第30話 研がれし刃V
【帝国紀元1799年5月11日 9:00】
【アルトゥイン伯爵領・アルトゥイン近郊】
ユリアは東の丘の上で乗騎の手綱を握り、眼下に広がる光景を見つめていた。朝の冷たい風が頬を撫でていく。
隣でリディアも同じように騎乗し、緊張した面持ちで前方を見据えている。
丘のすぐ下で、整然とした兵士の隊列が粛々と行軍を続けていた。鎧が擦れ合い、統制された足音が響く。兵士たちの表情は普段より引き締まっている。戦場が近い。古参兵でさえ、どこか緊張の色を隠せずにいた。
丘を下った先には平野が広がっている。緑の麦畑と点在する農家が見える。のどかな田園風景の向こう、平野の裾を流れる川の先のなだらかな丘の上に、ユリアたちの目的地が見えていた。
アルトゥインの街。
川音が風に運ばれて微かに聞こえてくる。
「あれがアルトゥインの街よ」
リディアが言った。
街は古い城壁に囲まれている。石積みの壁が重厚に立ちはだかり、城壁の上には多くの人影が見える。必死に防戦している。ユリアの目を引いたのは城壁の上ではなく下だった。
城壁の麓には無数のゾンビがうごめいている。その数は一万に迫るのではないだろうか。
「古い城壁に川が天然の堀になっているのね」
地形を確認しながらユリアが呟く。確かに川が街の前面を流れることで、天然の防御線を形成していた。
「ええ。古い街よ。本来なら川で前線と本陣を分断できる守りやすい地形なのだけど......」
「全てのゾンビが城壁に張り付いているみたいね」
人間の軍なら前線部隊を城壁前に、本陣を川の向こう側に布陣するところだ。だがゾンビたちには統制が見られず、まるで意志を持たない野獣のように城壁に群がっている。
「ゾンビには人間相手の常識は通じないわね。せっかくの天然の要害も、これでは単純な戦力勝負になって防衛側が不利だわ」
リディアの声に苦笑いが混じる。
「作戦は変更なし?」
「ええ。川の手前まで接近して、川を堀にして待ち構えるわ」
鉄板の作戦ね。ユリアは心の中で頷いた。こちらから積極的に接近してゾンビを城壁からおびき寄せ、川を天然の堀として利用して迎撃する。オルトゥスの時より動きのある作戦だが、川の地形的優位を活かせる分、猟銃部隊の射撃効果も期待できる。
私は盾役として、役目を果たさなければならない。
「じゃあ、私が中軍ね」
「今回もお願いね」
「任せて」
力強く答えながら、戦術的な可能性についても考えを巡らせる。こちらから接近すれば、人間の軍なら包囲を解いて川のこちら側に布陣してくるだろう。もしもゾンビが人間のような戦術的対応をしてきたらどうするか。
「ゾンビが気づいてこちらに渡河してきた場合は?」
「その場合は強行軍で接近して。渡河したゾンビを早期に撃破しつつ、川を利用して分断し、予定されていた態勢に」
「了解したわ」
間違いない作戦だった。そして、それを実行するだけの軍の力量も十分にある。
ユリアは改めて眼下の兵士たちを見下ろした。緊張はしているが、士気は高い。訓練も行き届いている。足元で乗騎が鼻息を荒くしている。馬も戦いの気配を感じ取っているようだ。
「さ、行きましょうか」
リディアが手綱を引き、馬首を返す。遠くから金属音が風に混じって聞こえてきた。
「ええ」
ユリアも馬を促し、丘を下り始める。
朝の静けさが、まもなく破られる。もうすぐ戦いが始まる。
***
半刻後、カラディン軍は戦闘隊形で前進していた。前軍にユリア、左軍にドミティウス、右軍にティトゥス、後軍にリディア。各部隊が連携を保ちながら、アルトゥインの街へと接近していく。
距離が縮まるにつれ、城壁での攻防戦の様子が鮮明に見えてきた。城壁に群がるゾンビたち。壁をよじ登ろうとしている。城壁の上からは石が落とされ、銃声が聞こえ、そして------
弓......?
ユリアは眉をひそめた。市民兵も混じっているのかしら。
近づくにつれ、防衛戦の詳細が見えてくる。城壁の上に軍服や鎧を着た兵士の姿が見えない。守っているのは平服の人々と、わずかな制服姿の者たち。
......城壁の上にいるのは......市民兵と警備兵かしら......諸侯軍はどこに?
城壁をよじ登ろうとしていた黒い波が、まるで一つの意志を持った生き物のように一斉に引いた。そして、こちらに向き直る。
気づいた!?
