第36話 アラセアの花I
【帝国紀元1799年6月14日 午前】
【アルデリス領・アラセア神殿】(アウレリア視点)
朝の光が、神殿の石の床を淡く照らしている。東の窓からは聖なるアラセア山の山頂が見えた。その稜線に向け、アウレリアは今日の平穏を祈る。
神殿には、いつもより多くの人々が集まっていた。早朝の祈りに訪れる人は普段なら数えるほどなのに、今朝は祈祷室の長椅子がほとんど埋まっている。農夫らしい男が膝をつき、商人風の女が両手を組んで祈る。皆、どこか表情が強張っていた。
静寂の中で、他の巫女や神官たちの小さな祈りの声が重なっていく。隣で祈る年上の巫女の声が、いつもより少しだけ震えている。窓辺の花瓶には、アラセア山と同じ名を冠する白い花。花弁は少しだけしおれ、淡い香りが空気に溶けていた。
アラセア山は、この街を見守る聖なる山だ。神殿の教えでは、あの山に神々の加護が宿るとされている。だからこそ、人々は不安な時、あの山に向かって祈るのだ。
祈りを終えたアウレリアは、静かに息をつく。
胸の奥に、少しだけざらついた不安が残っていた。いつもなら祈りの後は心が軽くなるのに、今日はどこか重い。それは、きっと周りの人たちの不安が伝わってくるからだろう。
「さて、と……今日はたしか買い出し当番だったから急がないと。最近、色々値上がりしてるから、いいお野菜が手に入るといいんだけど……」
声に出して呟く。自分を励ますように。
「アウレリア、今日は買い出し当番なのかい?」
振り向くと、義父が穏やかな表情で立っていた。壮年の神官は、この神殿を長く守ってきた人だ。
「はい、お義父さん」
アウレリアが答えると、義父は少し申し訳なさそうに続けた。
「ちょうどよかった。香油を頼んでもいいかい?」
「あ、はい。大丈夫です!……もうなくなったんですか?」
「ああ……最近、お祈りをする者が増えてね。それ自体は喜ばしいことなんだが……」
義父の声が少しだけ沈む。アウレリアは小さく頷いた。
「街のみんなが、不安に思ってるから……ですよね?」
「そうなんだ。暗い噂が多いからね」
「そうですね……」
義父は小さくため息をつき、窓の外を見やった。穏やかな朝なのに、どこか張り詰めている。
「おっと、引き留めてしまったね。さあ、いってらっしゃい」
義父が促すように手を振る。
「あ、いってきます!」
花瓶の花にそっと水を足し、アウレリアは神殿を後にした。
* * *
【同日】
【市場通り】
普段なら参拝客で賑わう大通り。今日は人影がまばらで、店主たちの声すら小さく沈んでいる。靴音だけが石畳に鳴る。
静かすぎる。
いつもなら、この時間の市場は活気に満ちている。店主たちが威勢よく商品を並べ、主婦たちが値段交渉に花を咲かせ、子供たちが走り回る。朝の光に照らされた野菜や果物が色鮮やかに並び、焼きたてのパンの香りが通りを満たしていたはずだ。
けれど今日は違う。
開いている店も半分ほどで、残りは固く扉を閉ざしている。通りを行く人々も足早で、誰も立ち話をしていない。すれ違う商人が小声で何かを囁き合っているのが聞こえた。
「……本当に戦争なのか?」
「分からん。ただ、南の村から避難してきた者もいるらしい……」
アウレリアは少し歩みを速めた。
馴染みの店に行くと、店主がちょうど店を開けたところだった。棚には野菜が並んでいるが、いつもの半分ほどの量しかない。
「おじさん、おはようございます」
アウレリアが声をかけると、店主が顔を上げて微笑んだ。
「ああ、アウレリアちゃんかい。今日もいつものお使いかい?」
「はい! あ、あと香油って入ってますか?」
店主の表情が曇る。
「香油に限らずどれも品薄でね……用意したいのは山々なんだが……」
「そうなんですか……」
「いつもの薬草と野菜は確保してあるよ」
店主が安心させるように言った。
「ありがとうございます!」
「香油は……うちに入荷した分じゃ足らないだろう? 隣のバヤジド商会の旦那が少し持ってたはずだ。呼んでみようか」
店主はそう言うと、隣の店に向かって声を張り上げる。
「おーい、バヤジド商会の旦那! 香油をこの子に売ってやってくれ!」
しばらくして、隣の店から中年の男が顔を出した。
「なんだ、オヤジ。うちは卸だって言ってるだろ。この香油も城に卸さないといけないんだよ」
商会の旦那が少し面倒そうに答える。
「そうケチくさいこと言うなよ。子爵様だって許してくれるさ。それに、ちゃんと確保してあるんだろ?」
店主が食い下がると、旦那は肩をすくめた。
「まあな。どうもキナ臭いからな。領外との流通は止まってるし、領軍が交戦してるって話もあるからな」
アウレリアの胸が、小さく跳ねた。
戦争……?
