第22話 黎明の銀星V
【帝国紀元1799年4月4日 5:30】
【エルズリウム東方・野戦陣地】
ユリアは東の空を見上げた。薄っすらと白み始めている。夜明けが確実に近づいていた。
一昼夜に及ぶ戦闘で、ユリアは深刻な疲弊を実感していた。昨日の日中からの激戦、深夜からの三時間に及ぶ夜戦――。周囲を見回せば、兵士たちの顔に疲労が色濃く刻まれているのが分かる。
武器を支える腕は小刻みに震え、血走った目で戦場を見据えていた。装備は血と泥に汚れ、乾いた唇からは荒々しい呼吸が漏れている。カラディン軍全体が限界に達しているのは明らかだった。
ユリア率いる実験小隊は、大きな損害もなく最前線を維持している。気がつけば、ユリアは近接兵の作る前線よりもさらに前へ出ていた。他の兵士たちが数体相手にするのがやっとの中、彼女だけは桁違いの戦果を挙げ続けている。
ただ一人、最前線で踊るように動き、迫りくる死者たちを切り裂いていく。剣が空を切る音、肉を断つ鈍い音、血飛沫が月光に舞う。その動きは流麗で、無駄のない一撃は確実に敵の命を刈り取っていた。
(夜が……明ける……! 十分な打撃も与えた。撤退もできる……!)
ユリアは振り返ると、疲れ切った兵士たちに向かって声を張り上げた。
「踏ん張りなさい! 夜明けまであと少しよ! 視界が確保されれば私たちの勝ちよ!」
「お、応!」
疲弊し、息も上がっていてなお、小隊の兵士たちは戦意を失っていない。
返事に込められたのは、彼女への絶対的な信頼だった。
その時、北側から悲鳴のような声が流れてきた。
「北が、北が崩れたぞー!」
「北に気をつけろ! 突破された!」
周囲の兵士たちが顔を見合わせ、武器を握る手を震わせる。ユリアにはその動揺が手に取るように分かった。
「なんだと!?」
「本陣は無事なのか!?」
(ここまで来て……! ここで崩れるなんて……!)
胸に苦い思いが湧き上がる。夜明けまであと僅かというところで、戦線の一部が崩壊したのだ。
後方から撤退の角笛が聞こえてくる。伝令たちが駆けながら指示を叫んでいた。
「全軍後退! 戦列を保って後退せよ!」
「このタイミングで後退、ね……」
ユリアは顔をしかめた。
(北の損害は厳しそうね。この状況で全軍後退……? いくら戦列を維持しろと言われても、この状況では総崩れになる……)
周囲では兵たちがパニックを起こしかけていた。
「後退だ! 早く逃げろ!」
「北からも敵が来るぞ!」
「もうダメだ!」
(統制が崩れている……やれるだけやるしかないか……)
ユリアは剣を振り上げ、戦場に響き渡る声で叫んだ。
「後衛!」
兵士たちの動きが一瞬止まった。
「全力の一撃を敵中央にぶちかましなさい!」
後方の魔導部隊から、困惑する声がかすかに聞こえる。
「そんな無茶な……! もう魔力が……!」
「いいから構えて、ほら、ぼーっとしない!」
ルシアの声が後方から響く。次の瞬間、背後で淡い蒼い光が立ち上がった。
ユリアの目には、ルシアから伸びる魔力の帯が魔導部隊全体を包み込むのが見えた。魔導部隊全体が異常なまでの輝きを放ち始め、空気が震えるほどの魔力が集束していく。一晩中の戦闘で疲弊していたはずの魔導部隊から、戦闘開始時をも上回る魔力が湧き上がっている。ユリアにはそれがはっきりと感じ取れた。
次の瞬間、魔導部隊から放たれた一斉射撃が夜空を裂いた。高密度の魔導弾が弧を描いて敵陣に降り注ぎ、着弾と同時に巨大な火柱が次々と立ち上がった。
爆発の連鎖が敵の群れを飲み込み、大地を震わせる轟音と眩い閃光が戦場全体を包み込む。炎の壁が遥か彼方まで立ち上がり、夜明け前の闇を昼間のように照らし出した。
熱風が頬を叩き、爆発の余波で地面の小石が跳ね上がる。その圧倒的な威力に、パニックを起こしかけていた兵士たちが呆然と立ち尽くしていた。
「うそだろ……」
「あんな威力……見たことねぇ……」
「あれが人の力か……?」
