表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/20

アスペルガー来訪

青年の美しい顔は、ひどい苦痛に歪んでいた。


青年は倒れたまま、身を丸め、小さくうめき声を上げている。


(音が……刺さる? 感覚刺激が過剰になって、苦痛になってしまっている……?)


リリアンは前世で、似たような状態の人を見たことがある気がした。


前世の記憶は靄がかかっていたが、どう対処すべきかは直感的に分かった。


「……すぐに、静かな場所へ」


リリアンは青年に小声で話しかけた。


リリアンは『土いじり』のスキルを使い、手早く砂を隆起させて即席の「土のドーム」をつくった。そして青年を、その暗がりの中へと引き入れた。


ドームに入った瞬間、直射日光と風車の音が、和らいだ。


「……心拍が正常化していく」


青年は呟き、ドームの壁に背中を預けて座り込んだ。暗闇の中で、青年の紫水晶のような瞳がきらりと光った。


「少し、休んでいて」


リリアンは井戸に走る。人づてに、少しの時間だけ風車を止めるように依頼した。



「どうぞ、常温の、冷たすぎない水です。皮袋の匂いも、しません」


リリアンは、井戸水を、木の器に入れてそっと差し出した。


青年は眉根を寄せ、器を受け取ろうとしない。


「……毒なんて入ってません、ほら」


リリアンが匙ですくって飲んでみせる。従者の毒見の後、青年は水を一気に飲み干した。


「……貴族の娘が、なぜ、こんなところに」


青年は、壁に寄りかかりながら、かすれた声で言った。青年の視線が、初めてリリアンを真っ直ぐに捉えた。


「なぜ、貴族と?」


「毒を警戒しているのだと、すぐ思い至った。肩に守護妖精も。それに――姿勢がいいな、デビュタント前にダンスレッスンもしていたか」


「……人間不信の、旅芸人かもしれませんよ。……いえ、旅のお方はそちらですね。アークライト自由区へ、ようこそ」


リリアンは、内心どきりとしていたが、精一杯微笑んだ。



青年は、カイと名乗った。少しドームで休むと、カイの体調は急速に改善した。


リリアンは、何かスキルを使ったのだとピンと来たが、気づかないフリをした。


従者は、名乗らなかった。


(なぁんだ、働けそうな年齢の仲間が増えるかと思ったのに。この体格なら一日の作業量は平均の一・五倍は見込めたのに。……立派なスキル持ち、か)


リリアンは落胆したが、まだ顔色の悪いカイを放ってもおけない。


村の小さな食堂兼宿屋――〈アークライト亭〉に、リリアンはカイを案内した。ちょうど空いている時間帯だ。


おそらくはカイ自身もそれなりの身分であろうと、察しがついたが、この村にフルコースを出す店などない。


カイは、朝から何も食べていないと告げた。従者が何故か大量に料理を注文した。乾燥地帯でよく使う香辛料で、味をつけた兎肉の串焼き。ハーブを混ぜ込んだ山羊のチーズ。木の実を散らした鶏肉のスープ。そして、焼きたての全粒粉パン。


素朴だが落ち着ける食堂は、村民の憩いの場だ。カイが座る場所には、柔らかな織物で包んだ薄いクッションが敷かれている。


リリアンは、窓から差し込む午後の日差しを、カーテンで遮った。


「お口に合うと、いいのですが」


リリアンは少し照れながら、カイを席へ導いた。


「……」


カイは、無表情で席に着いた。


クッションに腰を下ろした瞬間、カイの眉がかすかに歪んだ。それでもカイは何も言わず、黙って料理に手を伸ばした。


だが、香辛料の効いた兎肉を一口含んだ瞬間、カイの顔が蒼白になった。


「……っ」


咀嚼を止め、静かに手を止める。ハーブ入りのチーズにも手を伸ばしたが、その手もすぐに止まった。


スープも、一口含んだだけで、口元を手で押さえた。


アークライト亭自慢の料理が、ほとんど手つかずのまま並んでいる。


唯一、カイがゆっくりと齧っていたのは、何の味付けもしていない素朴な全粒粉のパンだけだった。そして、座り心地が良いはずのクッションの上で、しきりに居心地悪そうに身じろぎしている。



従者が、険しい顔のまま低く呟いた。


「カイ様、やはり、呪いが……」


(呪い? 食べられないことが、呪い?)