「ユリア中隊! 強行軍で行くぞ! 続け!」
ユリアの号令が戦場に飛ぶ。
「応!」
兵士たちの力強い返事が返ってきた。兵士たちには辛いだろうけど、仕方ないわね......私たちだけでも先行しないと。
(おっと、忘れずにシールドを起動しておかないとね。誤射上等の戦闘はなかなか慣れないわね......)
ユリアはブレスレットに魔力を通す。震えと共に回路が青白く光り、薄い膜が体を包む。
後方の部隊も急いでついてきているようだ。しかし、川の向こう岸にはもうゾンビの姿が見え始めている。黒い波が川に向かって流れ出していた。
川幅は30メートル程、川岸までは残り......500メートル近くはあるか。
「後衛! 各個で牽制射撃開始! 敵に川を渡らせるな!」
ユリアの指示が飛ぶ。
「他は射撃位置まであと400ミル! そのまま一気に進むわよ!」
後衛が足を緩め射撃体勢に入ったのをちらっと確認し、ユリアはそのまま前進を続けた。鎧の音が鳴り響く。兵士たちの息が荒い。
400ミル、300ミル、200ミル------川岸までの距離が刻々と縮まっていく。足音が地面を踏みしめる音、武器が揺れる音。緊張が高まる。
数十秒後、放物線を描いた魔弾が向こう岸に着弾し、火柱を作り始めた。魔法の熱気が風に乗って届いてくる。
向こう岸には黒い壁ができ始めていた。先頭集団はもう川を渡り終えそうだ。
なかなかの感知能力ね......ただ、このタイミングならそれほど多くはこちらに渡れないでしょう......
前進を続けるうちに、川岸周辺にはゾンビが群れを作り、こちらに向かって動き始めているのが見えた。
川岸まであと100メートル......これ以上接近は厳しいか。
「前進中止! ここで先頭の敵を潰すわよ! 射撃準備! 近接も構えなさい!」
「応!」
兵士たちの声も熱気に包まれている。鋼が鳴り、革が軋み、そして迫りくる敵の足音が近づく。
ゾンビたちはもう目前まで迫っている。その顔に人間だった頃の面影はなく、ただ本能のままに動く化け物と化していた。
「中衛! 構え! ......撃て!」
一斉射撃の轟音が戦場を揺るがした。
目前に迫っていたゾンビの群れに大量の鉛玉が撃ち込まれ、黒い塊を引き裂く。硝煙の匂いが鼻を突いた。
すぐに次の指示を飛ばす。
「前衛突撃! 川まで押し戻せ!」
近接兵たちが怒号を上げる。鎧が鳴る。肉を潰す鈍い音が続く。
「中衛! 分隊斉射に切り替え! 前衛についてきなさい!」
ユリアも近接兵と肩を並べ、剣を振るって敵を一気に切り裂いていく。
刃が肉を裂く感触。鉄錆の匂いが鼻腔を刺す。倒れ伏すゾンビたちの重い音が足元で鳴り、血飛沫が頬を濡らした。
続く第二射、第三射で、こちらに渡ってきていたゾンビの集団は大半がもの言わぬ骸と成り果て、川岸に累々と積み重なっている。
「前衛、川岸で敵を迎え撃つわよ! 後ろに通すな!」
河原に立った近接兵のすぐ後ろに銃兵たちも構え始める。川に入り、水の抵抗で足をとられてよろめくゾンビに、鉛玉の雨を降らせ始めた。水しぶきと血しぶきが混じり合い、川の水が徐々に赤く染まっていった。
土手の斜面に展開した銃兵たちが、川を渡ろうとするゾンビに向かって角度をつけて一斉射撃を加えている。
向こう岸には他の部隊の魔法攻撃も着弾し始め、黒い波を押しとどめようと赤い光を放っている。炎と煙が立ち上る中、ゾンビたちの群れがうごめいていた。
なんとか間に合ったわね。さすがにあの数と平野で対面は勘弁願いたいもの。
川を渡っている最中に散々に撃ち込まれているゾンビは、辛うじて渡ってきたものも近接兵が素早い連携で取り囲み、確実に息の根を止めていく。一人が敵を押さえ、もう一人が急所を狙う。訓練の成果が如実に表れていた。
***
続く敵の群れを、カラディン軍は整然と打ち破っていく。
兵士たちの息は上がり、魔導部隊の者たちも疲れの色を見せている。部隊の連携は保たれている。ユリア中隊の横に回り込もうとする敵にも、後方の部隊が素早く火力を集中させ、近接兵が援護に走ることでそれを阻止した。
対岸にいるゾンビのほとんどがこちらに向かってきている段階になると、魔導部隊の攻撃は川に着弾し始め、大きな水柱が立ち始めた。効果はあまり大きくないようだが、強い水流が発生し、ゾンビたちの足並みは乱れていく。
順調......ね。見えてる範囲であらかたおしまいかしら。陽も随分高くなった。もう昼前だろうか。
城壁の方を見ると、まだ城壁の兵たちが下に向かって攻撃しているのが見える。
まだ下に敵がいる? ......あれは......
