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20/20

「あの規模の治水施設は大陸でも類を見ないと聞いています。各国の治水事業の参考にもなるかと」


リリアンの思い付きに、各国の代表が顔を見合わせる。


「――よろしければ、ご案内いたしましょう」


ゼファニウスの穏やかな声が割り込んだ。


「神殿も、あの工事には少なからず関わっております。現場の者たちにも話は通せましょう」


リリアンは、カイの方をちらりと見た。


カイの唇の端が、ほんの少しだけ上がった。


「いいだろう。ただし――俺はリリアンの傍を離れない」



大陸中央ダムの建設現場は、圧巻だった。


赤褐色の渓谷を、巨大なダムの壁が横断し、水をせき止めている。高さはざっと六十メートル。


ひとしきりダムの壁の上から貯水池を見下ろしたあと――リリアンたちは、渓谷の底、ダムの壁を見上げる位置にある、水位観測所前の広場にいた。


壁の向こう側――上流には、先ほど見下ろした、空の青を映すほどの大量の水が溜まっている。


もしこの壁が決壊すれば、真下にいる自分たち代表団はもちろん、下流で働く数百人の作業員と、その先にある二つの集落が呑まれることになる。


「すごい……」


リリアンは広場の手すりに駆け寄り、そびえ立つ壁を見上げた。夢中だった。


だが——リリアンの目が、壁の下部に留まった。


土台と岩盤が接する部分が、濡れている。


壁の裏にあれだけの水を溜めているのだから、わずかな漏れは仕方がない。問題は、その処理だ。


こうした壁を建てる時は、土台の岩盤にある隙間を事前に埋めておく。岩の割れ目にセメントのような素材を注入して、水の通り道を塞いでおくのが基本だ。――それが不十分だと、長い時間をかけて水が岩の内部に浸み込み、少しずつ「水の道」ができてしまう。やがてその道が広がり、土台を内側から食い破っていく。


(あの濡れ方は……隙間の処理が甘い? この規模の水が押し続けたら……)


不安がよぎった。だが、これはフォルトリス公国の事業だ。黙っているつもりはないが、うまく話さないと国家間の問題になる。


リリアンは一つ息をついた。


リリアンのすぐ隣に、カイが立っていた。銀色の髪が風に流れ、紫水晶の瞳が、静かに巨大な壁を見上げている。


ゼファニウスが神官たちを引き連れ、カイに歩み寄った。白い法衣が風にはためく。


「……陛下」


ゼファニウスの声は穏やかだった。まるで庭園を散歩しながらの世間話のように。


「王都の方は、ご心配には及びません。私どもが、しっかりとお守りしておりますゆえ」


ゼファニウスの微笑みが、一段、深くなった。


リリアンの肌が、なぜか粟立った。


風が、止んだ。


渓谷を吹き抜けていた乾いた風が、不自然に凪いだ。広場を囲む旗が、だらりと垂れ下がる。


気づいた時には、遅かった。


ゼファニウスの組まれた両手が――わずかに動いた。ほんの些細な仕草。


次の瞬間。


見えない波が、広場を中心に広がった。


心臓を、巨大な掌に鷲掴みにされた感覚。


全身の筋肉が硬直する。呼吸が浅くなる。視界がぼやけ、頭の中に、一つの感情だけが流し込まれてくる。


(この人に逆らってはいけない。この人の言葉に従わなければならない。この人こそが正しく、この人こそが――)


リリアンの右肩の上で、フェイが必死に両方の前脚を広げ、淡い光を放った。守護妖精の力が、異物のような感情を少しだけ和らげる。


(違う……! これは、私の心じゃ、ない……!)


