アスペルガー来訪
青年の美しい顔は、ひどい苦痛に歪んでいた。
青年は倒れたまま、身を丸め、小さくうめき声を上げている。
(感覚刺激が過剰になって、苦痛になってしまっている……?)
リリアンは前世で、似たような状態の人を見たことがある気がした。
前世の記憶は靄がかかっていたが、どう対処すべきかは直感的に分かった。
「……すぐに、静かな場所へ」
リリアンは青年に小声で話しかけた。
リリアンは『土いじり』のスキルを使い、手早く砂を隆起させて即席の「土のドーム」をつくった。そして青年を、その暗がりの中へと引き入れた。
ドームに入った瞬間、直射日光と風車の音が遮断された。
「……心拍が正常化していく」
青年は呟き、ドームの壁に背中を預けて座り込んだ。暗闇の中で、青年の紫水晶のような瞳がきらりと光った。
「少し、休んでいて」
リリアンは井戸に走る。人づてに、少しの時間だけ風車を止めるように依頼した。
「どうぞ、常温の、冷たすぎない水です。皮袋の匂いも、しません」
リリアンは、井戸水を、木の器に入れてそっと差し出した。
青年は眉根を寄せ、器を受け取ろうとしない。
「……毒なんて入ってません、ほら」
リリアンが匙ですくって飲んでみせる。従者の毒見の後、青年は水を一気に飲み干した。
「……貴族の娘が、なぜ、こんなところに」
青年は、壁に寄りかかりながら、かすれた声で言った。青年の視線が、初めてリリアンを真っ直ぐに捉えた。
「なぜ、貴族と?」
「毒を警戒しているのだと、すぐ思い至った。肩に守護妖精も。それに――姿勢がいいな、デビュタント前にダンスレッスンもしていたか」
「……人間不信の、旅芸人かもしれませんよ。……いえ、旅のお方はそちらですね。アークライトへ、ようこそ」
リリアンは、内心どきりとしていたが、精一杯微笑んだ。
*
青年は、カイと名乗った。少しドームで休むと、カイの体調は急速に改善した。
リリアンは、何かスキルを使ったのだとピンと来たが、気づかないフリをした。
従者は、名乗らなかった。
(なぁんだ、働けそうな年齢の仲間が増えるかと思ったのに。……立派なスキル持ち、か)
リリアンは落胆したが、まだ顔色の悪いカイを放ってもおけない。
村の小さな食堂兼宿屋――〈アークライト亭〉に、リリアンはカイを案内した。ちょうど空いている時間帯だ。
おそらくはカイ自身もそれなりの身分であろうと、察しがついたが、この村にフルコースを出す店などない。
カイが朝から何も食べていないと言うので、料理を注文した。乾燥地帯でよく使う香辛料で、味をつけた兎肉の串焼き。ハーブを混ぜ込んだ山羊のチーズ。木の実を散らした鶏肉のスープ。そして、焼きたての全粒粉パン。
素朴だが落ち着ける食堂は、村民の憩いの場だ。カイが座る場所には、柔らかな織物で包んだ薄いクッションが敷かれている。
「お口に合うと、いいのですが」
リリアンは少し照れながら、カイを導いた。
「……」
カイは、無表情で席に着いた。
クッションに腰を下ろした瞬間、彼の眉がかすかに歪んだ。それでも彼は何も言わず、黙って料理に手を伸ばした。
だが、香辛料の効いた兎肉を一口含んだ瞬間、カイの顔が蒼白になった。
「……っ」
咀嚼を止め、静かに手を止める。ハーブ入りのチーズにも手を伸ばしかけたが、鼻に届いた瞬間、指を引いた。
スープも、一口含んだだけで、口元を手で押さえた。
アークライト亭自慢の料理が、ほとんど手つかずのまま並んでいる。
唯一、彼がゆっくりと齧っていたのは、何の味付けもしていない素朴な全粒粉のパンだけだった。そして、座り心地が良いはずのクッションの上で、しきりに居心地悪そうに身じろぎしている。
従者が、険しい顔のまま低く呟いた。
「カイ様、やはり、呪いが……」
(呪い? 食べられないことが、呪い?)
