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終末の血族  作者: 天津千里
序章:竜殺しの平野
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第3話  竜殺しの平野III

【帝国紀元1203年 秋 午後】

【シルヴェルタ平野・帝国軍本陣】(ミヅキ視点)


 私は本陣から戦場を見つめていた。朝から始まった戦闘は太陽が直上を過ぎてもなお激しさを増して続いている。

 鉄と血の匂い。汗と砂埃。北西戦線の悲鳴が風に乗って届いてくる。

 ついに渡河を許したようだ。

 王国の大軍が川のこちら側に展開し始めている光景が、本陣からでも遠目にはっきりと見えた。ガゼリウムのお爺さんはあの状況でも耐えている。

 西では本陣前にいた前軍が巨大なトカゲと戦い始めていた。ずしん、ずしんと地響きが足の裏から伝わってくる。

 本陣の近衛たちも慌ただしく武器を手に取り、戦闘準備を始めている。空気が張り詰めていた。金属のこすれる音。

 そろそろ、私の出番。

 私が出たら。もう。あとは死ぬか勝つかだけ。

 私はソリウスのところへ向かった。彼の周りには伝令兵たちが駆け回り、怒号が飛び交っていた。


「セレニウス伯爵に伝令を送れ。本隊は蛮族の北に回り込め。予備をガゼリウム侯爵の援護に回せ 」

「ハッ」


 伝令兵が駆け出していく。

 私はソリウスの前に立った。


「私の出番はそろそろ?」

「ちょうど呼ぼうと思っていたところだ。行けるか?」


 また。この流れ。いつもの依頼。


「もちろん。あの3匹のトカゲでいい?」


 どうせ殺すのは私。汚れ役はいつも私。


「ああ。あの3頭を仕留めてくれ。その後は近衛を率いて敵軍を貫け 」

「了解。......ちゃんと功績には報いなさいよ?」

「ふ、皇帝になるんだ。約束は果たそう 」

「期待してるわ」


 また約束。また嘘。でも信じるしかない。


 そう言いながら、愛用している両手剣を担いだ。

 “月影”――私の身の丈ほどもある大剣で、20キロは軽く超える化け物のような代物だ。それでも私の手には馴染んでいた。

 銘は自分で彫ったもの。この世界では誰も読めない文字だが、もうその文字が何を意味していたのかも曖昧になってきた。ただ大切だったということだけが残っている。

 誰かの名前だったような。小さくて、温かくて、しっぽを振って私を見上げてくれた小さな命。私が最後に守ろうとしたもの────そうだった、はずだ。

 帰りたい――その一心で刻んだはずの文字なのに、今では何のために帰りたかったのかすら、わからない。

 嘘ばっかり。帰る手段なんてとうに失われているのに、皇宮の地下書庫なら必ずだなんて。

 でも。それでも。信じるしかもう道はない......。たとえそれが、どれだけ儚い希望でも......私には......。

 考えに沈みながら前へ進んでいるうちに、トカゲが迫ってきていた。兵士たちの怒号と悲鳴が耳を劈く。トカゲの巨体が進む振動が足の裏から伝わってきて、その咆哮が空気を震わせた。

 胸の奥がざわめく。鉄の匂い。汗の匂い。恐怖の匂い。


 この手に、どれほどの血が染み込んだんだろう? もう、わからない。わからなくなってしまった。


 トカゲの周囲にいた護衛兵たちがこちらに向かってくる。もう何も感じなかった。

 横薙ぎで払い飛ばす。ぐしゃり。肉の潰れる音。人間の体が軽すぎる。紙を破くみたい。

 巨大な質量が尋常ではない力で振るわれて、もう1体の竜が暴れたような惨状が周囲に広がった。赤い飛沫が頬に飛ぶ。温かくて。鉄の味が舌に。


 もうすでにお父さんの。顔も。お母さんの顔も。曖昧になっている。


 最初のトカゲが前足を振るい潰そうとしてくる。でも遅かった。あまりにも遅かった。

 巨大な影が頭上を覆った瞬間には、もう私はそこにいなかった。時間が引き延ばされたみたいに、全てがゆっくりと見える。トカゲの瞳孔が恐怖で収縮するのまで見えた。

 その足に剣を突き立てて引き裂く。ぶつり、ずるり。肉を裂く嫌な音。筋肉が千切れる感触。

 トカゲが悲鳴を上げながら暴れようとしたが、引き裂かれた前足でバランスが崩れて、ずしんという音とともに倒れ伏した。


 いや。果たして私に。家族は。いたんだろうか。


 倒れたトカゲがこちらを恐怖の目で見ている。このトカゲは諦めていた。もう抵抗しようともしない。ただ震えて、私を見つめている。でも、あまりの恐怖で体が動かないようだった。

 そのトカゲの首に月影を振り下ろす。ずぱん。ただの一撃で首が斬り落とされた。

 恐怖で強張っていた体から力が抜けて、もう動かない。どくどくと赤い液体が地面に広がっていく。生温かい血の匂いが鼻腔を満たす。

 それを見た周囲には沈黙が降りた。一瞬なのか、永遠なのか、もうわからない。

 がちゃり、と誰かが武器を落とす音。ざざざ、と後ずさりする足音。

 今まで戦っていた兵士たちも皆、その異様な光景に戦いの手を止めてこちらに注目していた。視線が突き刺さる。でも、もう慣れてしまった。この視線に。


 この世界に来る前は。何を。していたんだっけ? 学校? 自宅? それとも......?


