第2話 竜殺しの平野II
【帝国紀元1203年 秋 午前】
【シルヴェルタ平野・北西戦線】(ガゼリウム侯爵視点)
ガゼリウムは眼前の川を見つめた。幅にしてほんの十ミル。歩兵なら数十歩で渡り切れる。この浅い流れこそが今日の戦場となる。
帝国軍総勢十二万のうち、ガゼリウムが預かる北西戦線は四万。対岸のヴァルステイン王国軍六万を相手に、川を防衛線として持ちこたえる――それが命じられた役割だ。
白髪交じりの髭を撫でながら、老将は鋭い視線で対岸を睨んだ。
対岸から灰色の鋼鉄が迫ってくる。ヴァルステイン王国の重装歩兵。盾と鎧の隙間なき布陣、一糸乱れぬ前進。歩調さえ揃っている。
これは手強い。一朝一夕で鍛え上げられる兵ではない。
「攻撃開始!」
ガゼリウムの声が戦場を切り裂く。
「侵略者どもに川を渡らせるな!」
詠唱の響き。炎術の術式が完成し、対岸に紅蓮の花が咲いた。爆音と共に土が舞い、クロスボウの弦音が一斉に空気を切る。シュッ、シュッ、シュッ。無数のボルトが敵陣に降り注ぐ。
重装歩兵たちは盾を頭上に構え、鎧で矢を受け止めながら歩みを緩めない。ボルトが金属を叩く。カンカンと乾いた音が立て続けに響く。
厄介だ……あの統制、ただの烏合の衆ではない。盾の構え方も歩調の合わせ方も、全てが計算されている。これは長期戦になる。
戦術を変える必要があった。正面からでは埒が明かない。
「魔法兵!あの土手の斜面を狙え!足元を崩せ!」
「中衛のクロスボウは体勢を崩したやつを撃て!」
「前衛第一列!前へ出ろ!渡ってきたやつはそのまま冥界に渡らせてやれ!」
「応!」
号令に呼応する兵たちの声。その響きに揺らぎはない。長年共に戦ってきた者たちだ。ガゼリウムの意図を理解している。
敵の後方から矢の雨。空を切る音が頭上に響く。前衛の魔導障壁が青白く光り、矢の勢いを殺して軌道を逸らす。パリン、パリンと魔力が砕ける。それでも数本がすり抜け、クロスボウ兵の列に突き刺さった。
「ぐあっ!」
肉を貫く鈍い音。赤い飛沫。
「畜生!肩を……!」
うめき声と罵声。隊列は崩れない。
「怯むな!撃ち返せ!」
「落ち着け!ここならまだ救護班がいる!」
士官たちの怒号が飛び交う。兵たちは傷ついた仲間を支えながら、冷静に反撃を続けている。負傷兵の顔は青ざめているが、歯を食いしばって持ち場を離れようとしない。
よし、動揺していない。ガゼリウムは満足げに頷いた。訓練は無駄ではなかった。
何度も繰り返される魔法攻撃。爆音が響くたび、緑豊かだった土手が黒と灰と赤に染め上げられていく。鼻を突く硫黄の刺激臭。焼けた肉と鉄の混じった異臭。生臭さが風に運ばれてくる。王国軍は川に足を踏み入れ、流れに足を取られながらも着実に迫ってくる。
止まらん。
予想していたとはいえ、これほどとは。あの重装歩兵、損耗を恐れていない。むしろ損耗を前提として進んでいるようだ。指揮官が優秀なのだろう。
「前衛!中衛!斜面まで前進して流れの中を狙え!土手の上には弩砲を持ってこい!」
最前線では、早々と対岸に到達した王国兵を前衛が素早く切り捨てている。剣戟の音が金属的に響き、赤い飛沫が舞った。斜面まで前進したクロスボウ兵の攻撃は威力を増し、流れの中で動きの鈍った重装歩兵の鎧をも貫き始める。
ドォン!