リリアンはカイの様子を注意深く観察した。
(全粒粉のパンは噛み進めている。でも、香辛料の兎肉もチーズもスープも全滅……。チーズは匂いを嗅いだ瞬間に手を引いた。……強い香辛料が苦手なのかな? 気温の高いアークライトでは、どうしてもスパイス料理が多くなるから……。それに、クッションに座ってからも、ずっと身じろぎが止まらない。織物の触覚が、肌を刺している……? 話し方も少し独特……)
前世の記憶が、薄い霧の向こうから浮かび上がった。
感覚の受容が生まれつき極端に鋭い人がいた。ある人にとって快い香りが、別の人にとっては脳を焼くノイズに感じられる。 ただし、知的レベルは低下しておらず、むしろ賢くて――
(アスペルガー症候群? いまは自閉症スペクトラム……ASDというのだっけ?)
リリアンは、そっと席を立った。
「少し、待っていてください」
*
十五分後。
厨房を借りてリリアンが手ずから作った膳は、先ほどの料理と全く異なっていた。
塩だけで蒸した鶏の胸肉。茹でただけの、甘みの強い人参と南瓜。そして蒸し芋。一切の香辛料を使わない。匂いの主張もない料理。
クッションは、さり気なく片づけた。代わりに、表面をなめらかに磨いた硬い木の板を敷いた。
カイは、新しい膳を、紫の目で凝視した。
「……なぜ、分かった」
かすれた低い声が、微かに震えていた。
リリアンは穏やかに微笑んだ。カイの感覚の鋭さを、ここで言葉にして定義する必要はない。
「あなたが美味しいと感じられるものを、探しただけです」
カイは、しばらくリリアンの顔をじっと見つめていた。
やがて視線を落とし、新しい料理に手を伸ばした。
蒸し鶏を一口。人参を一口。南瓜を一口。
噛むたびに、カイの張り詰めた肩が少しずつ下がっていく。
「……全部、美味い」
カイの声は、掠れていた。
「この地方の料理だけではない……特定の味に、俺の舌は拒絶を起こす。なのに、なぜ、君の手から出されたものだけは……」
「素材の力です。この土地が育てた野菜だから」
半分は本気で、半分は照れ隠しだった。
カイは全ての皿を、一切残さず平らげた。
完食した横顔に浮かんでいたのは、微笑み。長い放浪の果てにようやく安全な場所を見つけた子どものような。
「カイ様が……笑った?!」
従者が、驚いてリリアンを見た。
「……美味かった。俺の人生で、一番」
(大げさな……)
リリアンは苦笑した。
*
「本当だ。俺の料理人になれ。報酬は弾む」
「あの……私は料理人ではありません」
「いいや、君の料理は世界一だ」
「カイ様! このような小娘に!」
従者が声を裏返した。カイは片手で従者を制する。
「連れ帰るぞ」
紫の瞳がリリアンを真正面から射抜く。次の瞬間、カイはリリアンに一歩近づき、その小さな体を、まるで人形でも持つように片手で抱えようとした。
リリアンの肩の上で、フェイが驚いたようにぴょんと跳んだ。従者が、慌ててカイを止める。
「カイ様! そういうことは、平民といえど御本人の了承を得るものです!」
「そうか。俺と共に王都へ来い。これでいいな?」
リリアンは面食らった。
「お気持ちはありがたいのですが、私はこの村の農地管理をしていまして……」
「農地管理は代わりの人間を雇えばいい。俺と来い。ドレスも宝石も、好きなだけ手に入るぞ」
カイの声は淡々としている。
(気遣いの出来ない人みたいにみえるけど……身勝手なのではなくて、感情が『分からない』んだ。そういう性質なんだ、きっと)
――リリアンは前世の記憶でうっすらと理解した。
「光栄です。でも、ここには私を必要としてくれている人たちがいて……」
カイの眉がぴくりと動いた。