 残る2匹のトカゲも仲間が人間に斬り殺される姿を見て動きを止めてこちらを見ている。

 2匹目のトカゲの目には驚愕だけでなく、怒りの色も浮かんでいた。怯えているけれど、まだ戦う意志を失っていない。

 3匹目は完全に後ずさりしている。逃げ腰。

 その2匹目に向かって走り出す。世界が静寂に包まれる。

 でも今度は違う静寂。集中した時の、鋭敏になった感覚。自分の足音だけが。ぺた、ぺた、と響いている気がした。血溜まりを踏む音。

 動きを止めていた護衛兵の至近距離まで迫ったところで護衛兵が動き始める。でも、あまりに鈍い動き。水の中を動いているみたい。その隙間を容易くすり抜けた。私の動きは彼らの目には映らない。

 このトカゲは違った。私の接近を察知して、大きく口を開けて咆哮を上げながら噛みつこうとしてくる。

 でも、その口の中こそが狙い目。

 こちらを呆けたように見ていた最初のトカゲとは違って、この子は最後まで戦った。

 口内から脳天に向けて剣を突き刺す。ずぶり。柔らかい感触。温かい液体が手に伝ってくる。

 トカゲは一瞬前足で薙ぎ払おうと動いたけれど、すぐに力尽きて、大量の赤い液体とともに護衛兵を巻き込んで倒れた。また血の海。鉄錆の匂いが立ちのぼる。


 この子は最後まで諦めなかった。だから、せめて苦しまないように。一撃で。


 2匹のトカゲが倒れたのを見て、残ったトカゲが慌てたように背を向けて逃げ出そうとしている。

 この最後の1匹は完全に戦意を喪失していた。ただ逃げることしか考えていない。

 その姿が急に滑稽に見えた。こんなに大きいのに。

 周囲の兵士たちも再度動き始めたようで、世界に音が満ちる。でも私にはまだ、全てがゆっくりと見えていた。

 時間が歪んでいる。私だけの時間。

 その音を背に逃げようとしているトカゲに駆け寄った。もう追いついてしまった。トカゲの必死な逃走も、私には歩いているようにしか見えなかった。

 その尻尾を上から刺し貫き、地面に縫い付けた。ずしゃり。トカゲの恐怖に満ちた絶叫が響き渡る。


 この子はただ逃げたかっただけなのに。それなのに。


 尻尾から剣を引き抜いて、トカゲの腹の下に潜り込んだ。普通なら危険すぎる行動。このトカゲはもう抵抗する気力もなかった。

 そしてその白い腹を縦に大きく切り裂いた。ずるずると内臓の重い音。腹からは血と臓物が降り注ぐ。生温かくて。粘つく感触。

 それを躱して足を叩き折り、ぼきり、という鈍い音とともにトカゲの下から素早く抜け出した。

 激しい絶叫も血の海の広がりとともに静かになって、やがて何も聞こえなくなった。世界の時間がまた正常に戻る。

 世界に響いていた味方の悲鳴と敵の怒号はもはや逆転していた。今では敵の恐怖と混乱の声、味方の鬨の声が響いている。戦場は勝利の雄叫びに満ちていた。だが、私の胸は空虚だった。


 故郷の記憶は。もう。薄れ続けている。


 戦場の音が戻ってきた。敵の悲鳴。味方の雄叫び。

 後ろでは、近衛兵たちが敵軍に向かって突撃していくのが見える。

 周囲の敵兵たちは、恐怖と絶望に凍りついた表情で、ただ私を見ていた。私を化け物を見るような目で見つめていた。

 でも、その中の一人が震え声で呟いた。


「化け物だ......」「あれが......勇者......」


 誰一人として目を逸らせず、動くこともできないようだった。近衛兵たちの怒号と剣戟の音が、どんどん迫ってくる。

 押し込まれていた味方は士気を取り戻し、動きを止めた敵軍は、憐れなほど容易く打ち崩されていった。


 あまりにも。簡単すぎる。


 この軍はもう、機能しない。私が3匹のトカゲを倒しただけで。たったそれだけで。

 指揮官らしき人物が退却の命を叫ぶ声が、風に乗って聞こえてくる。はるか北の端では、セレニウス伯爵の旗印が敵陣の奥深くで靡いていた。

 あ、王国軍が気づいた。

 慌てたように揺れ動いているのが見える。

 ......変わった。

 私の剣で、この戦が。たった一人の力で、何千もの命の運命が。

 でも、胸の奥は、何も満たされていない。

 虚しい。いつものように。


 私は、何を求めて、こんなにも血を流しているのだろう。答えは、もうない。


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