弩砲の炸裂音が戦場を震わせた。巨大なボルトが空気を裂いて飛び、渡河中の敵兵を貫く。ボルトは一人だけでは止まらない。二人、三人と貫通し、その衝撃で周囲の兵たちも水中に叩き落とされる。
赤い煙が上がる。水飛沫と共に赤い塊が散った。倒れた重装歩兵たちが川底で手足をばたつかせているが、重い鎧に引きずられて立ち上がれない。やがて動きが止まる。二度と起き上がることはない。
視界を埋め尽くすほどの敵兵が押し寄せてくる。徐々に、確実に、渡河を果たす敵兵が増え始めていた。
これは……止めきらんな……。
うちの予備を側面に回すとして、追加で北の予備を回してもらうか?
視線を北の戦線に向けた。湿地帯を挟んで激しい矢の応酬。諸部族軍からは様々な大きさの矢やボルトが飛んできているが、中でもひと際目を引くのは竜人が構える大型のロングボウだった。そこから放たれる矢は魔導障壁を貫通し、盾役の近接兵を次々と殺傷している。
北ではティラヌスが持ちこたえている。あの男の粘り強さは評価に値する。
竜人……まさか数百年前に姿を消したはずの古の種族までもが。
古い戦記の記述がガゼリウムの脳裏に蘇った。古代帝国が脅威として迫害し、追放した竜人たち。あの時代の戦記には「竜人一人は歩兵百人に匹敵する」と記されていた。誇張ではない。現にあのロングボウの威力を見れば……。
地竜といい、竜人といい。古き力が次々と蘇る。世界そのものがソリウス様の覇道を拒んでいるかのようだ。
あれではティラヌスの奴だけでは押し切れんか。あの男、忠義はあるがいささか融通が効かんからな……。どれだけの被害を受けるのか想像もできん。仕方ない、北の予備は諦めるか。
判断は迅速だった。
「予備を側面に回す。各部隊側面から浅瀬を撃て」
「ただちに!」
伝令が駆けていく。その後ろ姿を見送りながら、ガゼリウムは再び渡河地点に目を戻した。
これで果たしてどれだけ持ちこたえられるか。
戦況は厳しいが、老将の引き出しには、まだいくつかの札が残されている。
【同日 午前】
【シルヴェルタ平野・西部戦線】(ブカレウス伯爵視点)
ブカレウスは、カラディン伯爵が一人で地竜に挑んだ後、無事に自陣へ戻ってくるのを見た。
西部戦線――カラディン伯爵と共に合わせて五万で、西部諸侯軍八万を受け止める役目だったはずだ。だが地竜三頭の出現で戦況は一変した。兵の士気も質もこちらが勝っている。だがそれも、あの化け物の前では意味を成さない。
胸の奥で深く安堵した。無事だったか……相変わらず無茶をする。あいつが傷を負わせても、あの化け物の回復力では焼け石に水かもしれない。それでも少しでも足が遅くなれば……。
この機に士気を上げねば勝機はなくなる。悪いが利用させてもらうぞ。
「カラディン伯爵の勇気を見たか!」
燃えるような赤茶の髪を揺らし、ブカレウスの声が戦場に響き渡る。
「たった一人であのデカブツに挑んだぞ!」
「我々も奮起せよ!」
兵士たちの心に火がついた。周囲の兵たちがざわめき始める。先ほどまで青ざめていた顔に血色が戻り、震えていた手が剣の柄を強く握り直す。
「おおっ!」
「やってやるぜ!」
拳を振り上げる者、剣を掲げる者。
「カラディン様に続け!」
檄に応えて雄叫びが陣地を駆け抜ける。なんとか気力だけは持ち直したか。兵たちの表情を見回す。さっきまで絶望に沈んでいた顔に、わずかな闘志の光が戻っている。
気力だけでは巨大な化け物は止められない。
地竜の巨体が再び動き始めていた。中軍の隊列が蜘蛛の巣のようにひび割れ、崩れ始めているのが見える。あの巨躯が一歩進むたび、兵士たちが蹴散らされていく。散らばった兵たちは肩を寄せ合い、仲間の名を呼び合いながら必死に隊列を立て直そうとしている。
「中軍に予備を回せ!」
「後衛!地竜の周りの雑兵を燃やせ!」
「第二陣にも伝令!中央後方に鶴翼で展開せよ!」
指示を飛ばしながら、ブカレウスは戦況を冷静に分析していた。左軍、右軍は持ちこたえている……敵の質はさほど高くない……問題は地竜三頭だ。
あの巨体を止める手段は限られている。弩砲による集中攻撃しかない。混戦の中では精度が落ちる。被害も覚悟しなければならない。
おのれ、地竜め……!
