第28話 研がれし刃III
【帝国紀元1799年5月3日 10:00】
【カラディン辺境伯領・オルトゥス街道道中】
カラディンを出発してから七日目――周囲には緩やかな起伏を描く丘陵地帯。街道は山間を縫うように続き、時折現れる急坂に兵士たちの足取りも重くなる。朝の冷気はまだ残るものの、日が高くなるにつれて汗ばんでくる。荷物を背負った兵たちの息遣いが荒くなり、時折愚痴めいた呟きが聞こえる。長い行軍の疲れが隊全体に重くのしかかっていた。
ユリアは馬上から部隊の様子を見回す。先頭から三番目の銃兵小隊では、若い兵が足を引きずる――靴擦れだろう。後方の荷馬車では御者が時折振り返って積み荷を確認する。恐らく魔導弾の梱包が緩んでいる。全体的に士気は保たれているが、行軍七日目の疲労が隊列の微妙な乱れに表れ始める。
(そろそろ戦場が近い。兵たちの緊張も高まってる)
そんな中、列の中ほどで何やら賑やかな声が聞こえる。
(あれは......レオニダス? セリーヌに話しかけるなんて珍しいわね)
近接小隊を率いるレオニダスが、魔導小隊のセリーヌに何かを話しかける。普段は自分の小隊の統制に集中している彼が、他の小隊長と雑談するなど滅多にない。しかも相手はセリーヌ――今回初めて小隊長に抜擢された彼女だ。
(大丈夫かしら。出会ったときといい、聞いた話といい、セリーヌとは水と油のように思えるのに)
「おい、跳ねっ返り娘。後ろの連中が、お前の髪で目がチカチカするって言ってるぞ」
レオニダスの声が山道に届く。その言葉に、セリーヌがぎろりと振り返る。茶色の髪が朝日を受けて跳ねているのは確かだが、それを指摘されて機嫌が良いはずもない。
「誰が跳ねっ返りよ、ああん?」
セリーヌの声には明らかな苛立ちがこもる。手にした魔導銃を握り直し、レオニダスを睨みつける。
「その跳ねた髪が、立派な証拠じゃないか」
レオニダスが肩をすくめて答えると、セリーヌの眉がさらに吊り上がる。
「じゃああんたはなによ、その鎧で『俺が的だ』って主張してんの? 目立ちたがりの鉄くずね!」
確かにレオニダスの鎧は他の兵士のものより装飾が多く、陽光を反射して目立つ。セリーヌの指摘は的を射ていた。
少し離れた場所で始まったやりとりに、周囲の兵士たちも注目し始める。行軍の単調さを破る娯楽として、興味深そうに耳を傾けていた。
「あれ止めなくていいんですか?」
心配そうな瑞希の声が横から聞こえる。副官として隣を歩く彼女の表情も強張っている。
「ただのじゃれあいじゃないかしら......」
ルシアが穏やかに答える。その声には状況を見守る余裕があるようだった。
瑞希が心配している様子など気にも留めず、二人はまだやりあう。
「これはな、安心感ってやつだ。戦場のシンボルだよ」
レオニダスが胸を張って言うと、セリーヌが呆れたような声を上げる。
「自分で言ってる時点で安心できないわよ!」
その時、近くにいた兵士の一人――頬に古い傷跡のあるベテラン兵が小声で呟く。
「セリーヌ隊長、レオニダス隊長と仲良いんすね......」
「だな。でもレオニダス隊長って強いんだろ? よく食って掛かれるよな......」
答えたのは入隊したばかりの若い兵士で、まだ緊張で肩が強張る。その声がセリーヌに聞こえてしまう。
「そんなのじゃないから! あんたたち、こっち見てないで前見て歩きなさい!」
セリーヌが振り返ると、兵士たちがあたふたする。
「い、いえ! 滅相もないです......!」
あたふたする新人兵たちの様子を見て、レオニダスが大声で笑う。その笑い声が山道にこだまする。
「はっはっは、そんなにいじめるなよ! 怖がってるぞ!」
「うっさいわね! その花火みたいな声をどうにかしなさい!」
セリーヌが苛立ちを隠そうともせずに叫び返すと、レオニダスはさらに愉快そうに笑う。
「緊張しているかと思ったが、思ったより跳ねっ返りが強かったな。火傷しそうだ!」
その言葉に、セリーヌは一瞬だけ言葉に詰まる。頬がわずかに赤らみ、視線が泳ぐ。それから慌てたようにそっぽを向いて、いつもより早口で言い返す。
「......あたしのことまで気にしないでいいの! あんたはさっさと自分の列に帰りなさい!」
「おお、こわいこわい。それじゃあ退散するとしよう」
レオニダスが手を上げて降参のポーズを取る。
「いいから早く帰りなさい!」
(レオニダスが緊張を解そうとしてたのね。意外ねぇ......)