リリアンはカイの様子を注意深く観察した。


(全粒粉のパンは噛み進めている。でも、香辛料の兎肉もチーズもスープも全滅……。チーズは香りを嗅いだ瞬間に手が止まった。……強い香辛料が苦手なのかな? 気温の高いアークライトでは、どうしてもスパイス料理が多くなるから……。それに、クッションに座ってからも、ずっと身じろぎが止まらない。織物の触覚が、肌を刺している……? 話し方も少し独特……)


前世の記憶が、薄い霧の向こうから浮かび上がった。


感覚の受容が生まれつき極端に鋭い人がいた。ある人にとって快い香りが、別の人にとっては脳を焼くノイズに感じられる。 ただし、知的レベルは低下しておらず、むしろ賢くて――


(アスペルガー症候群? いまは自閉症スペクトラム……ASDというのだっけ?)


リリアンは、そっと席を立った。


「少し、待っていてください」



十五分後。


厨房を借りてリリアンが手ずから作った膳は、先ほどの料理と全く異なっていた。


塩だけで蒸した鶏の胸肉。茹でただけの、甘みの強い人参と南瓜。そして蒸し芋。一切の香辛料を使わない。匂いの主張もない料理。


クッションは、さり気なく片づけた。代わりに、表面をなめらかに磨いた硬い木の板を敷いた。


カイは、新しい膳を、紫の目で凝視した。


「……なぜ、分かった」


かすれた低い声が、微かに震えていた。


リリアンは穏やかに微笑んだ。カイの感覚の鋭さを、ここで言葉にして定義する必要はない。


「あなたが美味しいと感じられるものを、探しただけです。……最初の膳で七品目中一品だけ食べられた。変数は香辛料、温度、食感。一つずつ排除してパターンを試せば、最適解に辿り着ける。効率のいい思考実験でした」


「……俺と同じようなことを言う」


カイは、しばらくリリアンの顔をじっと見つめていた。


やがて視線を落とし、新しい料理に手を伸ばした。


蒸し鶏を一口。


カイの咀嚼は、ゆっくりだった。一口ごとに、舌の上で味を確かめるように、丁寧に噛んでいる。


人参を一口。南瓜を一口。蒸し芋を一口。


噛むたびに、カイの張り詰めた肩が少しずつ下がっていく。


リリアンは、その横顔を見ていた。


先ほどまでの料理には、ほとんど手をつけなかった。香辛料の兎肉も、ハーブのチーズも、木の実のスープも——全て、一口で止まった。


なのに今、カイは食べている。


リリアンが作った皿だけを。一切残さず。


最後の一切れの蒸し芋を口に運んだ時、カイの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……全部、美味い」


完食した横顔に浮かんでいたのは、ごくかすかな、微笑み。長い放浪の果てに、ようやく安全な場所を見つけた子どものような。


「カイ様が……笑った?!」


従者が、驚いてリリアンを見た。


「この地方の料理だけではない……特定の味に、俺の舌は拒絶を起こす。なのに、なぜ、君の手から出されたものだけは……」


「素材の力です。この土地が育てた野菜だから」


「違う……君が作ったからだと、思う。それに、光も、椅子も、俺のために整えてくれた」


小さな声だった。


少しだけ、リリアンの胸が高鳴った。誰かの役に立てる、その事実だけがリリアンの存在証明だ。


(でも——)


リリアンは、すぐに自分を引き戻した。


(驕るな、リリアン。私じゃなくても、同じ条件で作れば、誰でもできる。私は、父にすら要らないとされた人間だ。こんなことで、舞い上がってはいけない)


「……調理方法が、お口に合ったなら、良かったです」


努めて平静に言った。


カイが、顔を上げた。アメジストの双眸が、リリアンを見ていた。


「技術の話ではない。うまく言えないが……君が作ったからだ。……美味かった。俺の人生で、一番」


(大げさな……)


リリアンは苦笑したが、悪い気はしなかった。


「本当だ。俺の料理人になれ。報酬は弾む」


「カイ様! このような小娘に!」


従者が声を裏返した。カイは片手で従者を制する。


「連れ帰るぞ」


紫の瞳がリリアンを真正面から射抜く。次の瞬間、カイはリリアンに一歩近づき、その小さな体を、まるで人形でも持つように片手で抱えようとした。


リリアンの肩の上で、フェイが驚いたようにぴょんと跳んだ。従者が、慌ててカイを止める。


「カイ様! そういうことは、平民といえど御本人の了承を得るものです!」


「そうか。俺と共に王都へ来い。これでいいな?」


リリアンは面食らった。


「お気持ちはありがたいのですが、私はこの村の農地管理をしていまして……」


「農地管理は代わりの人間を雇えばいい。俺と来い。ドレスも宝石も、好きなだけ手に入るぞ」


カイの声は淡々としている。


(気遣いの出来ない人みたいにみえるけど……身勝手なのではなくて、感情が『分からない』んだ。そういう性質なんだ、きっと)