カラディン伯爵によって足を止められていた地竜だったが、その混乱も落ち着いたのか、また歩みを再開していた。傷を負った巨体が、それでもなお確実に前進してくる。
「弩砲用意!」
ブカレウスの命令が響く。
「あのデカブツの顔を狙え!」
「将軍!」
副将が血相を変えて駆け寄ってきた。その顔は蒼白で、額に脂汗が浮いている。
「混戦の中での射撃は危険です!」
その通りだった。あの距離では敵味方の区別がつかない。誤射は確実に起こる。
ブカレウスの決断は揺るがなかった。
「誤射は許容する」
副将の顔が青ざめる。一瞬の沈黙。
「それよりもあのデカブツを止めることに全力を尽くせ。あいつを本陣に行かせてはならん」
あの男がせっかく傷を負わせてくれたのだ。この機を逃すわけにはいかない。
「は……ハッ!」
副将も地竜が本陣に到達することの危険性を理解したのか、覚悟を決めたような表情で指示を出しに駆けていく。
後であのお優しい勇者様には怒られそうだな……。苦い笑いを浮かべた。ソリウス様の命には代えられない。
ドォン!
第二陣から弩砲が火を吹いた。巨大なボルトが空気を裂き、地竜の巨体に突き刺さる。
ズブリ。
肉を貫く鈍い音。ボルトは鱗を砕き、肉を裂き、骨まで達した。地竜の咆哮が戦場を震わせる。
効いた。
地竜の背や肩に何本ものボルトが深々と突き刺さっている。特に足元を掠めたボルトの傷は深く、暗い体液が噴き出していた。動きが鈍くなった。
痛みで狂乱しているのか、地竜は激しく暴れ始めた。
地竜の絶叫が空気を震わせた。それは咆哮というより断末魔に近い。巨大な尻尾が横薙ぎに振り回され、護衛の重装歩兵が宙を舞う。鎧ごと叩き潰された兵士の悲鳴。爪が地面を抉り、土砂が噴き上がる。
敵の前線も混乱していた。自軍の化け物に踏み潰される恐怖で、諸侯軍の兵たちが散り散りに逃げ始めている。彼らの顔には恐怖が張り付き、武器を投げ捨てて背を向ける者も現れた。
手が付けられない。
続けざまに第二射、第三射。
ドォン!ドォン!
しかし暴れる巨体に照準がつかないのか、その多くが外れている。外れたボルトが味方の槍兵を貫く。
「うわあああ!」
悲鳴と血飛沫。ブカレウスは歯を食いしばった。止めるわけにはいかない。
敵味方の区別なく死がまき散らされる。土が舞い上がり、赤い飛沫が宙を舞う。命中した数本は深く刺さり、地竜の体にはいくつもの赤い筋ができていた。
狂乱しつつも前へ前へと歩き続ける地竜。
地竜の巨足が第二陣に迫る。兵士たちが散り散りに逃げ惑うが、間に合わない。彼らの足音は慌てふためき、悲鳴が後に続く。
ズシン。
大地が震え、鎧が潰れる音。人の形をしたものが、もはや人ではなくなった。その巨体は第二陣をも踏みつぶし、本陣へと到達しようとしていた。
しまった……!
ブカレウスの顔から血の気が引いた。弩砲では止められない。もはや手立てがない。
少女とも呼べるような年頃の女性に、最後の希望を託すしかない自分たちの不甲斐なさが、胸を突く。
ソリウス様……勇者様……どうか。
ブカレウスは心の中で祈った。




