蠢く影
「7年前とは、情勢も変わっております、共に王国へ戻りましょう。護衛騎士は、何処に?」
「ち、違う、俺は、王子なんかじゃ」
「そうです、何かの間違いです。アッシュは、私の補佐官です。アークライトに必要な存在です。勝手に連れて行くというのなら、アークライトと事を構えることになりますよ」
リリアンは必死だった。アークライトの自警団など、ミラ王国の騎士団には束になっても勝てないけれど……経済戦争なら? 勝ち目とまではいかなくても、交渉の余地があるのではないか? 最近の、ミラ王国との取引きは……
「姉さ……総監。お止めください」
アッシュは、血の気の失せた顔で、私を見た。 その瞳は、子供のように揺れていた。
7年前、美少女にしか見えなかったアッシュも、時々こんな不安な目をしていた。
(あんなやせ細った、可愛いかった子が、隣国から逃げてきた王子様のはずが)
――本当に?
脳裏に、記憶の断片が、激しく明滅する。
(アッシュに最初に会った時……私は、なんと思った?)
この辺境に咲く一輪の花のようだと……。 土埃にまみれていても隠せない、こんな場所にはそぐわない、美しすぎる少女だと、思ったのでは、なかったか。
――アッシュは、出会った最初から、文字が読めた。
――アッシュは、井戸を作るための滑車や、水脈の理論を、すんなりと理解できた。
――アッシュは、異様に、剣術が強かった。洗練された、無駄のない動き。 ……まるで、正式な訓練を、受けたことが、あるかのように。
埋めたくないパズルのピースが、次々に埋まっていく。
なぜ、今まで、気づかなかった? いや、違う。 気づかないふりを、していた?
――リリアンにとって、アッシュは、アッシュであれば、それで、十分だったから。
(認めたくない)
リリアンの知らない、アッシュの過去が、今、大切な『弟』を、……アークライトから、リリアンの前から、奪おうとしている。
(こんな大事な時に、ギデオンはどこにいるの? 兄なのに……いや、本当に、二人は兄弟なの? 私が7年間、信じてきた二人は……誰?)
「アッシュ、お願い」
リリアンの唇から、掠れた声が、漏れた。
「本当のことだけ、教えて」
*
「本当のこと、か」
アッシュの声から、いつもの明るさが消えていた。
「……俺の本当の名前は、アリシオン・エル・ミラ。七年前に滅んだ王家の、最後の血筋だ」
執務室の空気が、氷のように凍りついた。
リリアンの隣で、カイが微かに目を細めた。
「九歳の冬、王宮が燃えた。父も母も、一晩で灰になった。クーデターだった。残ったのは、俺と——」
扉が勢いよく開かれた。
「——俺だけや」
ギデオンが、肩で息をしながら執務室に飛び込んできた。赤髪の青年の顔には、リリアンが見たことのない、真剣な色が浮かんでいた。
「ギデオン……」
「俺はギルバート・ファラス。ミラ王家騎士団所属。……王子を守って国境を越えたのが七年前。兄弟やない。ずっと嘘ついとった。……堪忍、な」
ギデオンは深く頭を下げた。広い背中が震えていた。
七年間。あの井戸を一緒に掘った。麦畑の金色を一緒に見上げた。疫病と戦った。
全ての記憶の中にいるギデオンとアッシュは、リリアンの知らない名前を持ち、リリアンの知らない過去を隠していた。
(信じていた。何も疑わずに)
「……怒ってる?」
アッシュの声が、掠れていた。
リリアンは唇を引き結び、まっすぐにアッシュを見た。
「怒ってない。ただ、勝手を言わせてもらえるなら……、一緒に背負いたかった」
正直な感情だった。嘘をつかれていたよりも、二人が七年もの間、たった二人だけで過去の恐怖を抱えていた事実に、胸を締め付けられた。
アッシュの瞳に、涙が滲んだ。唇を噛み、必死に堪えている。
「姉さんだけは……巻き込みたくないし、もしも打ち明けて距離を置かれたらって……」
「馬鹿ね。王子でも平民でも、あなたはアッシュよ。私の大切な——」
リリアンの言葉を、壮年の騎士が遮った。
「……本題に入らせて頂いてよろしいでしょうか。王子殿下、王国は、あなたの帰還を求めております」
「帰還……? 七年前に俺を殺そうとした連中の元へ?」
アッシュの声が、一段低くなった。
「現王ヴァルター陛下は、先代の過ちを認め、王家の正統な血筋を迎え入れたいと仰せです」
「嘘だな」
短い断言は、カイのものだった。
皇帝の瞳が、騎士の顔面を射抜いた。
「七年間、一度も捜索を出さなかった国が、今になって正統な血筋を必要とする。あまりにも不自然だ。何があった」
ローランドの表情が、僅かに強張った。
「……お答えする義務は」
「ある」
カイが一歩、前に出た。室内の温度が、二度下がったような錯覚。
「ここはアドラー帝国の臨時首都だ。帝国領内で他国の軍事行動は、条約違反に該当する。……理由を即刻開示するか、不法侵入として拘束されるか。選べ」
騎士の額に、汗が浮かんだ。
静寂を破ったのは、ギデオンだった。
「――一度、アークライトの関係者だけで、お話して、ええでしょうか?」
*
「リリィ。一つ、ずっと伝えなあかんかったことがある」
ミラ王国の騎士が退室するや否や、ギデオンが、懐から一枚の焦げた羊皮紙を取り出した。
「王宮が燃えた夜、反乱軍の天幕から盗んだ文書や。……七年間、肌身離さず持っとった」
ギデオンが広げた羊皮紙に、リリアンの視線が吸い寄せられた。
古い血の染みと煤に汚れた紙面に、二つの紋章が並んで押されている。
一つは、ミラ王国の反乱軍の鷹の紋。
もう一つは——双頭の鷲が太陽を抱く、紋章。
「帝都神殿……特権神官の、紋章」
リリアンの唇から、震える声が漏れた。
「ミラ王家を滅ぼしたクーデターの裏に、帝国の特権神官がおった。武器の供給、反乱軍への資金援助……全部、神殿の差し金や」
ギデオンの声が、低く室内に響いた。
「なんで、特権神官がミラ王家を……?」
「ミラ王家は代々、スキルに頼らない統治を志向しとった。農業も軍事も、個人の才能やなくて、組織の力で回す国づくり。……リリィがアークライトでやってることと、そっくりな」
リリアンの血が、ざわりと逆流した。
特権神官にとって、スキルこそが神の祝福であり、人間の価値を決める絶対の基準。スキルに依存しない国家運営の思想は、神殿の権威の根幹を揺るがす。
――故に、ミラ王家は潰された。
――故に、アークライトも、狙われている。
ミラ王国の滅亡も、井戸の毒も——すべて、同じ糸に繋がっていた。