ユリアは二人のやりとりを見ながら、内心で分析する。セリーヌは昨夜から魔導銃の手入れを繰り返し、明らかに小隊長としての責任に不安を抱えている。それを察知したレオニダスが、あえて軽口を叩いて場を和ませようとしているのだろう。普段は生真面目な彼にしては意外な気遣いだった。
前方の道が急に開け、遠くに煙の柱が立ち上がる。オルトゥス領の境界に入ったのだ。あの煙は――恐らく燃えた家屋の残り火だろう。戦場の匂いが風に混じり始める。
そのとき、前方から伝令の声。
「全部隊小休止! 各隊長は本陣に集合!」
号令が山道に響き渡り、行軍していた部隊が次々と足を止め始める。兵士たちがほっとしたような表情を浮かべながら、荷物を降ろし始める。
(出番ってわけね。さて......いきますか)
ユリアは馬から降り、手綱を近くの兵士に渡す前に、馬の鼻先を軽く撫でて労う。長い道のりを運んでくれた馬へ感謝を伝える。遠くの煙がより濃くなり、空気に混じる焦げた匂いも強くなる。オルトゥス城館まで、恐らくあと数ケイミル――いよいよ戦場の只中に踏み込む時。
本陣には各中隊長が集まる。簡素なテーブルの上にはオルトゥス周辺の地図が羊皮紙に詳細に描かれ、その上に小さな石が戦力配置を示すように置かれる。地図を見ると、ここキスラカミル峠から南西に5ケイミルほどの距離にオルトゥスの街。途中は深い谷が続き、オルトゥス近郊は周囲を丘に囲まれた盆地になる。地形的には攻めやすいが、同時に包囲されやすい危険な場所でもある。
「斥候からの報告よ」
リディアが地図を指差しながら口を開く。その表情は引き締まっている。
「事前情報の通り、オルトゥス新市街にはゾンビが徘徊中。住民は城館のある旧市街に避難済みのようね。ただ、物資がどれだけ持つかは分からないわ」
「では、その市街地のゾンビを早急に排除する必要がありますね」
ティトゥスが地図上の市街地を見つめながら言う。職業軍人らしく冷静な口調だった。
「敵の数は?」
ドミティウスが実務的な質問を投げかける。
「事前情報では3000となっていたけど、実際はもう少し多そうよ。ただ、市街地のため詳細は不明」
リディアの報告に、ドミティウスが顎に手を当てて考え込む。
「いずれにしろ、我々の倍近くと見て良さそうですね」
数的不利は明らか。ユリアは地図を見つめながら意見を述べる。
「市街地への突入は避けたほうがよさそうね。思わぬ被害を受けそうだわ」
建物に隠れた敵との市街戦は、訓練された軍隊にとっても危険が大きい。特に相手が痛みを感じないゾンビとなれば、なおさら。
「郊外の平野部に誘引できるといいけれど......」
「軽騎兵を市街地に接近させて誘引するのはどうかしら?」
「いいわね。その手を試してみましょう」
騎兵なら機動力を活かして安全に撤退できるはず。
「ならば、オルトゥスには迎撃を意識して接近すべきね」
「中軍はユリア殿にお任せしても?」
ドミティウスが確認するように尋ねる。その眼差しには、あの夜戦での活躍を信頼する色が宿っていた。
「ええ。そのための我が中隊よ。敵の前進を食い止める役は任せて」
ユリアの確信に満ちた返答に、ティトゥスが頷く。
「では我々が左右から援護を」
「私が中軍の後ろから支援するわ」
リディアの配置に、ユリアは更なる要請をする。
「前衛の近接兵をお借りしても?」
「もちろんよ」
「ありがとう」
「後方に野戦陣地を設営するのはどうでしょう? 万が一後退する際に、迎撃拠点があると安心です」
「たしかにな。ユリウス殿からお借りした部隊を設営にあててみるのはどうでしょう?」
「万が一の備えは大切ね。そうしましょう」
最終的な作戦方針が固まる。
