第38話 アラセアの花III
【帝国紀元1799年6月21日 16:00】
【アルデリス伯爵領・アルデリス城館会議室】
重厚な扉が閉ざされ、室内には重苦しい静寂が満ちた。
会議卓の主座に着くテレンティウス・アルデリス伯爵を、ユリアは初めて間近に見た。四十代半ばといったところか。整えられた髭と、書物を読み込んできたであろう知的な眼差しが印象的だった。武骨な軍人というより、軍略を学んだ学者のような風貌。それでいて、その物腰には歴戦の重みが感じられた。身なりは整えられているものの、机上の書類の山と、インクで汚れた指先が、不眠不休で部隊再編に取り組んできたことを物語っていた。
テレンティウスは卓の向かいに座るガリウスとその配下たちに向き直ると、深く頭を下げた。
「カラディン辺境伯家の方々、救援感謝致す」
声は落ち着いていたが、その奥には安堵があった。不眠不休で戦況に対処してきたのだろう。援軍の到着が、どれほどの重荷を軽くしたことか。
「帝国の危機には共に戦うのが我々帝国貴族の役目だ」
ガリウスの返答は簡潔だった。社交辞令を交わしている暇などないことを、両者とも理解していた。
「ありがたい」
テレンティウスは顔を上げた。その表情には安堵と、なお消えない苦渋が混在していた。
「それで、戦況はどうなんだ?」
ガリウスが単刀直入に問いかけた。会議室の空気が一層引き締まる。テレンティウスは一瞬目を閉じ、現状を整理するかのように息を吸い込んだ。
「一言で言えばギリギリです」
彼は地図を指し示した。羊皮紙に描かれた地図には、すでに赤い印で敵軍の位置が、青い印で味方の配置が記されている。アルデリス領を中心に、三方から締め付けるような敵の配置が一目で分かった。
「南方のタダディウムの先で1回戦いましたが……」
テレンティウスの指が、タダディウムから北へと後退した経路をなぞる。
「痛み分け……いえ、結果的に撤退を余儀なくされたので実質敗北ですね。それでタダディウムは籠城中。主力はここアルデリスで補充中です」
地図上を指が動く。タダディウムからアルデリスまでの撤退経路。ガリウスの配下の一人が低く呻くような声を漏らした。軍事拠点を盾にした撤退は成功したようだが、そもそも撤退せざるを得なかった戦況の厳しさが、テレンティウスの表情から読み取れた。
「そうか……。タダディウムはどれくらい持ちそうなんだ?」
ガリウスの問いに、テレンティウスは苦い顔をした。
「敵がおそらく1万前後。守備兵がおよそ1500。幸い、撤退時に武器弾薬は十分以上に置いてきましたので物資の心配はありませんが、兵力の不利は否めません」
数字が示す現実は冷酷だった。軍事拠点とはいえ、6倍以上の敵を相手に、どれだけ持ちこたえられるか。会議室に重い沈黙が流れ、ガリウスの配下の一人が地図を見つめたまま拳を握りしめているのが、ユリアの目に留まった。
「最新の報告では激しい攻撃を受けているようで……補充中の主力だけで救援すべきか迷っていました」
テレンティウスの声は焦っていた。タダディウムの守備隊は今この瞬間も、絶望的な防衛戦を戦っているのだ。
「あまり余裕はない、か」
ガリウスが呟いた。その言葉には、戦況の深刻さへの理解が込められていた。
「はい。それと、南西は敵が4万以上。我が軍はパトノスを拠点に6千。現在は敵の足止めを行いながら徐々に後退中です。それもそろそろ限界で、いよいよパトノスで籠城することになりそうです」
南西方面も厳しい状況だった。6倍を超える敵を相手に遅滞戦闘を続ける部隊の苦闘が、テレンティウスの表情から読み取れた。その報告を聞いて、ガリウスの配下の一人が思わず息を呑んだ。
「最後に……」
テレンティウスは一瞬言葉を切った。その表情がさらに暗くなる。傍らに控えていた副官が、新たな報告書をそっと卓上に置いた。
「ここが一番悪いのですが東方面。バヤジド要塞との連絡線は途絶。第一次防衛線は突破され第二次防衛線に撤退中。南と南西に戦力を集中した矢先だったため手薄になったところでした」
会議室の空気が張り詰めた。三方向から押し寄せる敵軍。そのいずれも優勢を誇っている。まさに絶体絶命の状況だった。
