罠
「あの規模の治水施設は大陸でも類を見ないと聞いています。各国の治水事業の参考にもなるかと」
リリアンの思い付きに、各国の代表が顔を見合わせる。
「――よろしければ、ご案内いたしましょう」
ゼファニウスの穏やかな声が割り込んだ。
「神殿も、あの工事には少なからず関わっております。現場の者たちにも話は通せましょう」
リリアンは、カイの方をちらりと見た。
カイの唇の端が、ほんの少しだけ上がった。
「いいだろう。ただし――俺はリリアンの傍を離れない」
*
大陸中央ダムの建設現場は、圧巻だった。
赤褐色の渓谷を、巨大なダムの壁が横断し、水をせき止めている。高さはざっと六十メートル。
ひとしきりダムの壁の上から貯水池を見下ろしたあと――リリアンたちは、渓谷の底、ダムの壁を見上げる位置にある、水位観測所前の広場にいた。
壁の向こう側――上流には、先ほど見下ろした、空の青を映すほどの大量の水が溜まっている。
もしこの壁が決壊すれば、真下にいる自分たち代表団はもちろん、下流で働く数百人の作業員と、その先にある二つの集落が呑まれることになる。
「すごい……」
リリアンは広場の手すりに駆け寄り、そびえ立つ壁を見上げた。夢中だった。
だが——リリアンの目が、壁の下部に留まった。
土台と岩盤が接する部分が、濡れている。
壁の裏にあれだけの水を溜めているのだから、わずかな漏れは仕方がない。問題は、その処理だ。
こうした壁を建てる時は、土台の岩盤にある隙間を事前に埋めておく。岩の割れ目にセメントのような素材を注入して、水の通り道を塞いでおくのが基本だ。――それが不十分だと、長い時間をかけて水が岩の内部に浸み込み、少しずつ「水の道」ができてしまう。やがてその道が広がり、土台を内側から食い破っていく。
(あの濡れ方は……隙間の処理が甘い? この規模の水が押し続けたら……)
不安がよぎった。だが、これはフォルトリス公国の事業だ。黙っているつもりはないが、うまく話さないと国家間の問題になる。
リリアンは一つ息をついた。
リリアンのすぐ隣に、カイが立っていた。銀色の髪が風に流れ、紫水晶の瞳が、静かに巨大な壁を見上げている。
ゼファニウスが神官たちを引き連れ、カイに歩み寄った。白い法衣が風にはためく。
「……陛下」
ゼファニウスの声は穏やかだった。まるで庭園を散歩しながらの世間話のように。
「王都の方は、ご心配には及びません。私どもが、しっかりとお守りしておりますゆえ」
ゼファニウスの微笑みが、一段、深くなった。
リリアンの肌が、なぜか粟立った。
風が、止んだ。
渓谷を吹き抜けていた乾いた風が、不自然に凪いだ。広場を囲む旗が、だらりと垂れ下がる。
気づいた時には、遅かった。
ゼファニウスの組まれた両手が――わずかに動いた。ほんの些細な仕草。
次の瞬間。
見えない波が、広場を中心に広がった。
心臓を、巨大な掌に鷲掴みにされた感覚。
全身の筋肉が硬直する。呼吸が浅くなる。視界がぼやけ、頭の中に、一つの感情だけが流し込まれてくる。
(この人に逆らってはいけない。この人の言葉に従わなければならない。この人こそが正しく、この人こそが――)
リリアンの右肩の上で、フェイが必死に両方の前脚を広げ、淡い光を放った。守護妖精の力が、異物のような感情を少しだけ和らげる。
(違う……! これは、私の心じゃ、ない……!)
