第13話 エルズリウムの銀光III
【帝国紀元1799年3月25日 19:30】
【カラディン辺境伯領・カラディン城館執務室】(リディア視点)
夕食を終えた城館に夜の静寂が忍び寄る。執務室の重厚な扉の向こうから、控えめなノックの音が聞こえた。
「リディア様、お三方がいらっしゃいました」
執事の落ち着いた声がした。
「通して」
リディアの返事と共に扉が開く。「どうぞこちらへ」と執事に案内され、ユリア、ルシア、瑞希の三人の少女たちが入ってきた。蜜蝋の燭台が暖かな光を放ち、調度品を照らしている。壁には古い地図や家系図が飾られ、重厚な書棚が並ぶ。執務室らしい威厳に満ちた空間だった。
「失礼するわ」
ルシアが丁寧な挨拶をした。瑞希は少し緊張した様子で室内を見回している。昼間の疲れからか、顔色はまだやや青白い。
「そこのソファに座って待っていて。すぐ終わらせるわ」
リディアは机上の書類を手早く片付けた。羽根ペンを置き、インク壺の蓋を閉める音が静寂に響く。三人が革張りのソファに腰を下ろすのを確認してから、リディアは机を回り込み、正面の椅子に座った。
「今日の測定、ありがとう。体調は大丈夫かしら?」
リディアの視線は主に瑞希に向けられていた。少女の顔色を案じてのことだ。
「あ、はい。お医者様からは魔力の使い過ぎ、と」
瑞希は恐縮したように答えた。その声には午前中の出来事への困惑が残っている。
「大事じゃなくてよかったわ」
「ご心配をおかけしました」
「いいのよ。ところで...... 今朝の魔力測定の件だけど」
リディアは一拍置いた。その後ずっと考えても、あの時の違和感が拭えない。
「瑞希の魔力が暴走した時、技術兵は制御不能だと言っていたわよね? それなのに、急に静まった。あなたたち、何かしたんじゃない?」
ユリアとルシアが一瞬視線を交わす。リディアはその仕草を見逃さなかった。やはり何かある。
「......手を握って、落ち着かせただけよ」
ユリアの答えは簡潔すぎた。詳細を語りたくないのだろう。
「手を握って......」
リディアは内心で首を振った。それだけで制御不能の魔力暴走が収まるものか。あの時の技術兵の慌てぶりを思えば、普通の対処法では到底無理だったはずだ。
もう追及しても答えは得られまい。警戒心を強めるだけだ。今は軍同行の件を優先すべきだ。
「......そう。ありがとう、落ち着かせてくれて」
リディアは表面上は納得したように頷いた。だが胸の奥には新たな疑問が残った。
「それで、今日の結果を踏まえてあなたたちにお願いがあるのだけど......」
リディアの表情がわずかに真剣味を増す。三人の注意が集中した。
「なにかしら」
ユリアが静かに問い返した。声にわずかな警戒心が込められている。
「実は、明日私も軍を率いて出陣する予定なの。そこで、あなたたち3人にも私に同行して欲しいの」
瑞希が驚いたように身を乗り出した。
「軍隊と......一緒に、ですか?」
「そうなるわね」
「でも、私たちは戦争なんて......」
瑞希の声が震え始める。午前中の魔力暴走の記憶も相まって、不安が膨らんでいるようだった。
「もちろん、戦闘に参加する前提じゃないわ」
リディアは急いで説明を続けた。
「私の出陣に合わせて、ここには多くの諸侯が集まる予定なの。そこに上位者である私たちの一族がいないと、どんなトラブルがあるとも分からないわ。帝国貴族たるもの、変な輩はいないとは思うけど...... 絶対じゃないからね。私の目の届く範囲にいるほうが安全という判断よ」
瑞希の表情がさらに青ざめた。
「私、剣を持ったのだって今日が初めてなのに...... それに午前中も、あんなことになって......」
瑞希の声に涙が混じり始める。制御できない魔力への恐怖も加わって、混乱が深まっているようだった。
「そんな......」
瑞希が小さく呟いた。その時、ルシアが口を開いた。
「瑞希は体調が良くないわ。行軍についていくのは厳しいんじゃないかしら?」
ルシアの声には瑞希を思いやる優しさと、冷静な判断が込められていた。
「軍には医者も同行するし、基本は馬車での移動になるわ。扱いも私の客将扱いにする」
(客将待遇で納得してくれればいいけど…)
「...... 至れり尽くせりね」
ルシアが僅かに皮肉めいた調子で言ったが、納得はしているようだった。
(とりあえずは納得してもらえたかしら......)
