第41話 アラセアの花VI
【帝国紀元1799年6月25日 15:00】
【アルデリス伯爵領・アラセア】
トゥタクス男爵と別れてから、ほんの数刻。ユリア中隊は急ぎ足で行軍し、小高い丘を登った。
丘の頂から見えたのは、アラセア山の雄大な姿だった。その麓、小さな谷を渡った先に、巡礼都市アラセアが広がっている。
中世の城壁が今も残る街だ。石造りの壁が街を囲み、その内側には白壁の建物が山の斜面に沿って連なっている。巡礼者たちが祈りを捧げるために訪れる、歴史ある街だ。山の麓から中腹へと、まるで山と一体化するように家々が階段状に並んでいた。その最も高い場所に、領主の城館が建っている。
だが今、その街からは黒煙が幾筋も立ち上っていた。
外壁の上に人の姿はない。街道につながる正門は、扉が壊れて開け放たれたままだ。その周囲に、左右にふらふらと蠢く人影が見える。数十体ほどだろうか。人の形をした何かが、意味もなく彷徨っている。
ゾンビだ。
「あれがアラセア……」
ユリアが呟く。
「ひどい……」
瑞希の声が震えていた。その目には、街を覆う煙と、門の周囲を蠢く死者たちの姿が映っている。
後ろから兵士たちの足音が止まる気配がした。誰もが息を呑んでいる。剣を握る手が、僅かに震えている者もいた。鎧の擦れる音が妙に大きく聞こえる。
街が死んでいる。
兵士たちはそれを肌で感じ取っていた。あの門を抜ければ、死者たちの群れが待っている。全滅した街に足を踏み入れることへの恐怖が、じわじわと広がっていた。
ユリアは視線を街に向けたまま、深く息を吸った。
一人でも多く救いたい。そう思った。セウェルスの話では、城館に逃げ込んだ者もいるかもしれない。だが、おそらくは――もう手遅れだ。街は完全に制圧されている。
それでも、行かなければならない。
ここで立ち止まれば、民は見捨てられる。指揮官として、それだけは許されない。たとえ結果が変わらなくとも、全力を尽くさなければ。
諦めと決意が、胸の中で交錯する。
「……隊長、どうしますか?」
レオニダスの声が静かに聞こえた。
ユリアは振り返った。兵士たちの視線が、こちらに集まっている。その目には不安と、それでも従おうとする意志があった。
表情を引き締める。迷いを見せてはいけない。
「決まっているわ。あの街を奪還する」
声に力を込める。兵士たちが僅かに身を正した。
「街の正門まで陣形を保って前進。正門から市内に突入したら近接兵と銃兵で分隊を編制、市内からゾンビを一掃する」
ユリアは街を見据えた。
「魔導小隊と本陣は正門手前で陣地を形成。退路を確保するように」
「了解です。さすがに魔導部隊じゃ街中じゃ戦えませんからね」
セリーヌが頷く。その表情は冷静だ。
「私は先鋒を率いて最奥の城館まで進むわ。側面は任せるわよ」
「ハッ」
レオニダスが応える。
「分隊を編制して。すぐに前進するわよ」
「承知した」
カリスが短く答えた。
ユリアは馬首を街へと向けた。背筋を伸ばし、視線を前に向ける。兵士たちに迷いを見せるわけにはいかない。
たとえ結果がどうであれ――全力を尽くす。
それが指揮官の務めだ。
ユリアは静かに息を吐き、号令を下した。
「ユリア中隊、前進!」
* * *
陣形を組んだまま、街の正門へと接近する。
崩れ落ちた門扉が、赤黒く染まっていた。木材が砕け、鉄の補強材が歪んでいる。その周囲には人の姿だったものが散らばっていた。あちこちに倒れ伏した死体は、ゾンビなのか、人のまま死ねた幸運な死体なのか、それすら分からない。
門の向こうから、ふらふらと人影が近づいてくる。
衛兵の姿をしたもの、作業着に簡単な鎧をつけただけの民兵のような姿も見える。顔は青白く変色し、目には光がない。動きは緩慢だが、確実にこちらへ向かってくる。
カリスが号令を下した。
「小隊構え!」
銃兵たちが一斉に銃を構える。金属音が鳴り、引き金に指がかかる。
「……撃て!」