「第二次防衛線で止められそうなのか?」
ガリウスの問いに、テレンティウスは複雑な表情を見せた。
「幸か不幸か、敵は分散して各集落に進撃したため、各地で防衛戦闘を行い時間を稼げています」
その言葉の意味するところを、ユリアはすぐに理解した。敵が分散したということは、各地の集落が戦場になっているということだ。
「それは……民間人の被害が大きくなるのではないか?」
ガリウスの懸念は当然のものだった。テレンティウスは重く頷いた。
「……覚悟の上です」
会議室が静まった。
声は静かだったが、その奥には苦渋の決断の重みが感じられた。一瞬、テレンティウスは視線を窓の外に向けた。今この瞬間も戦火に巻き込まれている民たちの姿を見ているかのように。
「第一次防衛線の崩壊が急だったため、避難誘導は遅れており、前線に近い地域は籠城に移っています」
民を守るべき領主が、その民を戦場に巻き込まざるを得ない。テレンティウスの苦悩は計り知れないものだろう。
「わかった」
ガリウスは短く応じた。地図を見つめたまま、その指が三方向の敵配置を順にたどる。
「……攻撃のタイミング、移動経路、どれを見てもただの獣の群れとは思えんな」
その言葉に、会議室の空気が変わった。テレンティウスの表情が険しくなる。
「はい。我々もそれを懸念しております。しかし、戦ったゾンビに知性は見えず、獣同然にしか思えないのですが……」
「アルトゥインでそこにいるユリア中隊長が指揮官と思しき個体を撃破している。撃破した瞬間、率いていた小集団の統率が瓦解したようだ。そう考えると知性ある指揮個体の存在はないとは言えんだろう」
ガリウスの視線が一瞬ユリアに向けられた。ユリアは静かに頷く。あの時の光景が脳裏に蘇った。マントを纏った個体が倒れた途端、周囲のゾンビたちが統率を失った瞬間を。
「そのようなことが……。そうですね、知性ある個体が存在していたのならば……前提が変わってきますね」
テレンティウスの声には、新たな理解と、それに伴う不安が混じっていた。獣の群れであれば対処法はある。だが、知性を持った敵が指揮しているとなれば、話は別だ。
「そういうことだ。目の前の敵がただの獣と思わず、人間相手と思って準備しておいたほうがいいだろう」
「おっしゃる通りです」
テレンティウスが深く頷いた。その表情には、戦況への理解が一段と深まった様子が見て取れた。
「それを踏まえて、迎撃部隊の編制に移ろう」
会議は新たな段階へと進んだ。地図を前に、両軍の指揮官たちが具体的な作戦立案に入る。
ユリアは地図上の赤い印を見つめた。敵の配置は、アルデリス領を包囲するように展開している。知性ある指揮個体の存在。三方向からの同時攻撃。これは単なる偶然ではない。南と南西で注意を引きつけ、手薄な東から突破する――人間の軍なら当然考える戦術だ。胸の奥が冷えるのを感じた。
「現在は東側には戦力は振り分けていなかったな?」
ガリウスが地図上の東方面を指差した。
「はい。時間を稼ぎつつ防衛線の再構築を行い、その間に主力にて南西と南を処することを優先する方針でした」
テレンティウスの指が南と南西の敵配置をなぞる。当初の計画では、東は遅滞戦闘で時間を稼ぎ、主力で南方の脅威を排除する。理にかなった戦略のはずだった。
「仮に指揮統制を受けているとすると、東側を放置しておくのは危険ではないだろうか」
ガリウスの問いかけに、テレンティウスの表情が曇った。
「そう……ですね。しかし、全方位に救援軍を振り分けるのは各戦線の兵数の差が大きくなり危険では?」
テレンティウスの懸念はもっともだった。戦力を分散すれば、どの戦線でも数的不利に陥る。個別撃破される危険性が高まるのだ。
「伯の言うことももっともだが、現に南方面の敵は最新の報告では激しい攻撃を受けているのだろう? 攻撃の強弱、移動経路の選定、移動速度などの最低限の変化が可能だとしたら?」
ガリウスの指摘に、会議室が緊張した。ユリアもその意味を理解した。南で激しい攻撃を仕掛けているということは、敵が意図的に圧力を調整している可能性がある。
「……今はバラけている東側の敵が、一気に集中して防衛線を突破してくる……そういうことですか?」