頭では分かる。だが、体が動かない。
広場を、視線だけで見回す。
ミラ王国の代表が、手すりに掴まったまま膝から崩れていた。近衛騎士たちの手が、剣の柄から離れ、だらりと垂れていた。
――そのとき。
靴が、石畳を踏む音がした。
カイが――立っていた。
他の全員が膝を折りかける中で、カイだけが、背筋を伸ばしたまま立っていた。
銀色の髪が揺れている――いや、風は止んでいたはずだ。カイの体から発する淡い蒼光が、大気を震わせていた。
冷徹な紫眼が、ゼファニウスを、正面から射抜いた。
「……効かぬ、と?」
ゼファニウスの顔から、初めて――微笑みが消えた。
「人間の心には——他者の感情に、自動的に共鳴する鏡がある」
カイは、淡々と告げた。声に感情はない。ただ、事実だけを述べるように。
一歩、ゼファニウスに向かって踏み出した。
「悲しむ人を見れば、胸が痛む。笑う人を見れば、安心する。――あなたのスキルは、その鏡に介入し、服従を注ぎ込むものだ」
もう一歩。蒼光が、強くなった。
「だが」
カイの紫水晶の瞳が、ゼファニウスの目を真正面から捉えた。
「俺の心には、その鏡が、最初から、存在しない」
ああ、とリリアンはひとりごちる。
人の表情が読めない。場の空気が掴めない。感情の機微が分からない。
――それが、カイの「呪い」と呼ばれた理由だった。
「存在しない鏡は、どれほどの力で叩いても、開かない」
ゼファニウスの目が、見開かれた。
「……呪われし血め」
ゼファニウスが両手を組み直した。爪が、掌に食い込んでいるのが見えた。
「まさか、ここまでとは」
「呪い、か」
カイの昏い声と共に、外套が翻った。
その瞬間――カイの全身から、紫がかった蒼い光が、静かに溢れ出した。
ガラスが割れるような、繊細で鋭い音が連鎖した。
広場を覆っていた、目に見えない服従の糸が、カイの蒼光に触れるたびに凍りつき、微細な氷の欠片となって砕け散っていく。
一本。また一本。
水飛沫と陽光の中を、無数の氷の破片が舞い散った。一つひとつが淡い光を帯びて、広場全体をきらきらと照らし出す。
ミラ王国の代表が、はっと顔を上げた。体の自由を取り戻している。
近衛騎士たちが呆然と手足を確かめ、剣を握り直す。
「最近は、呪いにすら感謝している……呪いが無ければ、出会えなかった」
カイが、リリアンを見た。
リリアンの胸を締め付けていた不快な感覚は、嘘のように、消えていた。
肩の上で、フェイが体を起こし、ぴょんと跳ねた。
カイの背中を、リリアンは見つめた。
蒼い光を纏い、月光を映す銀の髪を風に流し、たった一人で、全員の鎖を砕いた背中。
呪いだと蔑まれた特性が。誰にも理解されなかった孤独が。——今この瞬間、この場にいる全員を、救った。
(カイ――)
――だが。
安堵は、一瞬で消し飛んだ。
「手荒な真似は、したくないのですが……精神操作での会議支配をできぬとなれば、取るべき道はひとつ」
ゼファニウスの淡白な声。ゼファニウスの右手が、わずかに動いた。袖の下で、指が一本だけ立てられた。
――合図だった。
広場の端に控えていた白い法衣の神官三人が同時に、目の前にそびえるダムに向かって掌を突き出した。
三条の光が、ダムの壁に突き刺さった。
――リリアンが先ほど、水の滲みを確認した、まさにその箇所に。
轟音。
壁から、ダムの水が爆発的に噴き出した。岩盤の中に浸み込んでいた水が、スキルの衝撃で一気に「道」を広げた。内側から岩が崩れ、水に押されて土台が抉られていく。
(もともと弱かった箇所を、狙って壊した……!)
壁の下流面に、蜘蛛の巣状の亀裂が広がっていく。コンクリートが、内部から食い破られている。
(精神支配が効かなかったから……下流にいる私たちごと、ダムを決壊させて殺す気だ。「視察中の事故」として処理するつもり……!)
そして、噴き出した膨大な濁流が、牙を剥いて下流の広場へと迫ってきた。
各国の代表たちが悲鳴を上げる中、リリアンの視界にも、轟音を立てて水の壁が押し寄せる。
(逃げ道は……ない!)
