貴方だけの騎士
「前回訪問時の人参と比較して、糖度が低下している。そして——微かに、金属的な後味がある。舌の奥で、0.3秒ほど残留する」
リリアンの背筋が、冷えた。
「畑は変えてない。調理法も」
「ならば、水が変わった」
カイは、静かにフォークを置き、立ち上がった。
*
リリアンは『土いじり』のスキルを全力で展開し、井戸の水脈を辿った。
結果は、カイの舌が示した通りだった。
井戸の上流——アークライトから遥か離れた、人目につかない小川の上流に、布で覆われた壺が据えられていた。蓋を外した瞬間、鼻を突く腐臭。中には黒ずんだ獣の臓物が詰め込まれ、緑褐色の膜がねっとりと張りついている。壺には微小な穴が開けられており、腐汁が少量ずつ、井戸水へと流れ込む仕掛けだった。
誰かが意図的に、アークライトの水源を殺しにかかっていた。
「……私たちの井戸を殺すなんて!」
*
現場近くで聞き込みを行うと、住民の一人が、おずおずと口を開いた。
「あの……二日前に、旅人らしい人がこの上流へ向かうのを見ました。フードで顔は隠してて、よく見えなかったんですけど……近づいた時、服から甘くて重い香りが漂ってきて。教会でミサの時に焚く、あの匂いでした」
「乳香——聖職者の証か」
空気が一瞬、重くなった。
リリアンは息を飲み、視線を壺に落とした。
「偶然かもしれないわ」
そう口にしたが、その声は自分でも驚くほど小さかった。
「カイ、ありがとう。あなたの舌がなかったら、汚染に気づくのはずっと先だった。……あなたの味覚は、最高の分析装置」
カイの手が、一瞬だけ止まった。
「幼い頃から、『呪い』だと——全ての食事から刺激を受けすぎることを——そう呼ばれていた。俺の舌は欠陥だと」
「欠陥じゃない。数万人分の水を守れるのは、あなたのその舌よ」
カイはそれから——不器用に、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
*
リリアンは即座に汚染元を封鎖し、代替水源への切り替えを命じた。だが——細菌感染と食中毒は、既に人体を蝕んでいた。
スラム東区で熱病が発生した。三日で、患者十七名。五日で八十名。
リリアンは即座にスラム東区を封鎖し、隔離テントを設営した。だが封鎖は、恐怖の火種を生んだ。
「なんで俺たちを閉じ込めるんだ!」
封鎖線の前に住民たちが集まった。二十人、三十人、五十人——怒声が砂塵と共に膨れ上がっていく。
「細菌……じゃない、膿を生む毒素に触れることで、感染が広がる可能性があるの。今は、誰が毒素を持っているか、分からない状況。熱さえ上がらなければ、後遺症は残らない。若い人は、1日くらいの体調不良ですむ場合も……」
「知るかよ! 病人と一緒に閉じ込められたら、こっちまで死ぬだろうが!」
石が飛んだ。リリアンの頬を掠め、背後の柱に砕けた。二つ目。三つ目。封鎖線の縄を引きちぎろうとする男たちが現れ、境界線が崩れようとしていた。
四つ目の石がリリアンの額を狙った瞬間——
眼前を金色の残像が横切った。
乾いた音。石が宙で真っ二つに割れ、地面に落ちた。
アッシュが、抜き身の長剣を閃かせ、リリアンの前に立っていた。
「——退いて」
アッシュの声は、穏やかだった。だがその場の全員に等しく届く、通りの良さがある。
「怖いのは当然だ。でも、この封鎖線を壊したら、病はアークライト全体に広がる。子供たちが暮らす本区にも」
「関係ねえよ!」
叫んだ男が、スコップを振り下ろす。
アッシュは軌道の内側に滑り込み、剣の腹で、スコップの柄を打った。スコップが遠くへ飛んでいく。
棍棒を振り上げた男には、膝裏を軽く蹴って崩す。
三人目、四人目——暴徒が動くたびに剣が閃いたが、誰一人、血を流さなかった。全ての動作が「無力化」だけを目的としていた。
「閉じ込めるんじゃない、守るんだ。この線の内側にいる人も、外側にいる人も、全員を。——そのための仕組みを、姉さ……総監が今、作ってる」
群衆の怒号が、静まっていく。
スコップを失った男が、黙って後ろに下がった。石を投げた男が、地面に目を落とした。暴動は——静まった。
「——怪我はない? リリィ姉さん。とりあえず執務室に戻ろう」
アッシュが、振り返って微笑んだ。
*
リリアンは促されるがまま、アッシュより少し遅れて、歩き出す。
「アッシュ……すごい。そんな剣術、どこで……」
絞り出すように問いかけると、アッシュは一瞬、視線を泳がせた。
「自警団にも顔を出してるって、知ってるでしょ。最近は兄貴にも勝てるくらい強く――」
アッシュの言葉が、途切れた。
アッシュの視線が、リリアンの頬に止まった。石で切れた傷。血が一筋、顎まで伝っている。
アッシュの表情から、笑みが消えた。
「——守れなかった」
アッシュが呟く。
「姉さんの隣にいたのに」
「ほんのちょっと切れただけだよ。大したこと——」
「大したことある。文字通りアークライトの顔なんだから」
アッシュの声が低くなった。清潔なハンカチと薬液を取り出し、リリアンの傷を拭う。血はすでに止まっていた。
自由区舎の中庭に入った瞬間、アッシュは足を止め、リリアンの正面に立った。
午後の陽光が逆光になった。ブロンドの髪が光に透けて淡い金色に燃え、まだ少年の面影を残す輪郭を、高い空が縁取っている。
アッシュは——片膝をついた。右手を左胸に当て、深く頭を垂れた。
「え、と? アッシュ? 何して? まるで」
まるで、騎士の礼のようだ、と口にしかけて、リリアンは黙る。リリアンが公爵家の生まれである事実を、アッシュは知らない。自分も、アッシュがどんな家で生まれたのかなど知らない。知りたくもない。
「僕の剣は——貴方を傷つける全てのものを、断つためにある」
アッシュが、顔を上げた。リリアンを射貫くように見上げる。
「貴女が守りたいと願う人たちを、僕も守る」
一語一語に、少年が持てる全ての真摯さが込められていた。
「この身に流れる血の全てを懸けて——貴女に、永遠の忠誠を。貴方の騎士として」
アッシュの手が、リリアンの手を取った。
リリアンの手の甲に、アッシュの熱い唇が落とされた。