リディアは内心で安堵しながら、ユリアの反応を窺った。
「出陣の理由を教えてもらえる?」
「現在、帝国東部方面軍の軍都エルズリウムから救援要請が来ているの。父ガリウス、兄ユリウスの2人はそれぞれ先遣隊と本隊を率いてすでに出陣している状況よ」
「軍都からの救援要請ということは戦況が悪いの?」
鋭い質問だ。この少女は軍事にも詳しいらしい。
「国境線から異常の報告は届いていないわ。だから暴動......とかになるのでしょうけど」
「軍都よね? 兵站も整っていて、守備も固いはず。よほどの事態が起きない限り...... それが抑えられないほどの暴動?」
リディアは内心で舌を巻いた。...... どこまで話すべきか......
「そうなるわね。けど、帝国で近年それほどの暴動の兆候はないわ」
「それが突然発生した可能性...... 昨夜、ここでも似たような異常事態があったけれど、他でも同じようなことが?」
この少女の洞察力は予想以上に鋭い。
「......それは、まだ分からないわ。まずは先遣隊の情報待ちね。私たちは万が一に備えて出陣するだけよ」
「そう...... わかったわ」
ユリアが納得したような声を出すと、リディアは改めて三人に向き直った。
「どう? 同行してもらえないかしら?」
ユリアとルシアは無言で視線を交わした。姉妹の間に長年培われた無言の意思疎通だった。ルシアが僅かに頷くと、ユリアも小さく首を縦に振った。瑞希はその様子を不安そうに見つめている。
「どうする?」
ルシアが瑞希に優しく声をかける。
「怖いんですけど...... でも、同行したほうがいいんですか?」
瑞希の声は震えていた。午前中の出来事、そして軍隊という話で、不安が重なっているのは明らかだった。
「ここにいても安全とは限らないわ。それに、この世界で生きていくためには、色々なことを知る必要がある」
ユリアは冷静に、長期的な視点から説明した。
「今後のため...... そうなんですね......」
瑞希は小さく呟いた。異世界で生きていかなければならない現実を、少しずつ受け入れようとしているようだった。
瑞希は両手をぎゅっと握りしめ、視線を彷徨わせる。少しの沈黙の後、口を開いた。
「...... わかりました。ご一緒させていただきます」
瑞希の声は震えていたが、はっきりとした答えだった。
「同行させていただくわ」
ユリアが代表して答えた。
「ありがとう!」
リディアは安堵して、声が自然と明るくなった。
「明日、朝から準備をして、お昼ごろには出発する予定よ。朝、訓練場に来てくれれば準備を手伝うよう手配しておくわ」
「ええ。わかったわ」
ユリアが頷くと、三人は立ち上がった。
「じゃあ、また明日」
「ええ。ありがとう。おやすみなさい」
「お、おやすみなさい」
瑞希が少し緊張した声で挨拶を返すと、三人は執務室を後にした。扉が静かに閉まり、リディアは一人残された執務室で深く息を吐く。
明日からの行軍が、彼女たちにとって、そして自分にとってどのような意味を持つことになるのか――リディアは窓の外の夜空を見上げながら、静かに思いを巡らせていた。
【同日 21:00】
【カラディン辺境伯領・カラディン城館客間】
執務室から戻った三人は、それぞれ思い思いに客間で過ごしていた。燭台の暖かな光が部屋を照らし、外から虫の音が静かに聞こえてくる。城館全体を夜の静寂が包み、廊下を歩く足音さえも遠くに響いた。
「軍に同行、ね......」
ユリアは窓辺に立ちながら呟いた。月明かりが横顔を淡く照らしていた。
「...... ほんとに行くんですか?」
瑞希が不安そうに尋ねる。ベッドの端に座り、膝を抱え込むようにしていた。声にわずかな疲れが滲んでいる。
「命令じゃないだけマシよ」
「そうね。きちんと説明して、表向きはこちらの意思に委ねようとする分、理性的な貴族よ」
ルシアが穏やかに答える。彼女は読書用の椅子に座り、本を閉じたまま手に持っていた。城館のどこかで時を告げる鐘が鳴り、夜の静寂に響いた。
「強制的に同行させられる可能性もあったってことですか?」
瑞希の声が震えた。この世界の現実を少しずつ理解し始めているようだった。
「そうね、貴族というのは時に強権を振るうものよ」