轟音とともに、銃弾が放たれた。
先頭を歩いていたゾンビたちの身体が吹き飛ぶ。頭部が砕け、胴体が崩れ落ち、地面に倒れ込む。そのまま二度と動くことはなかった。
カリスが呟く。
「アラセアの市民兵か……嫌なもんだな」
「そう言うな。どんな姿をしていようと敵は敵だ」
レオニダスの声が返ってくる。
「お前さんほど割り切れるもんじゃねーよ」
「精進が足りんな」
「筋肉でもつけろってことか?」
「そうだな、もう少し胸板が厚くならないとな。わっはっは」
レオニダスの豪快な笑い声が広がった。
周囲の兵士たちがざわめく。
「おいおい、こんなとこで笑えるのかよ、あの人……」
「さすがというべきか、なんというべきか……」
呆れているのか、驚嘆しているのか、なんとも言えない囁きが交わされている。張り詰めていた空気が、僅かに緩んだ。
ユリアは小さく息を吐いた。
豪胆というべきなのか――いや、わざとね。
周囲の兵士たちの緊張が緩んでいく。ユリアは声を張り上げた。
「さあ、門は奪い返したわ! 手筈通り、分隊に分かれて進撃!」
兵士たちの視線が、一斉にこちらに向く。
「アラセアからゾンビを一掃しなさい!」
「応ッ!」
力強い返事が流れた。兵士たちの表情に、僅かながら闘志が戻っている。銃を握る手に、再び力が込められた。
* * *
門の周囲で、兵士たちが素早く動く。小隊長たちの声が飛び交った。
「第一小隊は三分隊に分かれて市街北西に向かうぞ!」
カリスの号令に、兵士たちが駆け出す。
「第二小隊も三分隊に分かれて市街南東だ!」
ルキウスが続く。
「第三小隊は二分隊に分かれて中央道路の左右を固めるぞ!」
ガイウスの声が重なる。
兵士たちは次々と分隊に分かれ、街の中へと散らばっていく。銃を構え、隊列を組んだまま各々の担当区画へと向かう。足音が石畳に鳴り、やがて路地の向こうへと消えた。
門の先には、広い道路が伸びていた。街を分断するかのように、真っ直ぐ奥の城館へと続いている。中央道路だ。
その途中には、幾重にもバリケードの残骸が残っていた。木材が積まれ、荷車が横倒しになり、樽や箱が散乱している。住民たちが必死に防衛しようとした痕跡だ。
だが、もう誰もいない。
バリケードの合間を、ゾンビが蠢いていた。何十、何百という数が、ばらばらに彷徨っている。動きは緩慢だが、その数は圧倒的だ。
レオニダスが馬を寄せてきた。
「隊長殿、中央を突破する部隊も準備完了です。精鋭を揃えています」
「ありがとう」
ユリアは頷き、振り返った。
「じゃあ、姉さん、セリーヌ、ここは任せたわよ」
「ええ」
ルシアが穏やかに微笑む。
「はい!」
セリーヌが元気よく応える。
「もしものときは建物ごと敵を吹っ飛ばしていいわよ」
「え!?」
セリーヌが目を丸くした。ルシアがくすりと笑う。
「ふふふ、その時は派手にやるわね」
「じゃあ、行ってくるわ」
「いってらっしゃい」
「へ、あ、ご武運を!」
セリーヌが慌てて敬礼する。その様子に、周囲の兵士たちの緊張が少しほぐれたようだ。ところどころで含み笑いが聞こえる。
ユリアは中央道路を見据えた。城館までの道のりは遠い。だが、進むしかない。
「さて、行きましょうか」
居並ぶ兵たちを見渡す。
みな、士気は十分なようだ。その中に、瑞希の顔を見つけた。
「瑞希? あなたも来るの?」
「はい! 医療班です。たぶん私が医療班の中で一番体力があるので」
「そう……わかったわ。前に出すぎないように」
「はい!」
瑞希が元気よく頷く。ユリアは気を取り直し、声を張り上げた。
「みな、私についてきなさい! 遅れたらあとでこの坂道を往復させるわよ!」
「応!」
兵士たちの力強い返事が流れた。
ユリアは剣を抜き、駆け出した。
* * *
中央道路を駆け上がる。
押し倒されたバリケードを越え、周囲をうろついているゾンビを斬り飛ばす。
(どいつもこいつも一般人の服……本当に嫌になるわ)