「では布陣に合わせて軽騎兵を動かすわ。もし誘引できなかった場合はそのまま前進。市街地直前まで行く」
「わかったわ」
ユリアが頷くと、リディアが会議の終了を告げる。
「では、各員行動開始」
「ハッ!」
中隊長たちの力強い返事が峠の風に乗る。いよいよオルトゥス攻略戦の幕が上がろうとしていた。
軍議から約一刻後――リディア大隊は作戦に従って前進を開始した。
キスラカミル峠から南西へ向かう街道は、次第に下り坂となる。両側に切り立った岩壁が迫る谷間の道を抜けると視界が開ける。遠方にオルトゥスの街並みが霞んで見える。街の上空に黒い煙が立ち上がる。風が運んでくる焦げた匂いに、不吉な臭いが混じる。正午の強い陽射しが煙を透かし、街並みを不気味に照らし出す。
ユリアは中軍の先頭に立ち、堂々とした足取りで歩く。彼女の中隊は大隊の中央を進み、兵士たちの視線が背中に注がれるのを感じる。しかし、近くを歩く若い銃兵の手が微かに震えるのも見逃さない。汗ばんだ手で武器を握り直す音が、規則正しい行軍の足音に混じって聞こえてくる。
(各小隊の連携も取れている。いい仕上がりね。エルズリウムでの経験が活かされているかしら)
ユリアの左右やや後方では、ドミティウス中隊とティトゥス中隊が歩調を合わせて前進する。三つの中隊が一体となって進む様は、まさに訓練された軍隊の威容。兵士たちの足音が規則正しく地面を叩き、武具の金属音が山間にこだまする。しかし、その音の中に時折混じる兵士の息を詰める音や、革手袋で柄を握り直す音。戦闘が間近に迫っていることを、誰もが意識していた。
「距離3ケイミル」
前方の斥候からの報告が伝令によって伝えられる。オルトゥスの街並みがより鮮明に見えるようになり、建物の一部が破壊されているのも確認できる。街の外れには確かに人影が蠢くが、この距離では詳細は分からない。それでも、その動きが妙にぎこちないことだけは、ユリアにも見て取れる。
部隊は更に前進を続ける。街道の両脇には放棄された農家が点在する。扉は開け放たれ、庭には農具が散乱し、畑には血痕らしき茶色い染みが点在する。住民たちが慌てて避難した痕跡を、ユリアは改めて確認する。
兵士たちの足音が規則正しく地面を打つ。南からの乾いた風が平野を渡り、真上からの強い陽光が鎧を熱する。雲一つない青空。ユリアはその下で繰り広げられようとしている戦いを思い、美しい天候が却って不気味に感じられる。
やがて道が緩やかに下り始め、視界がさらに開ける。
「布陣位置まであと500ミル」
再び斥候からの報告。予定していた布陣地点――オルトゥス市街から2ケイミルほど離れた小高い丘が見えてくる。なだらかな起伏を持つその丘は、頂上部分が平坦で陣地構築に適する。そこからなら市街地全体を見渡すことができ、魔導銃の射程圏内でもある。地形的にも後退路が確保でき、側面攻撃を受けにくい理想的な陣地。
その時、大隊の両翼から土埃を上げながら騎兵部隊が駆け出していく。軽騎兵たちは軽やかに馬を操る。街道を外れて直接オルトゥス市街へと向かう。馬蹄音が風に乗って響き、騎兵たちの颯爽とした姿が戦場に躍動感を与える。太陽光が馬具や槍先を反射し、まるで光の矢のように駆け抜けていく。
「美しいわね」
隣を歩くルシアが、騎兵部隊の動きに感嘆の声を漏らす。ユリアもルシアの感想に同感だ。統制の取れた騎兵の進撃には一種の芸術的美しさがある。馬と騎手が一体となって駆ける姿は、まさに戦場の華と呼べるもの。
「ええ。だけど、これから危険な役回りを担うのよ」
ユリアの声には騎兵たちへの敬意がこもる。敵を誘引するという任務は、一歩間違えば全滅の危険を伴う。それでも彼らは躊躇なく敵陣に向かっていく。