「俺も、君を必要としている」
真顔だった。
「……では、帝都にお戻りになったら、料理人にこう伝えてください。香辛料を一切使わず、素材の味だけで。温度と切り方と食感を、毎回、正確に同じにすること。柔らかな布ではなく、なめらかな木や革を身の回りに。騒がしい広間ではなく、静かな個室で、決まった配膳で」
「それならば、俺も食べられると?」
「はい。カイ様の感覚はとても鋭いだけです。呪いなどではありません。刺激の種類と量を整えれば、誰が作った料理でも、きっと安心して食べられます」
カイの目が、わずかに見開かれた。瞳に、複雑な色が交錯する。驚きと、戸惑いと、ほんの微かな――喜び。
「……呪いではない、と?」
「ええ。呪いではありません」
カイは長い沈黙の後、ゆっくりと首を振った。
「君の提案は論理的だ。だが、不採用だ」
「え?」
「君の料理は、ここの空気と水と土ごと美味い。帝都の料理人がレシピを模倣しても、この土地の匂いは再現できない」
「カイ様、あまり無理をおっしゃいますな。こちらのお嬢様が困っておられます」
「……では、時折、俺がこの村を訪れる。君はその日だけ、俺の食事を用意すればいい。それで問題ないな」
「いえ、問題しかないと思うのですが……」
カイは椅子から立ち上がり、リリアンの前まで歩いてきた。長身が、小さなリリアンの頭上に影を落とす。
カイの手が、リリアンの右手をすくい上げた。
「え……?」
カイはリリアンの手のひらを無造作に開き、紫の目で凝視した。
「三箇所の鋤ダコ。火傷痕が二つ。爪の奥の土は三日以内のもの。生活は、苦しくはないか」
「こ、個人情報の塊みたいな分析をしないでください……! 今はだいぶ楽です、食事も十分ですし」
「婚約者は」
「……え?」
「未婚の女性を男性が訪問する場合、婚約者の許諾が必要だと書物で読んだ。確認が必要だ」
「いません。私、平民ですよ」
「ちなみに俺もいない。ならば、支障はないな」
「……初対面の女性の手に触れるのも、貴族様なら問題になるのでは?」
リリアンはカイから手を離す。
「そうか? 小さな手で、興味深いが」
カイは、リリアンの手を、まるで分析するように熱心に見つめている。
従者がもう一度口を開きかけて、止まった。
「……人と触れ合う機会が少なくてな。知らなかった」
カイが、ポツリと呟いた。
「……温かいものだな、他人の手というのは」
カイの瞳の奥に浮かぶ、どこか悲しそうな色に気づく。
(この世界は、精神疾患や発達障害への理解が進んでいない。この人も……ずっと、一人だったのかな)
誰も味方のいない場所で、たった一人、領主になるための勉強をしていた頃の自分を……暗い場所で井戸を掘っていた頃の自分を思い出す。
リリアンはそっと、肩の上のフェイをつついた。
「っ、きゅ」
光のモモンガが、リリアンの意志に呼応してふわりと宙を舞う。
そして、カイの手の甲に、ふかふかの身体をぴたりと寄り添わせた。
カイの瞳が大きく揺れた。銀色のまつげが一度だけ速く瞬いた。
「……何をしている」
掠れた声。
「温めてもらっています」
「なぜ」
「冷たかったから」
「……論理が循環している」
リリアンは小さく吹き出した。
「ご不快ですか? 私の守護妖精は」
「……温かくて……心地よいな。小さくて、愛らしい。大事にしたくなるな」
不器用な手つきで、カイはフェイを撫でている。
「可愛い、というのですよ、それは」
「――口にしたことのない言葉だな」
カイは、リリアンを見下ろした。銀髪の隙間から覗く耳の先端が、ごくわずかに赤く染まっていた。
不意に、村長舎の扉がバンッと乱暴に開かれた。