「リリアン!」
鋭い声とともに、強引な力で腕を引かれた。
次の瞬間、カイの腕がリリアンを強く抱き寄せる。氷の結界が、カイとリリアンと、そして代表団を覆うように、瞬時に隆起した。
広場を呑み込もうとした濁流が、カイの生み出した蒼い氷の防壁に激突する。
圧倒的な水の質量が、壁にあたり、真っ二つに割れる。
カイは片腕でリリアンを抱きしめたまま、もう片方の手を突き出し、涼しい顔で激流を逸らしている。
砕け散る水飛沫の中、銀髪を濡らしたカイの紫眼が、リリアンを見下ろす。
「怪我はないか」
「……大丈夫。でも、下流にまだ働いている人たちが!」
「カイ! 壁の下を見て! 水が噴き出している三箇所! 水の通り道を――氷で、三箇所同時に、封じて!」
カイは一瞬だけリリアンを見て、頷いた。
凄まじい蒼光が、広場から目の前の壁の根元へ向かって、三条の軌跡を描いた。
巨大な氷の塊が――一つ、二つ、三つ――壁の下流面に叩きつけられ、噴出する濁水を瞬時に凍結させた。
水の出口が、分厚い氷で封鎖される。
渓谷全体が震えた。
水の道が――塞がれた。
周囲の水位も、徐々に下がってくる。
だが、ゼファニウスが再度、ダムの壁に向けて印を結ぶのが見えた。
(また壁を壊す気だ……! 壁の裏に溜まっている水が減らない限り、ゼファニウスに武器として使われてしまう……!)
「ダムの水を……逸らす!」
リリアンは、迷わずカイの腕と――結界から飛び出した。
腰まである水を、かき分けながら進む。
「リリアン!」
カイの声が追いかけてきた。だがリリアンは、無我夢中で進んだ。
壁の右端に、大量の水を脇へ安全に逃がすための放水路がある。
操作台へ続く鉄階段を上り、水門の操作装置の前に立った。鉄製の巨大なハンドルは、錆びて動かない。
リリアンは、両手をハンドルの根元――錆びついた台座に押し当てた。
——スキル、「土いじり」。
ふわりと、微かな大地の色のオーラが立ち上る。
土と石を微細に動かす力を、錆びた鉄――大地に含まれる成分でもある――に応用する。長年の固着が、少しずつ緩んでいく。
ギリ、と。ハンドルが動いた。
全身の力を込めて回す。一回転。二回転。
水門が――開いた。
轟音とともに、脇の放水路から水が奔流した。白い飛沫が虹を描きながら、進んでいく。
カイの氷が水の道を封じ、リリアンの放水が水量を減らす。
ゼファニウスが追撃の魔法を放ったが、水の勢いはすでに武器となるほどではない。
壁の裂け目から流れていた水が——完全に、止まった。リリアンは水門の傍にへたり込んだ。
広場に、蒼い光が閃いた。
カイが放った青い光が、牢となってゼファニウスと神官たちを捉えた。
そして、氷の階段を次々と生み出しながら――一瞬で、リリアンの前まで、駆け上がった。
濡れた銀髪が、水飛沫で額に張り付いている。紫水晶の瞳が——今まで見たことがないほどの熱を帯びていた。
「怪我は」
「……ない」
カイが、リリアンを、ぶつかるような強さで抱きしめた。
「——勝手に、飛び出すな」
「だって……下流に何百人もいるのに――」
「……あなたは、どこまでも女王だな」
カイの声が、微かに震えた。
「俺は、皇帝失格だ。貴方以外に関心を持てない……呪いだ」
リリアンは、言葉を失った。
人の気持ちが分からないと言われ続けた人。共鳴の鏡を持たない人。
――その人が。
誰よりも不器用に、誰よりも真っ直ぐに、たった一人の人間の無事だけを、全身で確かめていた。
「呪いなんかじゃない……その力があるから、皆助かった」
泣きそうになった。今は泣いている場合じゃないのに。
リリアンは――はじめて自分から、カイの肩に手を伸ばした。
小さな少年のような皇帝を、リリアンの腕が包む。少しでも、カイを温めたかった。
*
「二段構えの罠も、効かぬとは」
青く光る牢から、ゼファニウスの声が響いた。
ゼファニウスに、微笑みは――もう、なかった。
「ところで、まだお耳に届いておりませんでしたか」
穏やかなゼファニウスの声が、風に乗って渓谷に響いた。
「今朝方、帝都の議会が緊急決議を可決いたしました。陛下の長期不在に伴う、臨時統治権の移譲——摂政の設置でございます」
カイの顔から、一切の表情が消えた。
「摂政には、大聖堂の推薦により、議長グスタフ殿が就任されました。……陛下が帝都をお留守にされている間――帝国は、私どもの手の中でございます」
リリアンは、カイの拳が白く震えているのを見た。
(二重三重の……罠、だった? 最初から、カイを王都から引き離すための――!)
コンテスト用のため、一度こちらで、更新停止となります。