テレンティウスの声は焦っていた。南と南西に注意を引きつけておいて、東から一気に突破する。人間の軍であれば当然考えうる戦術だ。
「あくまで可能性ではある。ただ、その可能性は否定はできなくなったと、そう考えているがどうだろうか」
ガリウスの慎重な物言いに、テレンティウスは深く頷いた。
「そう……ですね。ではそれを踏まえて計画を練り直しましょう」
テレンティウスが地図に向き直る。その表情には決意があった。
「予定では、援軍とともに南西のパトノス方面を救援、撃破後、ただちに南のタダディウムを救援。東方面は第二次防衛線にて、南西と南を救援に向かっている間防衛。現在も徴集を続けている部隊が訓練完了次第、東方面の防衛線に向かうというものでした」
テレンティウスの説明を聞きながら、ガリウスは地図上の各拠点を確認していた。
「ふむ。我が軍は総勢1万5千。これらを振り分けるとしよう」
その数字に、テレンティウスの表情が明るくなった。1万5千という援軍は、絶望的な戦況を一変させる規模だ。三方面作戦が可能になる。
「タダディウムは激しい攻撃を受けているのだったな?」
「はい。救援を急がねば。本来であればパトノス救援後になるのですが……」
テレンティウスの声は焦っていた。タダディウムの守備隊は今この瞬間も、6倍以上の敵と戦っている。
「その時間はなさそうだな。こちらからユリウス指揮で2千出そう」
「では、再編した部隊から嫡男のファビウス指揮で3千出します。総勢5千向かわせましょう」
ガリウスは即座に頷いた。
「よかろう。ユリウス、ファビウス殿の指揮下に入れ」
「ハッ」
ユリウスの力強い返答が会議室に流れる。
「承知致しました」
返答したのは二十代後半の長身の青年だった。冷たい眼差しには、人を従わせることに慣れた貴族としての気品があった。嫡男のファビウスであるらしい。
「続いて南西方面か……こちらは敵はおよそ4万だったな……」
ガリウスの声が低くなる。4万という数字の重みを、その場の全員が理解していた。
「はい。こちらの防衛隊は6千。補給を終えた主力6千で救援予定です」
「私も行こう。1万をそちらに振り向ける。現地の部隊と合流して2万2千だな」
ガリウス自身が南西方面の指揮を執る。最大の激戦地には、最高指揮官自らが赴く。その決断に、テレンティウスの表情が明るくなった。
「これならばなんとか……」
「最後に東か。敵の総数は判明しているのか?」
ガリウスの問いに、テレンティウスの表情が再び曇った。
「第一次防衛線の時点で1万弱と目されています」
「それ以降は不明か……」
「申し訳なく」
テレンティウスの声は悔しそうだった。情報が途絶えているということは、それだけ前線が混乱しているということだ。
「いやいい。その情報だけでも多くの将兵の血で得た情報のはずだ」
ガリウスの言葉に、テレンティウスは深く頭を下げた。失われた兵士たちへの哀悼と、彼らが命がけで得た情報への敬意が、その仕草に込められていた。
「リディアに残りの3千を預ける。伯には道案内の手配を頼みたい」
「次男のフィリオに1千の兵をつけて道案内とします。指揮官はリディア殿で」
テレンティウスが応じると、ガリウスは娘に向き直った。
「わかった。リディア、各個撃破でアルデリス領東部の敵を掃討せよ」
「ハッ」
リディアの返答は簡潔だったが、その声には決意が込められていた。
「フィリオ、リディア殿の部隊の道案内を頼む。できるだけ多くの民を救ってくれ」
「必ずや」
若い声が会議室に流れた。二十代半ばと思われる次男のフィリオは、柔和で上品な雰囲気を持つ青年だった。兄ファビウスとは対照的に、軍人らしい実直さがあった。
「よし。ではこの方針で行こう。時間がない、各部隊に分かれて準備にかかれ」
ガリウスの号令とともに、指揮官たちが一斉に立ち上がった。椅子が擦れる音、鎧の金属音、急ぎ足で会議室を出ていく足音。一気に活気が戻ってきた。
ユリアも立ち上がりながら、これから始まる三方面作戦の規模を実感していた。総勢1万5千のカラディン軍が、アルデリス領の各戦線に散っていく。これは小規模な衝突ではない。領地全体を巻き込んだ、本格的な戦役だ。