群れているゾンビに一気に駆け寄り、逆袈裟で切り捨てる。そのまま大きく横薙ぎに斬り伏せる。
後ろからはレオニダスを筆頭に近接兵たちが次々と追いつき、ユリアの周りのゾンビたちを薙ぎ払っていく。
坂道を駆け上がり続ける。やがて、城館がよく見えるところまで辿り着いた。
「……あの城館、まだ扉が閉まっていない?」
「はぁ、はぁ、た、たしかにそう見えますね」
レオニダスが息を荒げながら答える。
「扉の前、まだゾンビが扉を叩いてるわ。生存者がいるのかも」
ユリアは城館に向かって駆け出した。
「ぐ、隊長殿に続け!」
「お、応!」
レオニダスと兵士たちが続く。
ゾンビたちはゆっくりと城館に向かって集まりつつある。それを後ろから切り払い、振り向いてきたゾンビを返す刃で切り崩す。そんなことを数回繰り返すうちに、城館に続く門が見えてきた。
崩れた門を抜け、壊れた噴水を横目に城館の扉へと向かう。
鉄の蝶番のついた大きな扉の周囲に、何十体ものゾンビが群がっている。ここのゾンビは鎧を着込んでいたりと、領軍の兵士だったものが多いようだ。扉を叩き、引っ掻き、壊そうとしている。
「どきなさい!」
大きく振った両手剣が、ゾンビの背骨をへし折る。
こちらに気づいたゾンビが向かってくるが、それを大きく横薙ぎに切り払う。そうしているうちに追いついてきたレオニダスたち近接兵が、息を荒げながらも戦槌や剣でしっかりとトドメを刺していく。
城館前はあっという間に制圧された。
「はぁ……お疲れ様です、隊長殿」
「あなたもね。……もうちょっと筋肉を増やしたほうがいいかもしれないわね?」
「うぐ、この坂道で息を荒げない隊長がおかしいだけですよ!」
周囲の近接兵たちが、肩で息をしながらも無言で頷いている。
「まあ、私は軽いからね」
「さて、中に入りましょうか」
「ああ、はい」
レオニダスが扉に向かって大声を上げた。
「カラディン軍リディア大隊所属ユリア中隊だ! 救援に参った! 開門せよ!」
その大きな声が中まで届いたのか、中で人の声がする。
やがて、扉の裏で何か物音がし、扉がゆっくりと開かれた。
中からは文官と思しき制服に、微妙にサイズが合っていない鎧を着込んだ青年が現れた。
「救援、なのか」
「ええ。カラディン軍所属、ユリアよ。中隊長をしているわ」
「女の子が? ほんとに? 天からのお迎えじゃないのか?」
「しっかりしろ、現実だ。お前は助かったんだ」
レオニダスが肩を叩く。
「あ、ああ……ソリウス様ありがとうございます!」
別の文官が奥から走ってきた。
「あ、あの、医療者はいらっしゃいませんか?」
「そうだ、奥にアウレリアさんが。彼女、もう限界で……」
「アウレリア?」
「はい、巫女の方なのですが、もうずっと不眠不休で治療を続けてて……」
「わかったわ、すぐ行く。瑞希を呼んできて!」
「あ、ここにいます!」
元気に返事をする瑞希の横で、息を荒げてへたり込んでいる医療班の面々がいた。
「……体力があるのは本当みたいね。レオニダスたちは息が上がってるというのに……」
「なんと……」
「まあいいわ。奥ね?」
「はい、こっちです!」
文官が奥の扉を開け、それに続いて瑞希と共に中へと入る。
中には、おびただしい数の負傷者が並べられていた。
奥の方は、もう息絶えている。
その死体は体のあちこちに包帯が巻かれながらも、どれも一様に喉元から血を流していた。そのそばには、赤黒い血に塗れた長剣が立てかけられている。
近くに寝かせられている怪我人は、辛うじてこちらを認識しているようだ。
「こ、これは……」
瑞希の声が震えている。
ユリアは無言で奥を見つめた。
その時、奥の暗がりから巫女服に身を包んだ少女が姿を表した。
その目はこちらを見ているようで、見ていない。目元には隈が浮かび、顔色は青白かった。足取りは覚束なく、声は掠れている。
「けが人ですか? 噛まれていますか? さあどうぞこちらへ……」