兵士たちの口から畏怖の呟きが漏れる。
(さすがはルシア……あとは私の仕事ね)
ユリアは混乱の隙を逃さず、指揮官としての威厳を込めて叫んだ。
「生き残りたいなら、これから言うことを守りなさい!」
兵士たちの動きが止まり、ユリアに注目が集まる。硝煙と血の匂いが漂う中、戦場に静寂が落ちた。先ほどまで動揺していた兵士たちの目に、理性の光が戻り始めている。
「戦列を崩すな。勝手に逃げるな。仲間を見捨てるな――以上よ」
力強い三つの命令が戦場に響いた。
「さあ、後退するわよ! 聞こえた者は私たちと一緒に動きなさい! ゾンビどもに1人たりとも喰わせてなるものか!」
ユリアの号令に応じて小隊の兵たちが機敏に動き始める。統制の取れた動きを見て、周囲の部隊の兵士も落ち着きを取り戻し、秩序だった撤退へと転じた。
「第二中隊! 周囲に合わせて撤退だ! 戦列を崩すなよ!」
「第一中隊も続け! 仲間を見捨てるなよ! 銀の女神に怒られるぞ!」
将校たちの声が通り始める。一時乱れていた秩序は回復した。
本陣からの伝令が駆けてきた。
「本陣より伝令。北側を警戒しながら後退せよ、との命令です」
「そう。承知したと伝えて」
「ハッ……ご武運を!」
伝令が去っていく背を見送っていると、レオニダスが近づいてきた。
顔に心配の色が浮かんでいる。
「いいのですか? 実質的な殿軍ですが」
「……別に死ぬつもりはないし、この程度なら問題ないわ」
ユリアは軽く肩をすくめながら答えた。
その声には、この状況からでも生還できるという確信が込められていた。
「ハッ、必ずや帰りましょう」
レオニダスの言葉に、ユリアは小さく頷いた。
魔導部隊によって幾重にも炎の壁が作られ、近づいてくる敵はユリアを始めとした近接兵が素早く処理していく。炎が敵の進路を阻み、残った敵も確実に仕留められていった。
ユリアは追撃してくる敵の気配を背に感じながらも、指揮下にある部隊の規律を保たせ、三ケイミルほど撤退することに成功した。背後からの脅威に警戒を続けながらも、ようやく一息をつくことができた。
夜明けの光が戦場を照らし始める中、ユリアは振り返って燃え盛る戦場を見つめた。目に映るのは、無数の骸と、燃える荒野。
全軍崩壊の危機は去った。統制を保ったままの撤退。ようやく、長い夜が終わりを告げようとしていた。
集結地に到着すると、ユリアは小隊の兵士たちに声をかけた。
「皆、よく頑張ったわ! 集結地よ!」
兵士たちの顔に安堵の色が広がる。
「レオニダス! 全員揃ってる?」
「ハッ、落伍なし! 全員無事です」
レオニダスの力強い報告に、ユリアは小さく頷いた。
「いいわね。姉さん、負傷兵の治療を手伝ってあげて。それと……瑞希は大丈夫?」
「ええ。任せてちょうだい」
ルシアが頷く。
その隣で、瑞希が疲れた顔ながらも気丈に答えた。
「は、はい、大丈夫です」
「よかったわ。じゃあ、私は大隊長に報告に行ってくるから、その間、任せたわよ」
「承知した」
手早く小隊の状況を確認したユリアは、報告のため本陣へと向かった。あちこちで負傷兵を運ぶ担架が行き交い、伝令が走り回っている。竜が描かれた軍旗が靡く本陣に近づくにつれ、複数の声が聞こえてきた。
「騎兵中隊はどうなんだ!」
ティトゥス中隊長の声だ。普段は落ち着いた彼にしては珍しく、焦りが滲んでいる。
「中隊はほとんど索敵に出ています! 動けるのは今戻った私の一小隊のみです!」
騎兵小隊長が息を切らせながら報告する。
「くそっ!」
ティトゥスが拳で膝を叩いた。
「仕方ない、騎兵は回せん! 第一、第二歩兵中隊から選抜した部隊を臨時編成で出す! ドミティウス! いけるか?」
軍旗の下では、ティトゥスが地図の上に身を乗り出し、ドミティウス中隊長と向かい合っていた。リディアの姿はどこにも見当たらない。
(取り込み中か……大隊長のリディアがいなくて、ティトゥス中隊長が指揮を執っている?)