目を凝らすと、今までとは違う、金属の鎧を着ているゾンビが壁を登ろうとしているのが見えた。
鎧!? 近接兵の鎧......みたいね......なぜそんなものが......それにこちらに見向きもしない......?
最初に壁を登っていたゾンビたちより明らかに上まで登っている武装ゾンビたちに、城兵たちが槍や、今まで見なかった魔導銃の攻撃も少数ながら加えているようだ。
あれはまずいわね、登られると市民兵では......
川の中の近接戦闘は厳しい......とは言えあれを見過ごすのはダメね......やるしかない......
「伝令! 本陣に連絡! 我、突撃を敢行する。援護を求む、以上よ。急いで」
「ハッ」
兵士が後方に走っていくのが見える。
「ユリア中隊! 5分後に突撃を敢行する。後詰めの兵も投入して」
「お、応!」
再度の突撃と聞いて兵士たちの顔に一瞬驚きが走ったが、大きく返事を返す。汗に濡れた顔、荒い息遣い、それでも背筋は伸びていた。
「中衛! ギリギリまで川に近づいて援護射撃をして! 近接が渡り切ったらすぐに渡河を! 弾はまだ足りるわね?」
慌てて後方から来たのか、カリスが息を荒げて走ってきた。
「隊長! まだ川に敵がいるのに突撃するのか!? 死ぬぞ!」
「城壁を見て。あれを登らせるのはまずいわ。急いで食い止める必要があるわ」
「......城壁? なんだ、あれ。鎧!? マジかよ......くそ、そういうことかよ、わかったよ隊長、援護する!」
「ええ、頼んだわよ」
「さあ、行くわよ! 前衛突撃! 私に続きなさい!」
城壁を突破されれば街は陥落する。ここで食い止めるしかない。
私に続いて次々と川に入る近接兵。
冷たっ......! 体の動きが鈍りそうだけど仕方ないわね......。
川の流れは思ったより強く、重い装備を身につけた状態での渡河は想像以上に困難だった。川の中で対峙するゾンビに両手剣を振り下ろす。
身長が低いのはこういうとき辛いわね......
足場が不安定な中、なんとか渡り切ったところで他の前衛を待つ。重い装備に足を取られながらも続々と渡河を完了していく兵士たち。渡河中の兵士たちの列が乱れ、一人が滑って倒れかけたのを、隣の兵がとっさに腕を引いた。足場を取られれば、そのまま流されかねない。
全員が対岸に上がり、急いで隊列を組み直す。盾を前に、槍兵がその後ろに並ぶ。濡れた鎧が重く、足元は不安定だが、訓練通りの陣形がみるみる整っていった。
「急いで! 隊列を立て直したらすぐ行くわよ! 目標は城壁下の武装ゾンビ!」
さすがに至近距離に展開されるのは嫌だったのか、壁を登ろうとしていた武装ゾンビたちが、川を渡って陣形を整えたこちらに向かってくる。
城壁からは引き離せたか......
「さあみんな、最後の一仕事よ! いくわよ!」
「応!」
冷えた体を温めるかのように、勢いよく答える兵士たち。
近くで見る武装ゾンビは、かつての兵士そのままのような姿で現れた。錆びた金属鎧には古い血の跡がこびりつき、首元の肉は腐り、空洞の目がぎらついていた。それでいて、まるで訓練された兵士のように剣や槍を持ちこちらに向かってきている。金属音が風に混じって聞こえてくる。
これまでの相手とは明らかに違う------統制された動き、的確な間合い。
まさか......ゾンビが戦術を理解してる? そんなはずない......でも、この動きは......
両軍がぶつかり合い、近接戦闘が始まった。
「うらぁぁぁぁ」
大きな掛け声と共にレオニダスが盾を構えている武装ゾンビに戦槌を叩きつける。鈍い衝撃音。敵が後方に吹き飛び、地面に叩きつけられる。骨の砕ける音が聞こえ、周囲の兵士たちから安堵の息が漏れるのが聞こえた。
ユリアも鋭く突きを放ってきた槍持ちゾンビの攻撃を躱し、敵が槍を引くよりも早く斬り上げる。刃が肉を裂く感触------だが、これまでとは違う手応えだった。腐臭の中に混じる、まだ新しい血の匂い。
こいつら......! 動きの速さが全然違う!