店主が驚いたように声を上げる。
「おいおい、あのバヤジド要塞が落ちたなんて聞いてないぞ。すぐそこじゃないか」
「それがどうも獣人相手じゃないらしい」
旦那の声が低くなる。
「なんだ? エルフでも攻めて来たのか?」
「領軍がかん口令を敷いてるらしくてな、詳しくは分からない。なんでも一進一退らしいが、長引くかもしれんぞ」
店主が渋い顔をした。
「そうなのか……少し備蓄しておいたほうがいいかもしれんな」
「そうした方がいい……おっと、おじさんの会話で待たせてすまないな。ほら、香油だ」
商会の旦那が、小瓶をアウレリアに手渡す。
「あ、ありがとうございます」
アウレリアが受け取ると、旦那は優しく微笑んだ。
「いつも神殿には世話になってるからな。嬢ちゃんも気を付けておけよ」
店主も心配そうに付け加える。
「そうだぞ。どうも街全体が暗くて、治安も悪くなってるからな」
「はい。ありがとうございます。失礼します」
瓶を抱えて通りを歩く。風が吹き抜け、遠くの鐘が重く鳴った。
街の空気が、ほんの少し灰色に沈んで見えた。
* * *
帰り道、アウレリアは買い物袋と香油の瓶を抱えながら、ゆっくりと歩いた。
交戦している領軍。かん口令。一進一退だけど長引くかもしれない。
商人たちの会話が、頭の中で繰り返される。詳しいことは分からない。けれど、何かが起きている。それだけは確かだった。
いつも通る石畳の道。両脇に並ぶ古い建物。角を曲がれば見える、小さな広場の噴水。いつも通りのはずなのに、今日は何かが違って見える。
広場には、子供たちが遊んでいるはずだ。けれど今日は誰もいない。噴水の水音だけが、静かに聞こえていた。
通りの角で、老婆が窓から外を眺めていた。その目は、どこか遠くを見ている。心配そうな、それでいて諦めたような表情。アウレリアと目が合うと、老婆は小さく頷いて窓を閉めた。
戦争。
その言葉の重みが、じわじわと胸に迫ってくる。神殿で祈る人が増えたのも、市場が静かなのも、みんなが不安を抱えているからだ。
けれど、神殿の巫女として、自分にできることは何だろう。祈ること、癒すこと。今はそれしかない。
石畳の道を進むと、やがて神殿の尖塔が見えてきた。
あの尖塔を見るといつもは安心する。けれど今日は、その尖塔すら、どこか心細く見えた。
* * *
【同日 昼前】
【アラセア神殿】
神殿の尖塔が見えたとき、その前で鎧姿の兵士たちが何人も立っているのが見えた。
いつもの朝とは、少し違っていた。
扉を押し開けると、中で兵士と義父が話していた。香の匂いに、かすかに鉄の匂いが混じる。
「では、よろしく頼む」
「はい。承知致しました」
兵士は一礼して、静かに出ていった。残された神殿は、わずかに重たい沈黙が落ちる。
「アウレリア、おかえり」
「あ、ただいま戻りました。……今の方たちは?」
「子爵様の使いの兵士の方だよ」
「子爵様から?」
「ああ。領軍が戦っているという話は聞いているかい?」
「はい。お店の人たちが噂していました」
「そうか。それは事実らしい」
義父の声音が、いつもより少しだけ硬い。
「でも、一体誰と戦っているんですか?」
「なんでも、特殊な毒を使う兵士だとか……」
「毒……ですか?」
「ああ。それで負傷者が多く出ているらしく、城の医務室では人手が足らないそうだ。うちからも光魔法の使い手を応援に寄越して欲しいとのことだ」
アウレリアの心臓が、小さく跳ねた。
「では……私が?」
「ああ。お願いできるかい?」
「まだ見習いでも良ければ……がんばります」
「ありがとう。できるだけ早く来てくれと言われているんだが……」
「あ、はい。大丈夫です。……でも、戦況はそんなに悪いんですか? "すぐ来てくれ"だなんて」
「使いの方は"一進一退"と言っていたが……その割には急いでいる。どうも……」
義父は言葉を切り、眉を寄せる。
「いや、不安を煽ってはいけないね。助けを求めている人がいるんだ。頑張りなさい」
「は、はい!」
一礼してから、アウレリアは拳を握りしめた。胸の奥で、小さな鼓動が速く打つ。
そんなに負傷者が多いのかな……でも、頑張らないと。きっとこれは試練なんだ。
神よ、どうか私の手が……誰かの命を救えますように。
窓から差し込む光が、彼女の頬を優しく照らした。まるで彼女の祈りを、そっと受け止めるように。




