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終末の血族  作者: 天津千里
5章:アラセアの花
36/37

第36話 アラセアの花I

【帝国紀元1799年6月14日 午前】

【アルデリス領・アラセア神殿】(アウレリア視点)


 朝の光が、神殿の石の床を淡く照らしている。東の窓からは聖なるアラセア山の山頂が見えた。その稜線に向け、アウレリアは今日の平穏を祈る。

 神殿には、いつもより多くの人々が集まっていた。早朝の祈りに訪れる人は普段なら数えるほどなのに、今朝は祈祷室の長椅子がほとんど埋まっている。農夫らしい男が膝をつき、商人風の女が両手を組んで祈る。皆、どこか表情が強張っていた。

 静寂の中で、他の巫女や神官たちの小さな祈りの声が重なっていく。隣で祈る年上の巫女の声が、いつもより少しだけ震えている。窓辺の花瓶には、アラセア山と同じ名を冠する白い花。花弁は少しだけしおれ、淡い香りが空気に溶けていた。

 アラセア山は、この街を見守る聖なる山だ。神殿の教えでは、あの山に神々の加護が宿るとされている。だからこそ、人々は不安な時、あの山に向かって祈るのだ。

 祈りを終えたアウレリアは、静かに息をつく。

 胸の奥に、少しだけざらついた不安が残っていた。いつもなら祈りの後は心が軽くなるのに、今日はどこか重い。それは、きっと周りの人たちの不安が伝わってくるからだろう。


「さて、と……今日はたしか買い出し当番だったから急がないと。最近、色々値上がりしてるから、いいお野菜が手に入るといいんだけど……」


 声に出して呟く。自分を励ますように。


「アウレリア、今日は買い出し当番なのかい?」


 振り向くと、義父が穏やかな表情で立っていた。壮年の神官は、この神殿を長く守ってきた人だ。


「はい、お義父さん」


 アウレリアが答えると、義父は少し申し訳なさそうに続けた。


「ちょうどよかった。香油を頼んでもいいかい?」

「あ、はい。大丈夫です!……もうなくなったんですか?」

「ああ……最近、お祈りをする者が増えてね。それ自体は喜ばしいことなんだが……」


 義父の声が少しだけ沈む。アウレリアは小さく頷いた。


「街のみんなが、不安に思ってるから……ですよね?」

「そうなんだ。暗い噂が多いからね」

「そうですね……」


 義父は小さくため息をつき、窓の外を見やった。穏やかな朝なのに、どこか張り詰めている。


「おっと、引き留めてしまったね。さあ、いってらっしゃい」


 義父が促すように手を振る。


「あ、いってきます!」


 花瓶の花にそっと水を足し、アウレリアは神殿を後にした。


 * * *


【同日】

【市場通り】


 普段なら参拝客で賑わう大通り。今日は人影がまばらで、店主たちの声すら小さく沈んでいる。靴音だけが石畳に鳴る。

 静かすぎる。

 いつもなら、この時間の市場は活気に満ちている。店主たちが威勢よく商品を並べ、主婦たちが値段交渉に花を咲かせ、子供たちが走り回る。朝の光に照らされた野菜や果物が色鮮やかに並び、焼きたてのパンの香りが通りを満たしていたはずだ。

 けれど今日は違う。

 開いている店も半分ほどで、残りは固く扉を閉ざしている。通りを行く人々も足早で、誰も立ち話をしていない。すれ違う商人が小声で何かを囁き合っているのが聞こえた。


「……本当に戦争なのか?」

「分からん。ただ、南の村から避難してきた者もいるらしい……」


 アウレリアは少し歩みを速めた。

 馴染みの店に行くと、店主がちょうど店を開けたところだった。棚には野菜が並んでいるが、いつもの半分ほどの量しかない。


「おじさん、おはようございます」


 アウレリアが声をかけると、店主が顔を上げて微笑んだ。


「ああ、アウレリアちゃんかい。今日もいつものお使いかい?」

「はい! あ、あと香油って入ってますか?」


 店主の表情が曇る。


「香油に限らずどれも品薄でね……用意したいのは山々なんだが……」

「そうなんですか……」

「いつもの薬草と野菜は確保してあるよ」


 店主が安心させるように言った。


「ありがとうございます!」

「香油は……うちに入荷した分じゃ足らないだろう? 隣のバヤジド商会の旦那が少し持ってたはずだ。呼んでみようか」


 店主はそう言うと、隣の店に向かって声を張り上げる。


「おーい、バヤジド商会の旦那! 香油をこの子に売ってやってくれ!」


 しばらくして、隣の店から中年の男が顔を出した。


「なんだ、オヤジ。うちは卸だって言ってるだろ。この香油も城に卸さないといけないんだよ」


 商会の旦那が少し面倒そうに答える。


「そうケチくさいこと言うなよ。子爵様だって許してくれるさ。それに、ちゃんと確保してあるんだろ?」


 店主が食い下がると、旦那は肩をすくめた。


「まあな。どうもキナ臭いからな。領外との流通は止まってるし、領軍が交戦してるって話もあるからな」


 アウレリアの胸が、小さく跳ねた。

 戦争……?

