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公爵令嬢は死にました

 治療開始後、九日目の午後。リリアンは薬工房の床に座り込んでいた。


 五本のラインで一日百人分の薬を作り続けている。けれど患者は増え続け、薬の生産が追いつかない。カイの前では大見得を切ったけれど、無力感に、リリアンは打ちのめされていた。


 ふと、薬工房の扉が開いた。


 カイが立っていた。外套を脱ぎ捨て、袖をまくって。


 工房の中を、紫水晶の瞳が走査した。五本のライン。ミーナやダミアンに手順を教えられた作業員たちが、林檎冠の乳液を煮詰め、皿を並べ、小瓶に注いでいる。


 カイの視線が、薬の粉を粉砕している作業員に定まった。


「ボトルネックは、粉砕工程だな」


 静かな、しかし断定の声だった。


 リリアンが顔を上げる。


「……ボトルネック?」


 カイは黒板の前に歩み寄り、チョークを取った。


「いいか。薬を作る工程は鎖だ。抽出して、粉砕して、溶かして、煮詰めて、瓶に詰める。どれだけ他の工程が速くても、一か所でも遅い工程があれば、全体の速度はそこに引きずられる」


 チョークが第三ラインの「粉砕」の文字を丸で囲んだ。


「その"一番遅い場所"をボトルネックと呼ぶ。瓶の首だ。——瓶をどれだけ大きくしても、注ぎ口が狭ければ、水は細くしか出てこない。今この工房で瓶の首になっているのは、粉砕工程だ」


 リリアンの目が見開かれた。


「粉砕の粒度がばらついている」


 カイは続けた。


「粗い粒が混ざるせいで、次の溶解工程で溶け残りが出る。作業員はそれを潰し直す。それで全体の流れが遅くなる」


工房が静まった。

カイは振り返りもしなかった。黒板に向かったまま、チョークを走らせる。


「まず、篩の目を一段階細かいものに替えろ。粒度が均一になれば溶け残りが消える。手戻りがなくなり、処理速度はおよそ一・五倍になる。——これがボトルネックの解消だ。ここさえ通れば、水は流れ始める」


チョークが黒板を叩いた。乾いた音が工房に響く。


「だが、ボトルネックが消えれば、流量が増える。増えた流量に今の配置では対応できない。次の詰まりが顔を出す前に、先に潰す」


カイの声に、淀みはなかった。まるで工房全体の流れが、頭の中で一本の川のように映っているかのように。


「第一の手——配置。作業台を七十センチ左にずらせ。今、粉砕した粉を溶解鍋に渡すとき、三歩歩いている。七十センチ詰めれば一歩で届く。工程の移行に掛かる時間が半分になる」


「第二の手——蒸発。第五ラインの濃縮皿を南に十五度回転させろ。午後の西日の入射角が変わり、液面に当たる熱量が増える」


「第三の手——動線……」


「わ、分かったから!」


 リリアンは立ち上がった。カイが見抜いた急所を、リリアンが現場に落とし込む。


 二人は黒板の前に立ち、工程表を書き直した。チョークの粉が二人の手を白く染めた。会話は最小限だったが、多くの言葉は必要無かった。


 夜が明ける頃、五本のラインの生産能力は、配置と動線の最適化だけで三割向上していた。


 十二日目の夕方、薬の投与が全員に行き渡った。


 十八日目、新規感染者がゼロになった。


 二十日目、全ての隔離線が解除された。死者は、出なかった。


「やったああああ!」


 工房の前のベンチで、ダミアンやミーナが笑っていた。


 自分の持ち場で仕事をやり尽くした人間の、穏やかな充実感を称えて。


 薬工房の片隅で、カイも満足げに彼らを見守っていた。


 しかし、ふと、カイが真顔になった。


「リリアン。……俺は近いうちに……君に、会いにくる」


「何度も来てるじゃない?」


 カイは答えなかった。銀色の髪が夕陽に染まり、その横顔は、リリアンがこれまで見たことがないほど、強張っていた。



 *

 

 数週間後。アークライトに日常が戻ってきた、ある日。


 自由区舎のリリアンの執務室の、扉を叩く音がした。ギデオンが入ってきて、言いにくそうに顎を掻いた。


「客や。……気持ちのええ客やないけどな」


 リリアンは椅子を引き、背筋を伸ばした。来客の正体は、聞かなくとも分かっていた。三日前から、複数の情報筋が同じ名前を伝えてきていたからだ。


「あと、これ。連中が持ち込んだ土壌の試料やて」


 ギデオンが、革袋を机の上に置いた。口を開けると、灰色の粉末がこぼれた。リリアンはそれを指先で少量つまむ。


(粒子が、ない?)


 土には本来、大小さまざまな粒がある。砂、シルト、粘土。それらが有機物と水を抱え込んで固まり、小さな塊を作る。その隙間を空気と水が通り、根が伸び、微生物が呼吸する。それが生きた土だ。


 リリアンは指先の、「死んだ土」の粉を払い、静かに目を閉じた。


 扉が開いた時、最初に目に入ったのは——靴の泥だった。


 三人の来訪者が引きずる靴底から、赤黒い泥が、磨き上げたタイルの上に付着する。


 三人の足取りは——記憶の中のものより、ずっと重かった。


 泥だらけの旅装束。旅塵に灰色にくすんだ外套。——かつて王都の社交界で最も華やかだったエヴァンス公爵家の当主が纏うには、あまりにも粗末な身なりだった。


 父の隣に立つ継母の美貌も、七年前の輝きを失っている。そしてその後ろに——義弟のアレン。


 銀色の髪だけが、場違いなほど美しかった。それ以外の全て——背中の丸め方、落ち着きのない視線、唇の乾き——が、かつて「伝説のスキル」の光に包まれて神殿に立った少年の面影を、残していなかった。


 アレンの手を、リリアンは見た。今、アレンの手の甲には、無数の細かい凍傷痕が走っていた。白く引き攣れた瘢痕が、指先から手首にかけて幾重にも重なっている。


(氷は、使い手さえも蝕む……)


 肩の上で、フェイが微かに身じろぎした。小さな前足が、リリアンの首筋をきゅっと掴む。


(——大丈夫。大丈夫だよ、フェイ)


 内心でそう呟きながら、リリアンは自分の心拍数が上がっていることに気づいた。


 呼吸を、整える。背筋を、伸ばす。


 怖くない。もう、怖くない。


「リリアン」


 父が口を開いた。


 その声を聞くのは七年ぶりだった。あの声だ。——かつて、おやすみの挨拶をしてくれた声。母が亡くなった後、泣くリリアンの頭を撫でてくれた――


 ——けれど、冷たい雨の中で、リリアンを遠くへ追いやった声。


「探したぞ。すぐにこの——」


「人違いでは? 公爵閣下」


 自分の声が、驚くほど平坦に聞こえた。


「私はアークライト総監、リリアン・アークライトです」

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