頭では分かる。だが、体が動かない。


広場を、視線だけで見回す。


ミラ王国の代表が、手すりに掴まったまま膝から崩れていた。近衛騎士たちの手が、剣の柄から離れ、だらりと垂れていた。


――そのとき。


靴が、石畳を踏む音がした。


カイが――立っていた。


他の全員が膝を折りかける中で、カイだけが、背筋を伸ばしたまま立っていた。


銀色の髪が揺れている――いや、風は止んでいたはずだ。カイの体から発する淡い蒼光が、大気を震わせていた。


冷徹な紫眼が、ゼファニウスを、正面から射抜いた。


「……効かぬ、と?」


ゼファニウスの顔から、初めて――微笑みが消えた。


「人間の心には——他者の感情に、自動的に共鳴する鏡がある」


カイは、淡々と告げた。声に感情はない。ただ、事実だけを述べるように。


一歩、ゼファニウスに向かって踏み出した。


「悲しむ人を見れば、胸が痛む。笑う人を見れば、安心する。――あなたのスキルは、その鏡に介入し、服従を注ぎ込むものだ」


もう一歩。蒼光が、強くなった。


「だが」


カイの紫水晶の瞳が、ゼファニウスの目を真正面から捉えた。


「俺の心には、その鏡が、最初から、存在しない」


ああ、とリリアンはひとりごちる。


人の表情が読めない。場の空気が掴めない。感情の機微が分からない。


――それが、カイの「呪い」と呼ばれた理由だった。


「存在しない鏡は、どれほどの力で叩いても、開かない」


ゼファニウスの目が、見開かれた。


「……呪われし血め」


ゼファニウスが両手を組み直した。爪が、掌に食い込んでいるのが見えた。


「まさか、ここまでとは」


「呪い、か」


カイの昏い声と共に、外套が翻った。


その瞬間――カイの全身から、紫がかった蒼い光が、静かに溢れ出した。


ガラスが割れるような、繊細で鋭い音が連鎖した。


広場を覆っていた、目に見えない服従の糸が、カイの蒼光に触れるたびに凍りつき、微細な氷の欠片となって砕け散っていく。


一本。また一本。


水飛沫と陽光の中を、無数の氷の破片が舞い散った。一つひとつが淡い光を帯びて、広場全体をきらきらと照らし出す。


ミラ王国の代表が、はっと顔を上げた。体の自由を取り戻している。


近衛騎士たちが呆然と手足を確かめ、剣を握り直す。


「最近は、呪いにすら感謝している……呪いが無ければ、出会えなかった」


カイが、リリアンを見た。


リリアンの胸を締め付けていた不快な感覚は、嘘のように、消えていた。


肩の上で、フェイが体を起こし、ぴょんと跳ねた。


カイの背中を、リリアンは見つめた。


蒼い光を纏い、月光を映す銀の髪を風に流し、たった一人で、全員の鎖を砕いた背中。


呪いだと蔑まれた特性が。誰にも理解されなかった孤独が。——今この瞬間、この場にいる全員を、救った。


(カイ――)


――だが。


安堵は、一瞬で消し飛んだ。


「手荒な真似は、したくないのですが……精神操作での会議支配をできぬとなれば、取るべき道はひとつ」


ゼファニウスの淡白な声。ゼファニウスの右手が、わずかに動いた。袖の下で、指が一本だけ立てられた。


――合図だった。


広場の端に控えていた白い法衣の神官三人が同時に、目の前にそびえるダムに向かって掌を突き出した。


三条の光が、ダムの壁に突き刺さった。


――リリアンが先ほど、水の滲みを確認した、まさにその箇所に。


轟音。


壁から、ダムの水が爆発的に噴き出した。岩盤の中に浸み込んでいた水が、スキルの衝撃で一気に「道」を広げた。内側から岩が崩れ、水に押されて土台が抉られていく。


(もともと弱かった箇所を、狙って壊した……!)


壁の下流面に、蜘蛛の巣状の亀裂が広がっていく。コンクリートが、内部から食い破られている。


(精神支配が効かなかったから……下流にいる私たちごと、ダムを決壊させて殺す気だ。「視察中の事故」として処理するつもり……!)


そして、噴き出した膨大な濁流が、牙を剥いて下流の広場へと迫ってきた。


各国の代表たちが悲鳴を上げる中、リリアンの視界にも、轟音を立てて水の壁が押し寄せる。


(逃げ道は……ない!)


