星空のキス
「特権神官が黒幕で、ミラ王国の現政権は傀儡ということね。アークライトの力を脅威に感じ、調べるうちにアッシュの正体に気づいたのかしら」
「だろうな。……帝国正規軍を動かせば、神殿を制圧できる。同時にミラ国境に圧力をかければ、すぐに――」
カイの声が、鋼のように響いた。
「待って、カ……陛下。武力では、根本的な解決にならない」
「なぜだ。敵は卑怯な手段で、アークライトを殺しにきている」
「……特権神官の影響力は帝国中に張り巡らされている。民衆の中には、神官の教えを心から信じる者も多い。力で押さえつければ、内戦になる。それに……帝国がミラ王国の内政に介入すれば、不要な反発を有む」
カイの眉が、深く寄せられた。
「では、どうする」
「世論を味方につければ、神官たちは自壊する。地道に外交努力を重ねて……」
「時間がかかりすぎる。待っている間に、貴方が危険に——」
「私の安全より、何万人もの命のほうが重い」
カイが椅子の肘掛けを、強く握りしめた。
「……未来の皇后を失うリスクを、俺は許容できない」
カイの声が、掠れた。
*
深夜。
アークライトとミラ王国の将来を決める会議が終わり、幹部たちが退出した。
アッシュとギデオンも壮年の騎士に促され、別室に移るようだった。
出ていこうとするリリアンを、カイが目線で呼び止めた。
会議室に、二人きり。
カイは、窓から差し込む月光の中に立っていた。銀色の髪が淡く輝いている。
「……俺は、感情を言語化するのが得意ではない。貴方も知っている通りだ」
「知ってる」
「だが、一つだけ、確かに分かっていることがある」
カイが、一歩、リリアンに近づいた。
「貴方がいない世界は、俺にとって、意味を持たない」
リリアンの鼓動が、跳ね上がった。
「帝国の半分を差し出しても、貴方の指先一本の安全と等価にならない。女王でなくていい、為政者でなくていい。ただ、俺と笑っていて欲しい。……俺のこの感情を、何と呼べばいい? リリアン、教えてくれ」
リリアンの視界が、涙で滲んでくる。
愛されることを、諦めていた。幼い頃に父に捨てられて以来、誰かに必要とされるために、ずっと走り続けてきた。有能でなければ、居場所を得られないと信じていた。
なのに、目の前の不器用な皇帝は——リリアンの能力ではなく、リリアンの存在そのものを、世界と天秤にかけている。
「……愛、じゃ、ないかな」
リリアンが、小さく答えた。
カイの手が伸びた。冷たい指先が、リリアンの頬を伝う涙を拭う。
「また、泣かせたな」
「嬉し、くて。……ずっと、欲しかった言葉かもしれない」
カイの手が、リリアンの頬からゆっくりと顎へ滑った。リリアンの顔を上向かせる。
月明かりの中、二つの瞳が交わった。
「……リリアン。もっと近くに君を感じたい……いいか」
不器用な許可の求め方に、リリアンは小さく笑った。紫水晶の瞳が、至近距離で揺れる。
「……来て」
リリアンは、静かに目を閉じる。
カイの唇が、リリアンの唇に重なった。
唇に、柔らかな熱。その熱さが、全身に広がっていく。カイの大きな手がリリアンの背に回され、壊れ物を扱うように、優しく抱き寄せた。もう片方の手が、リリアンの頭の後ろに回った。カイの指が、リリアンの髪を梳く。
熱い吐息が、交じり合う。
唇の角度が、僅かに変わる。
より深く、より甘く。
長い口づけが終わった後も、カイはリリアンを腕の中から放さなかった。
「……この温度を、記録したい。二度と忘れないために」
「……私たち二人が覚えていれば、きっと永遠になる」
カイの耳が、暗がりの中でも分かるほど赤く染まった。
*
翌朝。
リリアンは日の出前に目を覚まし、執務机に向かっていた。昨夜の余韻が、まだ唇に残っている。頬の温度が下がらない。
(……集中しなさい、リリアン・アークライト。アークライトの命運がかかっている)
自分に叱咤し、羊皮紙の上に外交戦略の骨子を書き出していく。
一、ギデオンの文書と疫病の証拠を体系化し、検証可能な報告書を作成する。
二、ミラ王国に対しては、アッシュの身柄ではなく貿易協定を交渉材料にする。
三、中立国・フォルトリスに調停を依頼し、多国間の場で神官の不正を暴く。
武力ではなく、情報と経済と外交で、戦う。
「早いな」
扉が開き、カイが入ってきた。
「……カイこそ。眠れた?」
「君が同じ建物のなかにいると思うと……いや、三時間程度で十分なんだ。……策を聞かせろ」
リリアンは書き上げた戦略書を、カイの前に広げた。カイの紫水晶目が、恐ろしい速度で文字を走査していく。
「第二項。ミラ王国への貿易交渉は、相手が傀儡政権である以上、実効性が低い」
「だから第三項が要る。多国間の調停の場で証拠を開示すれば、ミラ王国は国際的に孤立する」
「……時間軸の問題だ。貴方の計算では、何日かかる」
「三十日」
「三十日。……待っている間、特権神官が黙って見ていると? 暗殺者を送り込む確率は、日を追うごとに上昇する。リリアン。俺は——」
「分かってる。あなたは軍を動かしたい。それが、私を守るためであることも」
「では、何故」
「他国に介入すれば、カイへの反発が増す。それに、力で押さえつけた秩序は、あなたがいなくなった瞬間に崩壊する。……個人の力に依存したシステムは、必ず破綻する。あなた自身も、知っているはず」
カイが、息を呑んだ。