「気を付けて! こいつら、武装だけじゃないわ! 動きも速いし技術があるわ!」
あちこちで近接兵が苦戦しているのが見てとれる。金属の激突音が断続的に鳴り、兵士たちの荒い息遣いが聞こえてくる。血の滲む傷を負いながらも剣を握り続ける手、歯を食いしばる顔。レオニダスは相変わらず豪快に戦槌を振り回しているが、他の兵士たちには深刻な苦戦の色が見えていた。
援護したいけど......さっきから次から次へと向かってくるわね......まるで私の足を止めるためかのように......!
息も上がってきた。長時間の戦闘で体力も消耗している。
次に現れた剣持ちゾンビが横薙ぎに斬りかかってくる。
それを受け流す。カウンターで横薙ぎを返すが、それを剣で受ける剣持ち。ガキンという金属音。
しかし、ユリアの常識外の膂力の前では、相手の剣も防御も意味をなさない。刃と刃がぶつかり合った瞬間、敵の武器が粉砕され、そのまま一閃で敵を両断した。血飛沫が地面を濡らす。
さらに後ろから新しいゾンビが現れた瞬間------
「小隊、撃てぇ!」
指示通りに渡河してきたカリスの号令とともに、近接兵の隙間から激しい猟銃の銃撃が加えられる。一斉射撃の轟音が響き渡った。
身に着けたシールドが一瞬白く光り、鋭い衝突音が鳴る。大量の弾丸が力を失って地面に落ちるが、それでも、近接戦の武装ゾンビにはそれ以上の弾丸が突き刺さり、穴だらけになって倒れていく。硝煙の匂いが鼻を突く。
「かてぇ! 次、射撃準備急げ!」
まさに味方諸共......でも助かったわ。
「援護が来たわ! 敵の陣形が崩れた! 今よ! 押し込みなさい!」
ユリアが号令をかけると、その前にマントを付けたゾンビが現れる。他の武装ゾンビとは格が違う------装備も立ち居振る舞いも。それは、他のゾンビとは別次元の存在だった。姿勢は正しく、首はかすかに傾けられている。まるで、ユリアを「見ている」かのように------。
「ふーん、あなたが親玉ってわけ?」
返事は返ってこない。だが、マント付きゾンビはゆっくりと剣を面前に掲げた。
ユリアも剣を構え直す。
(騎士礼? 意識があるとでも言うの?)
瞬間、ゾンビが動いた。剣が逆袈裟に切り上がってくる。ユリアは半歩後ろに引いて躱す------だが、相手はそこで止まらない。切り上げた勢いを殺さず、円を描くように剣を振り下ろしてくる。
思わず舌打ちがでる。
ユリアが剣で受け止める。ガキィンという鋭い金属音。衝撃が腕に響く。剣を弾き返すと、ゾンビが軽やかに後方に跳んで距離を取り、再び構え直した。
その隙を逃さず、ユリアが一気に距離を詰める。
勢いのまま喉元に目掛けて突きを繰り出す。だが、ゾンビはその突きを剣で左に逸らした。
弾かれた勢いを利用して、ユリアは剣を左にひねりながら頭上へと振り上げる。同時に、ゾンビも突きを弾いた反動で半歩後退し、剣を横に構える。
一瞬の静止------そして、ほぼ同時に両者が動く。
ユリアの上段からの振り下ろしと、ゾンビの横薙ぎが激突する。
ガァンという重い金属音。
ユリアの剣がゾンビの横薙ぎを弾き返す。
「いくわ」
半歩下がり、ユリアは全身の力を剣に込めて横薙ぎに払う。ブレスレットが激しく震え、青白く光る。
ゾンビは剣を両手で構え、受け止める姿勢を取った。
だが------
ユリアの常識外の膂力を込めた一撃の前では、防御など無意味だった。
剣が叩き折られる。鋼鉄が砕ける乾いた音。
そのまま胴を横一線に払う。
鎧が切り裂かれる金属音と、肉を断つ水音が重なり合う。
マントをつけたゾンビを叩き斬った瞬間------
世界が止まった。
武装ゾンビたちが一斉に硬直する。まるで見えない糸で操られていた人形から、突然その糸が切れたかのように。川の流れる音だけが妙に大きく聞こえる。兵士たちの荒い息遣いさえも途絶えた異様な静寂。
「え......?」
誰かの困惑した声が妙に大きく聞こえる。
そして------次の瞬間、武装ゾンビたちがバラバラと崩れ落ちるように動き出した。統制された動きは完全に失われ、もはやただの腐った肉塊でしかない。近接兵たちが戸惑いながらも、次々と敵を片付けていく。
静寂が戻る。終わった。
こいつが指揮者だったってこと......? ただの群れではない......? 操られている......? いや、自ら考えて動いている......? いったい、これは------
勝鬨の声の中、足元に倒れ伏したゾンビを見つめる。
(もしもゾンビに指揮系統が存在するなら------今まで想定していた脅威のレベルを、根本から見直す必要があるわね......)