 店主が驚いたように声を上げる。


「おいおい、あのバヤジド要塞が落ちたなんて聞いてないぞ。すぐそこじゃないか」

「それがどうも獣人相手じゃないらしい」


 旦那の声が低くなる。


「なんだ? エルフでも攻めて来たのか?」

「領軍がかん口令を敷いてるらしくてな、詳しくは分からない。なんでも一進一退らしいが、長引くかもしれんぞ」


 店主が渋い顔をした。


「そうなのか……少し備蓄しておいたほうがいいかもしれんな」

「そうした方がいい……おっと、おじさんの会話で待たせてすまないな。ほら、香油だ」


 商会の旦那が、小瓶をアウレリアに手渡す。


「あ、ありがとうございます」


 アウレリアが受け取ると、旦那は優しく微笑んだ。


「いつも神殿には世話になってるからな。嬢ちゃんも気を付けておけよ」


 店主も心配そうに付け加える。


「そうだぞ。どうも街全体が暗くて、治安も悪くなってるからな」

「はい。ありがとうございます。失礼します」


 瓶を抱えて通りを歩く。風が吹き抜け、遠くの鐘が重く鳴った。

 街の空気が、ほんの少し灰色に沈んで見えた。


 * * *


 帰り道、アウレリアは買い物袋と香油の瓶を抱えながら、ゆっくりと歩いた。

 交戦している領軍。かん口令。一進一退だけど長引くかもしれない。

 商人たちの会話が、頭の中で繰り返される。詳しいことは分からない。けれど、何かが起きている。それだけは確かだった。

 いつも通る石畳の道。両脇に並ぶ古い建物。角を曲がれば見える、小さな広場の噴水。いつも通りのはずなのに、今日は何かが違って見える。

 広場には、子供たちが遊んでいるはずだ。けれど今日は誰もいない。噴水の水音だけが、静かに聞こえていた。

 通りの角で、老婆が窓から外を眺めていた。その目は、どこか遠くを見ている。心配そうな、それでいて諦めたような表情。アウレリアと目が合うと、老婆は小さく頷いて窓を閉めた。

 戦争。

 その言葉の重みが、じわじわと胸に迫ってくる。神殿で祈る人が増えたのも、市場が静かなのも、みんなが不安を抱えているからだ。

 けれど、神殿の巫女として、自分にできることは何だろう。祈ること、癒すこと。今はそれしかない。

 石畳の道を進むと、やがて神殿の尖塔が見えてきた。

 あの尖塔を見るといつもは安心する。けれど今日は、その尖塔すら、どこか心細く見えた。


 * * *


【同日 昼前】

【アラセア神殿】


 神殿の尖塔が見えたとき、その前で鎧姿の兵士たちが何人も立っているのが見えた。

 いつもの朝とは、少し違っていた。

 扉を押し開けると、中で兵士と義父が話していた。香の匂いに、かすかに鉄の匂いが混じる。


「では、よろしく頼む」

「はい。承知致しました」


 兵士は一礼して、静かに出ていった。残された神殿は、わずかに重たい沈黙が落ちる。


「アウレリア、おかえり」

「あ、ただいま戻りました。……今の方たちは?」

「子爵様の使いの兵士の方だよ」

「子爵様から?」

「ああ。領軍が戦っているという話は聞いているかい?」

「はい。お店の人たちが噂していました」

「そうか。それは事実らしい」


 義父の声音が、いつもより少しだけ硬い。


「でも、一体誰と戦っているんですか?」

「なんでも、特殊な毒を使う兵士だとか……」

「毒……ですか?」

「ああ。それで負傷者が多く出ているらしく、城の医務室では人手が足らないそうだ。うちからも光魔法の使い手を応援に寄越して欲しいとのことだ」


 アウレリアの心臓が、小さく跳ねた。


「では……私が?」

「ああ。お願いできるかい?」

「まだ見習いでも良ければ……がんばります」

「ありがとう。できるだけ早く来てくれと言われているんだが……」

「あ、はい。大丈夫です。……でも、戦況はそんなに悪いんですか? "すぐ来てくれ"だなんて」

「使いの方は"一進一退"と言っていたが……その割には急いでいる。どうも……」


 義父は言葉を切り、眉を寄せる。


「いや、不安を煽ってはいけないね。助けを求めている人がいるんだ。頑張りなさい」

「は、はい!」


 一礼してから、アウレリアは拳を握りしめた。胸の奥で、小さな鼓動が速く打つ。

 そんなに負傷者が多いのかな……でも、頑張らないと。きっとこれは試練なんだ。

 神よ、どうか私の手が……誰かの命を救えますように。

 窓から差し込む光が、彼女の頬を優しく照らした。まるで彼女の祈りを、そっと受け止めるように。




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