に、坂を上り始める。
石畳の坂道は緩やかだが、長い。両側には民家が並び、その軒先や路地の奥に、ゾンビの姿がちらほらと見える。
坂道の途中、大きな樽の横でうろついているゾンビに近づいたとき、アウレリアが声をあげた。
「あ......八百屋のおじさん......」
エプロンをつけた初老の男。顔の半分が変色し、目には光がない。ゆっくりとこちらに気づき、のろのろと歩み寄ってくる。
「......知り合い?」
「はい......よくお買い物に......」
アウレリアの声が震えている。それでも、目を逸らさない。
「そう......」
「あ、でも大丈夫です。......眠らせてあげてください」
「わかったわ」
「アウレリアさん......」
瑞希が心配そうに声をかけた。
こちらに気付いて近寄ってくるゾンビたちを、横薙ぎで斬り伏せる。八百屋のおじさんだったものが、地面に崩れ落ちた。
「どうか安らかに......」
アウレリアが小さく祈りを捧げている。その横顔は悲しみに歪んでいたが、涙は流れていなかった。
坂道を登り続ける。商人の服を着たゾンビ、巡礼者の装いをしたゾンビ。そして、白い巫女服に身を包んだゾンビ。
アウレリアは何か言いたげだったが、何も言わなかった。ただ、切り捨てられた骸に静かに祈りを捧げていた。
やがて坂道を登り切り、神殿の前に着いた。
かつては祈りを捧げる人々で賑わっていたであろう神殿は、今や静まり返っている。正面の扉は壊され、周囲には死体がいくつも転がっていた。どれも損壊が激しく、正視に耐えない。
「うっ......」
瑞希が顔を背けた。
「......大丈夫です。お義父さんじゃありません」
視線に気づいたのだろう、アウレリアが気丈に振る舞っている。その声は震えていなかった。
ユリアは神殿の入口を見据えた。
「中に入るわよ」
「はい......」
アウレリアが頷いた。
壊された扉の向こうは暗い。ユリアは剣を構え、中に踏み込んだ。
神殿の中は、暴風が通ったかのように荒れ果てていた。
錆び臭い匂いに混じる死臭。ベンチは半ばで折れ、窓辺の下には花瓶が割れて白い花が散らばっている。柱の影から、ゆらりと揺れる人影。
ふらふらと寄ってくるゾンビを斬り捨てる。血が石床に飛び散った。
「背後に気を付けて」
「は、はい」
瑞希が緊張した声で応える。アウレリアは黙って頷いた。
礼拝所を抜け、奥の居住区へと進む。どの部屋も扉が破られていた。爪痕が深く刻まれ、木材が裂けている。
「......この奥に倉庫があります。きっとそこに......」
アウレリアが震える声で言った。
「倉庫?」
「はい。一番頑丈なので......何かあったときはそこに」
「わかったわ」
廊下をうろついているゾンビを一体、二体と斬り捨てながら進む。神官服を着たもの、巡礼者の姿をしたもの。どれも顔の判別がつかないほど損傷していた。
一番奥の角を曲がると、そこには渡り廊下があった。その先に、崩れかけた倉庫が見える。
扉は押し倒され、黒い口を開けている。中から濃い死臭が流れてきた。礼拝所で感じたものとは比べものにならない。空気が淀み、息を吸うたびに腐敗した肉の臭いが肺を満たす。
倒された扉の周囲には角材や木片が散らばり、バリケードを組もうとした痕跡が残っていた。そして扉の下から、赤く染まった神官服が見える。
アウレリアの足が止まった。
「......お義父さんの服です」
その声は、どこか遠くから聞こえるように小さかった。
「この下に......」
「......はい」
アウレリアが一歩、また一歩と近づく。
「......でもよかったです。化け物になってなくて......」
笑おうとしている。その空色の瞳から涙が溢れ出し、そのまましゃがみこんだ。
「......こんなのって......」
嗚咽で声にならない。肩が震え、両手で顔を覆っている。
アウレリアに声をかけようとした、その瞬間だった。
背筋に悪寒を感じた。振り向く前に、背後で濃密な魔力の気配が立ち上がるのを感じた。
「......パパ? ......ママ? ......あれ、車が......」
振り向く。瑞希が立ち尽くしている。
「瑞希?」
「......天使? ......血が......止まらなくて......」
瑞希が頭を抱えて呟いている。その体から、魔力の帯が広がり始めていた。淡い光を放ちながら、蛇のようにうねる。
(あの時の記憶が......?)
「......あれ、体が冷えて......私、死んだんじゃ?」
「瑞希! しっかりしなさい!」
(魔力が......この前みたいに暴走する!?)
瑞希から伸びた魔力の帯が周囲に無造作に広がる。風がうなり、空気が裂けるような火花が散る。壁が焦げ、床の石が弾ける。
「......え? ......なにこれ......魔力......?」
アウレリアも周囲の異変に気付いたようで、困惑した声を上げた。
「瑞希! 聞こえる!? 瑞希!」
「血が......パパ......ママ......なんで......」
混乱して聞こえていないようだ。瞳は虚ろで、どこか遠くを見ている。
周囲で暴風が吹き始めた。魔力が触れた壁が次々と焦げ、崩れていく。柱が削れ、壁に亀裂が入る。
「瑞希! ......この、大人しくしなさい......!」
ユリアは剣を鞘に収め、深く息を吸った。全身に魔力を巡らせる。銀色の光の帯が体を包み込む。
ゆっくりと瑞希へと近づく。瑞希の魔力の帯が襲いかかってくる。ユリアの魔力とぶつかり、激しく火花を散らした。バチバチと音を立て、空気が震える。肌を焼くような熱。それでも、一歩ずつ前に進む。
* * *
あの日見た光景を、私は忘れない。
住んでいた街を失い、守りたかった人たちを失い、共に暮らした家族すら失ったあの日。
家族を失った記憶すら失くしていた瑞希さん。その身から溢れ出る魔力が暴れ狂う中、輝く銀髪を泳がせながら近づいていく小さな背中。
かつて、勇者様はその背で皆を率い導いたという。その背はきっと、こんな風に見えたのだと思う。
かつて、勇者様はその輝く魔力で邪竜をも恐れさせたという。瑞希さんから溢れた魔力を抑えたあの力強い輝き。あの輝きを見た邪は等しく恐れを抱くだろう。
あの暖かい輝きを、私は決して忘れない。




