罠
「リリアン・アークライトと申します。総監、とお呼びください」
「はは、これはこれは」
ゼファニウスの、老いてなお端正な笑顔。
ゼファニウスは微笑んだまま——あまりにもさりげなく——言葉を続けた。
「……陛下も。お元気そうで何よりでございます——王都の方は、ご心配には及びません。私どもが、しっかりと、お守りしておりますゆえ」
ゼファニウスの笑みが、一段、深くなった。
リリアンの肌が、ざわりと粟立つ。
ゼファニウスの、組まれた両手の指先が、わずかに動いた——蜘蛛が糸を紡ぐような、ほんの些細な仕草。
次の瞬間。
見えない波動が、円卓を中心に同心円状に広がった。
(——なに、これ……ゼファニウスの、スキル?!)
心臓を、巨大な掌に鷲掴みにされたような圧迫感。全身の筋肉が一斉に硬直する。
(この人に逆らってはいけない。この人の言葉に従わなければならない。この人こそが正しく、この人こそが世界の秩序そのものであり——)
リリアンの肩の上で、フェイが必死に両方の前脚を広げ、ゼファニウスのスキルに対抗しようとする。淡い光が、リリアンを包む。
(違う……! これは、私の感情じゃ、ない……!)
リリアンの精神は必死に抵抗するが、体が動かない。
円卓の周囲を、視線だけで見回す。
フォルトリス代表が、椅子の背もたれに押し潰されるように沈み込んでいた。各国の使節たちの顔が蒼白に変わり、誰もがゼファニウスから目を逸らせなくなっている。ミラ王国のヴェルナー侯爵でさえ、額に脂汗を浮かべ、組んだ指の関節を白くしていた。
(スキル……『威容』……! 周囲の人間に服従の感情を——直接、脳に流し込む類の——)
ゼファニウスは微笑んだまま、円卓の全員を見渡した。まるで、庭園の花を愛でる園丁のように穏やかな目で。
「さて――議論を始めましょう」
その時。
リリアンの隣で——椅子の軋む、小さな音がした。
カイが、立ち上がっていた。
——静かに。何の感慨もないように。朝食の席から立ち上がるのと、全く同じ動作で。
銀色の髪が、ステンドグラスから降り注ぐ七色の光を受けて、色とりどりに輝いている。紫水晶の瞳は、凍てついた冬の湖面のように澄み切り——ゼファニウスを、正面から見据えていた。
「……効かぬ、と?」
ゼファニウスの顔から、初めて——微笑が消えた。
カイは、淡々と答えた。
「俺は、他者の感情に自動的に共鳴する回路を持っていない」
その声は、会議場の沈黙の中に、刃のように落ちた。
「神官殿のスキルは、その回路を経由して、対象者の脳に服従を注入する仕組みだろう」
カイが、一歩、ゼファニウスに向かって歩を進めた。
「だが——俺の脳には、その回路が、存在しない」
カイの紫水晶の瞳が、ゼファニウスの目を、真正面から射抜いた。
「……呪われし血、と聞いてはおりましたが」
ゼファニウスが、両手の指を組み直した。爪が掌に食い込んでいるのが見えた。
「まさか……ここまでとは」
「呪い、か」
カイの表情が曇り、カイの外套が翻った。その動作に合わせて、カイの全身から——淡い紫の光が、静かに滲み出した。
ガラスが割れるような、繊細で鋭い音が連鎖した。一本、また一本。会議場を蜘蛛の巣のように覆っていた服従の糸が、カイの蒼光に触れるたびに結晶化し、微細な氷の欠片となって虚空に散っていく。
——砕けていく。
七色のステンドグラスの光の中を、無数の氷の破片が舞い散った。一つひとつが燐光を帯びて、会議場全体をきらきらと照らし出す。
フォルトリス代表が、はっと顔を上げた。体の自由を取り戻している。各国の使節たちが、次々と呪縛から解放され、呆然と自分の手足を確かめた。近衛騎士たちが、剣を握り直す。
リリアンの胸の奥を締め付けていた、不快な感覚も——嘘のように消えていた。
肩の上で、フェイが体を起こし、ぴょんと跳ねた。
(……カイが、全員を解放してくれた)
喉が詰まった。視界が滲んだ。唇が、勝手に動いた。
「——言ったでしょう」
リリアンの声が、震えながらこぼれ落ちた。
「呪いではなく……力だ、と」
カイは振り返り、目を丸くした。
そしてカイは、熱を帯びた瞳で微笑んだ。
*
「ところで、まだお耳に届いておりませんでしたか」
ゼファニウスが再度、優雅に両手を組んだ。ゼファニウスの顔に、微笑みは、戻らない。
「今朝方、帝都の議会が、緊急決議を可決いたしました。皇帝陛下は我が国のみならず、隣国への介入でお忙しいご様子。長期不在に伴う臨時統治権の移譲——摂政の設置でございます」
カイの顔から、一切の表情が消えた。
「摂政の任には、大聖堂の推薦により、議長グスタフ殿が就任されました。……陛下が帝都をお留守にされている間、帝国は、私どもの手の中でございます」
リリアンは、カイの拳が白く震えているのを見た。
(二段構えの――罠?! 最初から——カイを、政治の中枢から引き離すための――)
コンテスト用のため、一度こちらで、更新停止となります。