「……俺は、殺しても死なない皇帝として有名だが。リリアンは、俺を心配するのだな」
どこか嬉しそうなカイに、リリアンはあえて、少し論点をズラして答えた。
「その理屈が通るなら、私だって死なないって言うわよ?」
カイは長く息を吐き出した。銀色の前髪の向こうで、紫水晶の瞳が揺れている。
「三十日だ。三十日だけ、貴方のやり方に賭ける。……だが、条件がある」
「何?」
「貴方の傍を、一瞬たりとも離れない。俺自身が、貴方の盾になる」
「皇帝が、一臣民の護衛をするなんて——」
「臣民ではない。俺の、唯一だ」
リリアンは言葉に詰まった。カイの目は真剣だった。
「……ご随意に」
*
十日が経った。
リリアンの外交戦略は、着実に成果を見せ始めていた。
帝国議会の穏健派議員三名が、非公式にアークライトを訪問。ギデオンの文書と疫病の報告書を精査した後、帝国内での特権神官の権限縮小が、帝国議会に提出された。
ミラ王国に対しては、カイの名のもとに正式な外交使節を派遣。「ミラ王家の正統な血筋の保護」という名目で、帝国の立場を表明した。
だが。
「総監。緊急の報告です」
アッシュが、蒼白な顔で執務室に駆け込んできた。
「使節団が、途中で襲撃された」
「! 負傷者は」
「全員、無事だ。……問題は、襲撃者の遺体から回収された装備品に、ミラ王国の軍章と、神殿の護符が同時に見つかった点だ。……連中、もう隠す気がない」
リリアンの拳が、白くなるまで握り締められた。
(証拠を積み上げる前に、外交経路自体を物理的に断ちにきた。……想定より、動きが早い)
「特権神官は、リリアンの外交攻勢が効き始めていると認識した。だからこそ、証拠が国際社会に届く前に、物理的に阻止しようとしている」
カイが、静かに背後から声をかけた。
「分かってる。でも——」
「リリアン。……君を傷つけたくない」
カイは外套を翻し、窓辺に立った。銀色の髪が逆光に輝く。
「……約束通り、先制攻撃はしない。30日間は。……貴方の外交の、時間を稼ぐ。近衛騎士団に命令を出す。アークライトの上空と周辺三十キロに、飛竜による哨戒網を敷く。同時に、使節団の護衛強化」
「カイ……あの約束、守ってくれるのね」
リリアンは、ふっと力を抜いた。
(カイが盾となってくれている間に、私が対話を進める……流れる血は、少なくて済む)
「心強いわ、カイ」
「礼には及ばない。……皇后を守れない皇帝に、存在価値はない」
「結婚の話はまだ、承諾してない」
「俺達は良い仲間になれると思うが……運命共同体と言い換えてもいい」
リリアンは答えず、困ったような笑みを浮かべた。
*
二十日目。
フォルトリスの調停会議の日程が、正式に確定した。場所は中立地帯であるフォルトリスの大会議場。出席者は、フォルトリス代表、アドラー帝国代表、ミラ王国、そして——帝国神殿・特権神官の代表。
リリアンは、自らが帝国代表団の一員としてフォルトリスに赴く決断を下した。
「俺も行く」
カイの一言に、議論の余地はなかった。
出発の朝。リリアンはアークライトの正門に立ち、見送りの人々に向き合った。フェイがリリアンの肩の上で、不安そうに丸くなっている。
「ギデオン。アークライトを、頼むね」
「……当たり前やろ。とっとと帰ってこいや。帰ってこんかったら、迎えに行くからな」
ギデオンの赤髪が、朝日に燃えた。
「アッシュ」
リリアンは、空色の瞳を見上げた。
「姉さん」
アッシュの声が、震えた。
「俺も……一緒に行くべきだ。俺のせいなのに」
「あなたが王子に生まれたのは、あなたのせいじゃないでしょう。それに、あなたが会議場に姿を見せたら、ミラ王国に身柄引き渡しの口実を与えてしまう。ここで待っていて」
「……分かって、る。分かってるけど……」
アッシュが、唇を噛んだ。
リリアンはアッシュの頭にそっと手を伸ばし、ブロンドの髪を撫でた。
「必ず、いい感じに全員説き伏せて帰ってくる。約束するわ」
「……約束だからね? 絶対だからね?」
カイが飛竜の背に跨り、リリアンに手を差し出した。リリアンはカイの手を取り、鞍上に引き上げられた。背中がカイの広い胸に触れる。外套がリリアンを包み込むように広がった。
「……温かいな。離れがたい」
「……近い」
「リリアンが落ちたら、困るだろう」
背中越しのカイが、笑ったようだった。カイの腕がリリアンの腰に回され、強く強く抱きすくめられる。
飛竜が翼を広げた。熱風が砂塵を巻き上げる。
塀の上――アークライトの緑の旗が、風に翻った。
*
フォルトリスの大会議場は、白い大理石と硝子で構築された荘厳な建造物だった。天井のステンドグラスから差し込む七色の光が、円卓を囲む各国の代表団を照らしている。
リリアンは帝国代表団の席に着き、正面のミラ王国代表団を見据えた。
ミラ側の筆頭は、外務卿のヴェルナー侯爵。四十代の痩せた男で、鷹のように鋭い目つき。背後に騎士たちが控えている。
そして——円卓の最奥、特権神官代表の席に。
リリアンの全身に、衝撃が走った。
白い法衣。金の刺繍。柔和な微笑み。
「お久しぶりでございます、エヴァンス嬢」
七年前。あの神殿で。十歳のリリアンの運命を宣告した、あの声の持ち主。
——『リリアン・エヴァンス。汝に授けられしスキルは……「土いじり」である』
大神官ゼファニウスが、得体の知れない笑みを浮かべていた。