騎兵部隊はオルトゥス市街の外れに接近すると、左右に分かれて市街地の周辺を駆け回り始める。街の中から、ぞろぞろと人影が現れ始めるのが遠目にも確認できる。ゾンビたちが騎兵の存在に反応し、市街地の各所から這い出してくる。
風向きが変わった瞬間、街の方角から低い唸り声のような音が微かに聞こえてくる。それは人間の声とは明らかに違う、野獣のような、それでいて人間の名残を感じさせる不気味な響き。近くにいた兵士の一人が、思わず身震いする。
騎兵たちは巧みに馬を操り、より多くの敵を誘い出すため広範囲を機動する。街から流れ出してくるゾンビの群れは、遠目に見ても明らかに異常。歩調は緩慢だが途切れることがない。黒い波のように街から溢れ出してくる。
「誘引に成功したようね」
ユリアが呟いた瞬間、騎兵部隊が一斉に踵を返す。敵を引き連れながら、計画通り平野部へと撤退を開始する。市街地からは続々とゾンビが湧き出し、騎兵を追って平地へと向かってくる。ユリアは冷静に数を数える。二千、いや三千は下らない。軍議で聞いていた通りの規模。エルズリウムの四万に比べれば扱いやすい数だが、油断は禁物だ。
近づいてくるにつれて、ゾンビたちの異様さがより鮮明になってくる。商人らしき男の衣服の破れから何かが覗き、農作業着の袖が空虚に揺れる。パン職人のエプロンには小麦粉と、それとは違う赤い染みが混じる。かつての職業が偲ばれる服装が、かえって生前の姿を想像させる。周囲の兵士たちから漏れる息を呑む音に、ユリアは彼らの動揺を察した。
「布陣完了!」
リディアの号令が戦場に届く。リディア大隊は予定していた陣地に到着し、各中隊が迅速に戦闘配置につく。ユリア中隊は中央に、ドミティウス中隊とティトゥス中隊がその左右に展開する。後方では魔導部隊が射撃準備を整え、更に後方には野戦陣地の設営も始まる。
オルトゥス市街から流れ出したゾンビの群れは、騎兵を追って平野部に誘い出される。騎兵部隊は見事に敵を引きつけ、カラディン軍の布陣を完了した丘陵地帯へと誘導する。ユリアは満足げに頷く。計画通りだ。
「中隊射撃準備!」
ユリアの号令が陣地全体に届く。各小隊が即座に反応し、魔導銃兵と銃兵が射撃体勢を整える。近接兵たちも盾を構え、いつでも接近戦に移れる態勢を取る。緊張が戦場を支配し、全ての兵士が次の命令を待つ。浅くなった呼吸音。革靴が土を踏みしめる音。それらが静寂の中に響く。
遠方では騎兵部隊が巧みに敵を誘導し続ける。ゾンビの群れは着実にカラディン軍の射程圏内に近づく。オルトゥス救援作戦の第一段階は成功したと言えるだろう。
ユリアは戦場を見渡しながら、静かに呟く。
「さて、いよいよね......」
そう言うと、ユリアは瑞希の方に振り返る。
瑞希が大切に両手剣を抱えながら戦場の光景を見つめている。足元の土を強く踏みしめ、剣を抱える腕に力を込めているようだ。その表情には決意の色と共に、間近で戦いを見守る緊張と高揚感が入り混じっている。
「瑞希、両手剣を」
「はい!」
瑞希が抱えていた両手剣を素早く取り出し、ユリアに手渡す。重厚な剣身が正午の強い陽光を反射して鈍く光る。その重量感と刃の冷たい輝きが、これから始まる戦いの現実味を増していく。ユリアは慣れた手つきで剣を受け取ると、一振りで重心を確かめ、背に負い直す。
「ルシア、本陣での指揮は任せたわ」
「ええ、分かったわ。......任せて」
ルシアの声には静かな信頼がこもる。蒼い瞳がユリアを見つめている。ユリアはルシアに向かって軽く頷くと、最前線へと歩を向けた。
ゾンビの群れが射程圏内に迫る。兵士たちの緊張が最高潮に達し、空気が張り詰める。ユリアは深く息を吸う。エルズリウムでの経験が、今こそ活かされる時。
正午の太陽が頭上高く輝く中、決戦の火蓋が今まさに切って落とされようとしていた。




