第24話 黎明の銀星VII
【帝国紀元1799年4月15日 16:00】
【カラディン辺境伯領・カラディン城館大会議室】(リディア視点)
エルズリウム東の丘陵地帯から撤退してきたカラディン軍は、なんとか本拠地である領都カラディンまで帰還していた。中庭では傷ついた兵士たちが手当てを受け、厩舎には汗と泥にまみれた軍馬が並んでいる。疲弊した兵たちの顔には、安堵と悲しみが混在していた。
そんな中、カラディン辺境伯軍の幹部が大会議室に集められていた。重厚な石造りの部屋には、蜜蝋の燭台が何本も灯され、壁に掛けられた古い戦旗が微かに風に揺れている。父ガリウス、兄ユリウス、家宰エステヴァンといった中枢を中心に、アクィラ騎兵中隊長、レオナルド魔導中隊長、ドミティウス歩兵中隊長などの主要指揮官が揃っている。席に着いた途端、背を沈めるようにもたれかかる者もいる。皆、疲れきっていた。
リディアも他の将校たちと共に席に着いていた。撤退戦の指揮を執った疲労は色濃く、普段の凛とした表情にも僅かな影が差している。会議室の重い扉が閉ざされ、石の反響音が薄れていく。
「さて、疲れているだろうが、まずは共通認識を持たねばなるまい」
ガリウスの声が会議室に響いた。辺境伯としての威厳を保っているが、声には疲労が混じっている。父も戦場を駆け抜けてきたのだ。
「先日、エルズリウムからの救援要請を受けて出撃した一連の戦闘について、エステヴァンに情報をまとめさせている」
父の言葉を受けて、老執事が静かに立ち上がった。普段の穏やかな表情とは違う、鋭い目つきをしている。
「では、戦闘概要から申し上げます」
エステヴァンの声は落ち着いているが、言葉には重みがあった。
「エルズリウムからの救援要請を受け出撃。エルズリウム東での遭遇戦で2刻ほど交戦。その後、街道を東へ撤退、15ケイミル東方の丘陵地帯にて野戦陣地を構築。深夜から明け方まで2刻ほど交戦し、一部戦線が突破されるも、各指揮官の適切な現場判断により混乱からの立て直しに成功。撤退時には魔導中隊による火計で敵の追撃を阻止し、ここカラディンまで撤退してきております」
淡々とした報告だが、リディアは自分が体験したあの地獄のような戦闘を思い返していた。動く死者たちの群れ、兵士たちの悲鳴、そして------ユリアの圧倒的な戦闘力。
「一連の戦闘において、交戦した敵勢はおよそ4万。うち6000は撃破確実、4000も撃破の可能性が高いものと判断されます」
エステヴァンの数字に、会議室内にざわめきが起こった。4万という数字は、カラディン軍の総兵力を遥かに凌駕している。
4万......わが軍の10倍近い......。
内心で戦慄する。あの時、自分たちがいかに絶望的な状況に置かれていたのかを改めて実感した。
「我が方の被害ですが、戦死者はおよそ1割強で約500。負傷者はその倍以上となっており、戦線離脱者の合計は3割を超えております」
重苦しい数字だった。500人という数字は単なる統計ではなく、それぞれに名前があり、家族があり、故郷があった人々の命なのだ。
胸に苦いものが込み上げる。もし自分がもっと適切な判断を下していれば、もっと多くの命を救えたのではないか。
「かなりの損害だが、あの混乱状況で軍を立て直し、これだけの兵力を無事に撤退させた。各将官の奮闘があってこその結果だ」
ガリウスの声は静かだが、重みがある。
「生きて帰ってこれた者には、まず一杯やらせてやりたいところだ」
ガリウスの声に、わずかな温かみが戻った。せめてもの慰労を与えたいという父の気持ちが分かる。
「今夜の食堂は酒が足りませんでしょうな」
ドミティウス・クラステル中隊長の言葉に、リディアは思わず目を丸くした。
あのドミティウスが......冗談を?