「リディアさんは優しいってこと......なんですか?」
「...... まあ、そういうことね」
ユリアは窓から振り返り、答えた。
(貴族がそうそう優しさで動くことはないでしょうけど)
「武力を見せたのが良かったのか、悪かったのか、判断に迷うところね」
「瑞希さんの暴走があったから、ユリアが見せていなくても結果は同じだったんじゃないかしら」
ルシアが冷静に分析する。その時、小さなあくびを手で隠した。
「あの時はすみません...... 自分でも何が何だか.......」
瑞希が申し訳なさそうに謝る。今日の出来事を思い出しているのか、表情が曇った。
「いいのよ。無事でよかったわ」
ルシアが立ち上がり、瑞希の隣に座って優しく声をかける。
「あの魔力量はすごかったわね......」
ユリアが窓から完全に振り返って言った。
「そんなになんですか?」
「周囲の様子を見る限り、普通じゃあり得ないほどの量みたいよ」
(私たちには何の変化もないのに、瑞希だけがこれほど......一体何が違うのかしら)
「あちらにいた時、思い当たることとかなかった?」
ルシアが気遣うように尋ねた。「あちら」という言葉に、瑞希の表情はわずかに強ばったが、すぐに表情を戻した。
「......あちらでですか?魔法なんて小説とかアニメでしか知らないですけど......」
瑞希は首を振った。その表情には困惑が浮かんでいたが、どこか上の空のような印象もあった。
「そっか、そうよね......」
ルシアが優しく頷く。やはり変化はこちらに来てからなのだろう。
「力も相当強くなってるみたいね?」
「あ、そうなんです。剣が羽みたいに軽かったんです。剣ってもっと重いイメージでした」
瑞希の声が急に明るくなる。少し高い声で、どこか無理をしているような印象だった。ユリアは瑞希の表情を注意深く観察する。
「一般的には1キログラムくらいのはずよ」
「そんな感じはしなかったなぁ。あの剣が特別軽かったのかな?」
「......別に軽い剣じゃなさそうだったけど」
ユリアは瑞希の不自然な明るさに眉をひそめた。
「瑞希さんの力が相当強くなっているようね。なんでかはわからないけど」
ルシアが説明しながら、瑞希の肩に軽く手を置く。外では夜風が窓を軽く揺らしている。
「ユリアさんも力が強くなったりしてるんじゃ?」
瑞希が興味深そうに尋ねた。
「......そうかもしれないわね」
(でも実際には、瑞希だけが劇的に変わっている...... 何か特別な要因があるのかもしれない)
「瑞希さんは特別変化が大きいのかもね」
ルシアが本を机に置きながら言った。
「さ、明日は朝から準備しないといけないから、早く寝ましょう」
「それがいいわね」
ユリアは燭台を一つずつ消し始めた。時刻はすでに21時を回り、夜も更けてきていた。
「はーい」
瑞希がいつもより高い声で返事をする。その明るさは夜の時間にしては少し不自然で、まるで何かから目を逸らそうとしているかのようだった。
ユリアは瑞希の様子を横目で見ながら、最後の燭台を消した。
(......少し、明るくなってきた? いえ、明るく振る舞おうとしている、の方が正しいかもしれない)
(でも......あの子の記憶の中で、あの出来事は一体どう処理されているのかしら)
(事故の話も、もとの世界の話も、自分からは一切口にしない。まるで最初から、そんな場所は存在しなかったかのように……)
(辛い記憶を自分の中に押し込めているだけなら、まだいいけれど...... ここまで全く言わないのは、防御機構にしても強固すぎる――)
(まるで、記憶ごと心の底に沈めてしまったような。もしもそれが、ある日突然浮かび上がってきたとしたら――パニックを起こし、あの力が暴走するかもしれない)
(そうなった時、果たして抑えることができるのかしら......)
(......少し注意して見ておくべきかもしれないわね……)
月明かりだけが部屋を照らす中、ユリアは瑞希の寝息を聞きながら、考えを巡らせていた。明日からの行軍が、この少女にとって――そして三人にとって――どのような試練と発見をもたらすことになるのか。
彼女たちの知らぬ未来を孕んだまま、夜は静かに更けていった。
夜明けは、すぐそこまで来ていた。