「率いるのは構わんが、動ける部隊なんて残ってるのか?」
ドミティウスが腕を組んだまま問いかける。
「多少疲弊していてもやむを得ん」
ティトゥスが拳で地図を叩く。
「……被害が大きくなるが行くしかないか」
ドミティウスは深く息を吐き、背後の伝令に視線を向けた。
「伝令、各歩兵小隊長に伝えよ。動ける兵を選抜しておけと」
伝令が駆け出そうとした時、ドミティウスの視線がユリアを捉えた。
「む、そこにいるのはユリア殿か?」
本陣にいた全員の視線が一斉にユリアに向けられた。士官たちの目に、一瞬だけ安堵の色が浮かぶ。
「今着いたわ。小隊も無事よ」
「さすがですな」
ドミティウスが頷く。ティトゥスも安堵の表情を浮かべたが、すぐに厳しい顔に戻った。
「それより、何かあったの? リディアもいないみたいだけど……」
ティトゥスが地図から顔を上げ、疲れた目でユリアを見た。
「リディア様は一度集結地へ戻られたのだが、第三中隊の苦境を知り、収拾のために自ら引き返された。だが、予定していた撤退路に敵が侵入している状況だ」
ティトゥスが地図上の一点を指で示した。
「そのため、撤退路を確保する部隊を出すところなんだが……」
(リディアが?)
ユリアは状況を整理した。
(保護して後ろ盾になってくれたんだもの、恩くらい返さないとね)
「私も行くわ」
静かだが明確な声だった。
「いやしかし、客将のユリア殿をすぐまた戦場に出すのは……」
ティトゥスが困惑の色を浮かべる。
「ここは銀の……ユリア殿のお言葉に甘えようじゃないか、ティトゥス。彼女が来てくれたのなら、作戦の成功率は跳ね上がる」
ドミティウスが腕を組んだまま言った。
「ドミティウス!? ユリア殿は客将だぞ! 勝手に出すわけにはいかんだろう!」
「しかし、戦場での戦いぶりを見ただろう。作戦を成功させるためだ」
「ぐ……」
ティトゥスの顔に葛藤が浮かぶ。
(仕方ないわね)
ユリアは小さく息を吐いた。
「私はまだ集結地に帰ってきておらず、たまたま撤退路を確保に向かっていた部隊と合流、それを手伝うことにしたわ」
「私は部隊を率いていたところ、偶然ユリア殿と遭遇、支援を要請して快諾を得た……そういうことになった」
ドミティウスがすぐに話を合わせる。ティトゥスは一瞬呆然とした後、深いため息をついた。
「わかったわかった、私はユリア殿を見ておらん! ……リディア様を頼んだぞ」
「ああ」
「任せなさい」
ドミティウスが立ち上がり、腰の剣を確認した。
「では急ぎましょう」
「ええ」
ユリアは軽く頷き、踵を返した。朝日が戦場を照らす中、二人は救出に向けて歩き出した。