普段は規則を重んじ、軽口など滅多に言わない彼だ。生還した安堵が、堅物の中隊長を変えたのかもしれない。
「誰かが我慢せねば」
ガリウスが肩をすくめて答えると、ユリウスが父を見やった。
「父上はそろそろ肝臓がよくないとか?」
息子の心配を装った軽口に、ガリウスは低く笑った。
「まだまだ飲み足りんと唸っているぞ」
「それは幻聴ですよ......私には悲鳴に聞こえます」
ユリウスの返しに、室内に和やかな笑い声が響いた。だが、その笑いはどこか乾いている。
やがて笑い声は自然に途切れた。
ガリウスが深く息を吸い、改めて威厳のある声で口を開いた。
「さて、では本題に入ろう。状況からしてエルズリウムの陥落は確定。しかも一般市民も多数が動く死者と化している」
父の言葉に、会議室の空気が一変した。
「エルズリウムの人口......15万か、そりゃ、手に負える数じゃないな」
アクィラが低く唸った。日焼けした顔は深刻そのものだ。
15万......辺境伯家の総力をあげても3万が限度。到底対抗できる数ではない。
「それに東部方面軍の2万が追加だな」
レオナルドが資料に目を落としながら付け加えた。
「そうだったな。1万弱撃破したとしても、最悪16万か」
ドミティウスが重々しく頷いた。先ほどの軽い雰囲気は消えている。
「辺境伯家単独で対抗はできません。諸侯と連携をとるべきでしょう」
リディアが口を開いた。現実的な判断として、これ以外に選択肢はなかった。
「エステヴァン、諸侯との連絡はどうだ?」
ガリウスが家宰に問いかけると、エステヴァンは眉をひそめた。
「戦時体制への移行と共に、旗下の諸侯も集結しつつありますが......一部諸侯と連絡がとれません」
エステヴァンの言葉に、会議室に緊張が走った。
「反乱か?」
アクィラが鋭く問い返す。
「エルズリウム近郊の諸侯が中心ですので、エルズリウムの異変の影響かと思われます」
エステヴァンの説明に、アクィラが安堵の息を吐いた。
「それはよかった。この状況で反乱だと笑えないからな......いや良くはないか」
「そうだぞ、アクィラ。この異変がどれだけ広がっているのか分からん」
ガリウスが厳しい表情で諌めた。
「早馬がいくつか帰っておりません。連絡がとれない諸侯は周辺に動く死者が展開している可能性があります」
エステヴァンの報告に、背筋に寒いものが走った。事態は想像以上に深刻かもしれない。
「......強行偵察と、場合によっては救援が必要か」
ガリウスが重い口調で呟いた。
「各部隊の損害はどうだ?」
ガリウスの問いに、会議室の空気が重くなった。
「大隊全体で死者負傷者合わせて離脱者は5割を超えています。戦闘不能です」
ユリウスの報告に、胸が痛んだ。兄の部隊が最も激しい戦闘を経験したのだ。
「特に、一部負傷者が暴れ出し、それを制圧したことが士気にかなり影響を与えています」
ユリウスの報告に、兄の腹心であるレナータが補足を加える。彼女も深刻な顔をしている。
「味方殺しみたいなものか......それはきついな」
レオナルドが同情するような声で呟いた。
一拍置いて、アクィラが続けた。
「独立騎兵中隊も離脱者は4割だ。ただ、復帰の見込みも多い」
「魔導中隊は損害は軽微。ですが救援には向かないですね」
レオナルドの現実的な分析に、リディアは頷いた。魔導中隊は火力支援には優れているが、救出作戦には不向きだ。
そして、自分の番が来た。
「我が大隊は負傷者は多いですが、離脱者は1割以下です」
リディアの報告に、会議室がざわめいた。
「1割以下? たしかリディア様の大隊は西側担当でしたよね? かなりの激戦だったのでは?」
レナータが疑問の声を上げる。確かに西側は激戦区だった。
「中央に配置した異界人ユリアの実験小隊が非常に効果的でした」
「あの小隊か。それほどか?」
ガリウスが興味深そうに問いかけた時、会議室の隅から声が上がった。