「リリアン!」


鋭い声とともに、強引な力で腕を引かれた。


次の瞬間、カイの腕がリリアンを強く抱き寄せる。氷の結界が、カイとリリアンと、そして代表団を覆うように、瞬時に隆起した。


広場を呑み込もうとした濁流が、カイの生み出した蒼い氷の防壁に激突する。

圧倒的な水の質量が、壁にあたり、真っ二つに割れる。

カイは片腕でリリアンを抱きしめたまま、もう片方の手を突き出し、涼しい顔で激流を逸らしている。


砕け散る水飛沫の中、銀髪を濡らしたカイの紫眼が、リリアンを見下ろす。


「怪我はないか」


「……大丈夫。でも、下流にまだ働いている人たちが!」


「カイ! 壁の下を見て! 水が噴き出している三箇所! 水の通り道を――氷で、三箇所同時に、封じて!」


カイは一瞬だけリリアンを見て、頷いた。


凄まじい蒼光が、広場から目の前の壁の根元へ向かって、三条の軌跡を描いた。


巨大な氷の塊が――一つ、二つ、三つ――壁の下流面に叩きつけられ、噴出する濁水を瞬時に凍結させた。


水の出口が、分厚い氷で封鎖される。


渓谷全体が震えた。


水の道が――塞がれた。


周囲の水位も、徐々に下がってくる。


だが、ゼファニウスが再度、ダムの壁に向けて印を結ぶのが見えた。


(また壁を壊す気だ……! 壁の裏に溜まっている水が減らない限り、ゼファニウスに武器として使われてしまう……!)


「ダムの水を……逸らす!」


リリアンは、迷わずカイの腕と――結界から飛び出した。


腰まである水を、かき分けながら進む。


「リリアン!」


カイの声が追いかけてきた。だがリリアンは、無我夢中で進んだ。


壁の右端に、大量の水を脇へ安全に逃がすための放水路がある。


操作台へ続く鉄階段を上り、水門の操作装置の前に立った。鉄製の巨大なハンドルは、錆びて動かない。


リリアンは、両手をハンドルの根元――錆びついた台座に押し当てた。


——スキル、「土いじり」。


ふわりと、微かな大地の色のオーラが立ち上る。


土と石を微細に動かす力を、錆びた鉄――大地に含まれる成分でもある――に応用する。長年の固着が、少しずつ緩んでいく。


ギリ、と。ハンドルが動いた。


全身の力を込めて回す。一回転。二回転。


水門が――開いた。


轟音とともに、脇の放水路から水が奔流した。白い飛沫が虹を描きながら、進んでいく。


カイの氷が水の道を封じ、リリアンの放水が水量を減らす。


ゼファニウスが追撃の魔法を放ったが、水の勢いはすでに武器となるほどではない。


壁の裂け目から流れていた水が——完全に、止まった。リリアンは水門の傍にへたり込んだ。


広場に、蒼い光が閃いた。


カイが放った青い光が、牢となってゼファニウスと神官たちを捉えた。


そして、氷の階段を次々と生み出しながら――一瞬で、リリアンの前まで、駆け上がった。


濡れた銀髪が、水飛沫で額に張り付いている。紫水晶の瞳が——今まで見たことがないほどの熱を帯びていた。


「怪我は」


「……ない」


カイが、リリアンを、ぶつかるような強さで抱きしめた。


「——勝手に、飛び出すな」


「だって……下流に何百人もいるのに――」


「……あなたは、どこまでも女王だな」


カイの声が、微かに震えた。


「俺は、皇帝失格だ。貴方以外に関心を持てない……呪いだ」


リリアンは、言葉を失った。


人の気持ちが分からないと言われ続けた人。共鳴の鏡を持たない人。


――その人が。


誰よりも不器用に、誰よりも真っ直ぐに、たった一人の人間の無事だけを、全身で確かめていた。


「呪いなんかじゃない……その力があるから、皆助かった」


泣きそうになった。今は泣いている場合じゃないのに。


リリアンは――はじめて自分から、カイの肩に手を伸ばした。


小さな少年のような皇帝を、リリアンの腕が包む。少しでも、カイを温めたかった。



「二段構えの罠も、効かぬとは」


青く光る牢から、ゼファニウスの声が響いた。


ゼファニウスに、微笑みは――もう、なかった。


「ところで、まだお耳に届いておりませんでしたか」


穏やかなゼファニウスの声が、風に乗って渓谷に響いた。


「今朝方、帝都の議会が緊急決議を可決いたしました。陛下の長期不在に伴う、臨時統治権の移譲——摂政の設置でございます」


カイの顔から、一切の表情が消えた。


「摂政には、大聖堂の推薦により、議長グスタフ殿が就任されました。……陛下が帝都をお留守にされている間――帝国は、私どもの手の中でございます」


リリアンは、カイの拳が白く震えているのを見た。


(二重三重の……罠、だった? 最初から、カイを王都から引き離すための――!)

コンテスト用のため、一度こちらで、更新停止となります。

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