――リリアンは前世の記憶でうっすらと理解した。


「光栄です。でも、ここには私を必要としてくれている人たちがいて……」


カイの眉がぴくりと動いた。


「俺も、君を必要としている」


真顔だった。


「……では、帝都にお戻りになったら、料理人にこう伝えてください。香辛料や濃厚なソースを一切使わず、素材の味だけで。温度と切り方と食感を、毎回、正確に同じにすること。柔らかな布ではなく、なめらかな木や革を身の回りに。騒がしい広間ではなく、光と影のコントラストのない、静かな個室で、決まった配膳で」


「それならば、俺も食べられると?」


「はい。カイ様の感覚はとても鋭いだけです。呪いなどではありません。刺激の種類と量を整えれば、誰が作った料理でも、きっと安心して食べられます」


カイの目が、わずかに見開かれた。瞳に、複雑な色が交錯する。驚きと、戸惑いと、ほんの微かな――喜び。


「……呪いではない、と?」


「ええ。呪いではありません」


カイは長い沈黙の後、ゆっくりと首を振った。


「君の提案は論理的だ。だが、不採用だ」


「え?」


「君の料理は、ここの空気と水と土ごと美味いし、君がいないと環境も整わない」


「カイ様、あまり無理をおっしゃいますな」


「……では、時折、俺がこの村を訪れる。君はその日だけ、俺の食事を用意すればいい。それで問題ないな」


「いえ、問題しかないと思うのですが……」


カイは椅子から立ち上がり、リリアンの前まで歩いてきた。長身が、小さなリリアンの頭上に影を落とす。


カイの手が、リリアンの右手をすくい上げた。


「え……?」


カイはリリアンの手のひらを無造作に開き、紫の目で凝視した。


「三箇所の鋤ダコ。火傷痕が二つ。爪の奥の土は三日以内のもの。生活は、苦しくはないか」


「こ、個人情報の塊みたいな分析をしないでください……! 今はだいぶ楽です、食事も十分ですし」


「婚約者は」


「……え?」


「未婚の女性を男性が訪問する場合、婚約者の許諾が必要だと書物で読んだ。確認が必要だ」


「いません。私、平民ですよ」


「ちなみに俺もいない。ならば、支障はないな」


「……初対面の女性の手に触れるのも、貴族様なら問題になるのでは?」


リリアンはカイから手を離す。


「そうか? 小さな手で、興味深いが」


カイは、リリアンの手を、まるで分析するように熱心に見つめている。


「……人と触れ合う機会が少なくてな。知らなかった」


カイが、ポツリと呟いた。


「……温かいものだな、他人の手というのは」


リリアンは、カイの瞳の奥に浮かぶ、どこか悲しそうな色に気づく。


(この世界は、精神疾患や発達障害への理解が進んでいない。この人も……ずっと、一人だったのかな)


誰も味方のいない場所で、たった一人、領主になるための勉強をしていた頃の自分を……暗い場所で井戸を掘っていた頃の自分を、思い出す。


リリアンはそっと、肩の上のフェイをつついた。


「っ、きゅ」


光のモモンガが、リリアンの意志に呼応してふわりと宙を舞う。


そして、カイの手の甲に、ふかふかの身体をぴたりと寄り添わせた。


カイの瞳が大きく揺れた。銀色のまつげが一度だけ速く瞬いた。


「……何をしている」


掠れた声。


「温めてもらっています」


「なぜ」


「冷たかったから」


「……論理が循環している」


リリアンは小さく吹き出した。


「ご不快ですか? 私の守護妖精は」


「……温かくて……心地よいな。小さくて、愛らしい。大事にしたくなるな」


不器用な手つきで、カイはフェイを撫でている。


「可愛い、というのですよ、それは」


「――口にしたことのない言葉だな」


カイは、リリアンを見下ろした。銀髪の隙間から覗く耳の先端が、ごくわずかに赤く染まっていた。


――不意に、アークライト亭の扉が、バンッと乱暴に開かれた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