「それについては私から」
ティトゥスが前に出ようとしている。
「ティトゥスか。たしか西側最前線にいたんだったな」
ガリウスがティトゥスに視線を向ける。
「はい。猟銃も非常に効果的でしたが、なによりユリア殿個人の統率力と武力です」
「後退時も最後まで統制がとれており、周囲の部隊を指揮下に入れて撤退に成功しております」
そう、ユリアがいなければ撤退が成功したかも怪しい。
「周囲の部隊も? 小隊長になったばかりだったはずだろ?」
アクィラが驚いた声を上げる。
その時、意外な人物が口を開いた。普段は生真面目一辺倒の壮年、ドミティウスだった。
「ああ、間違いない。あれは戦場の女神だ」
ドミティウスの断言に、会議室がざわめいた。普段は感情を表に出さない堅物の彼が、あまりにも詩的な表現を口にしたのだ。
ドミティウスの言葉に、リディアは思わず振り返った。
「ドミティウス?」
「女神......? おい待て、お前、中隊長だろう!」
レオナルドがドミティウスに向かって呆れたような声を出した。
「あの声には逆らえん。お前も聞いたら分かる」
普段は感情を表に出さない彼の真剣な顔に、会議室の空気がわずかにざわめいた。
「......そこまでか。とんだ拾い物だったかもしれんな」
ガリウスが感心したような声で言った。
「それは間違いなく。異界人を重要視することも分かろうというものです」
リディアが父に同意すると、ガリウスの表情が思案深くなった。
「ふむ......異界人としての希少性もあるが、それ以上に個人の資質が注目に値するな」
「どういう意味でしょうか?」
ユリウスが問い返すと、ガリウスは慎重に言葉を選びながら答えた。
「統率力、武力、そして兵士たちからの自然な信頼......これらが揃った人物は滅多にいない」
会議室に微妙な緊張が走った。皆、父の言葉の意味を理解している。
「異界人で、しかもそれだけの資質が揃うと......」
ガリウスが一拍置いて、重々しく続けた。
「古の記録にある"勇者"の条件に合致してくる」
"勇者"という言葉が会議室に響いた瞬間、空気が凍りついた。
アクィラが思わず身を乗り出し、レオナルドは資料を握る手を止めた。ティトゥスは息を呑んでガリウスを見つめている。エステヴァンでさえ、普段の冷静さを失ったかのように微かに眉を上げた。対照的に、生真面目な壮年のドミティウスだけは深く頷いて見せた。
それは単なる伝説ではない。建国帝と共に帝国の礎を築いた、歴史に名を刻む英雄------六百年前、この帝国の始まりを築いた存在への言及だった。
重い静寂が室内を支配する。誰もが、この言葉の重みを理解している。
「勇者、ですか......」
ユリウスが低く呟いた。
「あくまで可能性だ。ひとまずは優秀な若き将校として扱おう」
「ハッ」
ユリウスが頷いたが、父の言葉には深い意味がある。もしユリアが本当に"勇者"なら、この戦況を変える可能性があるかもしれない。そして同時に、カラディン家の運命をも左右することになるだろう。
勇者......統率力、武力、兵士からの信頼。確かに条件は揃っている。
包囲の中から垣間見えた、朝日に照らされて輝く銀色はたしかに希望だった。指揮官である私ですらそう思うのだ。ましてや兵たちから見ればなおのことだろう。
もしそうなら、兵士たちの士気を回復させられる。動く死者への恐怖、負傷兵が暴れ出した異常事態のショック......あの戦いで傷ついた心を、「勇者」という希望が癒してくれるかもしれない。そして何より、混乱の中でも統制を保ち続けた彼女の力があれば、次の戦いでも勝利の可能性が見えてくる。
だが同時に、胸には複雑な思いも湧き上がった。
15歳の少女に、それほどの期待と重圧を背負わせることになる......。
それでも、ユリアという存在がもたらす可能性は大きかった。
期待が、胸の奥で静かに膨らんでいく。




