皇帝でない貴方と、女王でない私で
「……な……」
リリアンもアッシュも、絶句した。
「貴方は、アークライトを離れなくていい。俺が、ここにいれば、全てが解決する。貴方は、アークライトの総監のまま、俺の皇后になればいい。合理的だ」
(この人は……。本気で帝国の首都を辺境に移すと? 私一人の、ために? ……でも、カイの特性を考えれば……理解できなくもない。限局した興味と、それへの強い囚われ……他の要素を、顧みない……)
「……陛下。あまりにも、現実的ではありません。議会の承認は? 地政学的にも……」
「なぜだ? 帝国の運営は、通信スキルで遠隔指示できる。物理的な距離は、問題にならない。俺の『特性』は、膨大な情報を処理することに最適化されている。議会など、どうにでもなる。ここに俺がいれば、きな臭い動きをしている西の隣国への抑止力にも、なるだろう」
その瞳には、狂気の色などない。カイは、心の底から、それが最も『合理的』な解決策だと信じ切っていた。
「こうまでして、貴方が欲しいのだと……何故、理解してもらえない?」
少しだけ悲しそうに、カイが囁いた。
あの夜の、星空の下で寄る辺なく語った少年のようなカイの姿が蘇る。
「け、結婚の件は、保留ということで……」
拒絶など、できなかった。
*
その夜。リリアンは一人、執務室のバルコニーに立っていた。
皇帝の求婚。アークライトの臨時首都化。あまりにも現実味のない出来事が、一気に押し寄せている。
眼下に広がるアークライトの夜景は、リリアンたちが7年かけて灯した、ささやかな希望の光だ。
ここに灯る一つひとつの明かりを、リリアンは名前で呼べる。パン工房のサーシャの灯り。診療所のエルザの灯り。鍛冶場のゴーシェとその弟子が、夜遅くまで技術を磨いている灯り。
(この光を……守りたい)
カイの手を取れば、この光が消えるような未来を、避けられるかもしれない。
「……姉さん」
背後で声がした。振り向くと、アッシュが立っていた。
「こんな時間に、どうしたの。アッシュ」
「……眠れなかった。姉さんが、あいつと……」
アッシュは、リリアンから数歩離れた場所で立ち尽くす。その拳は、白くなるほど固く握りしめられていた。
「考えてみたの。私、家のために結婚するのが当然って価値観で育ってて……だから私、最初から愛なんて人生に求めてない。愛されることは、諦めたの。……でも、私が皇帝と結婚すれば、神殿からアークライトを守れるかもしれないし、皆が」
「ふざけるな! 姉さんの犠牲で手に入れた未来に、何の意味があるんだ!」
アッシュが数歩でリリアンとの距離を詰める。その瞳が激情に揺れていた。
アッシュは、リリアンの両肩を強く掴んだ。
「皇帝から恵まれた自治なんていらない! そんなもの、全部いらない! 姉さんだけいればいい!」
「アッシュ……?」
「俺が7年前、この土地に流れてきた時……それまでの自分を全部否定されて、生きる意味なんて分からなくなってた」
アッシュの声が、震える。
「ただ息をしているだけだった。明日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。もう生きていたくなんかないのに、自らを刺す気力さえ出ない。……でも、姉さんが来てくれた」
アッシュの瞳が、リリアンを真っ直ぐに射抜く。その熱に、リリアンは身動きができなかった。
「姉さんは、あの乾いた井戸をたった一人で掘り始めた。みんなが馬鹿にした。俺も最初はバカだって思った。……でも、違った」
アッシュの指先に力がこもる。
「姉さんだけが、諦めなかった。血豆だらけの手で、毎日毎日……。土埃の中で、汗まみれのその横顔が、……綺麗で、眩しくて。……俺は、あの瞬間から、姉さんから目が離せなくなったんだ。明日もまた姉さんに会いたい、笑った顔が見たい。そう思ったら、もう死にたくなんてなかった。だから……愛されることを諦めるなんて、言うなよ」
「……昔の話よ」
「違う。今の、俺の話だ。……愛してる。7年間、毎分毎秒、ずっと」
アッシュが、強くリリアンを抱きしめた。いつの間に、こんな大きくなっていたのだろう。
「今だって、そうだ」
アッシュは絞り出すように言葉を紡いだ。
「貴方がいるから、生きたいって、思えるんだ」
何を言っていいのか、分からなかった。アッシュはリリアンの中で、ずっと可愛い弟分だった。前世の記憶がうっすらとでもあるぶん、年齢よりも大人びていたリリアンにとって、守るべき対象だった。
「アッシュのことは……好きよ。でも……ごめんなさい、私、あなたに恋は……できないと思う」
「……いいよ、分かってたし、今はそれで。いつか、姉さんの隣に立てる男になりたいって、努力してきた……。いつか弟じゃなく、一人の男として、姉さんを守れるようになりたいって。だから」
アッシュが、リリアンを抱きしめていた腕を緩めた。
「これからは俺が男だって、覚えててね」
泣きそうな顔で笑って、アッシュは出ていった。
*
翌日。
リリアンは自由区舎の食堂で、美しい細工の施されたダイヤモンドのネックレスを手に、途方にくれていた。
(……モテ期って、人生で一度は来るものなのね)
リリアンには、息が詰まりそうになると、くだらない方向に思考を飛ばすクセがある。
――アッシュのことも頭が痛いが……目下の問題は、この、ダイヤのネックレスだ。
リリアンが派手な装飾を好まないことを、見抜いた上での、大きすぎないサイズ。
けれど、その精緻さは、もはや芸術品の域に達していた。台座となっているのは、決して曇ることのないプラチナ。そこには、ひと目で最高位の職人によるものと分かる、神業的な透かし彫りで、繊細な葉と蔦の文様が施されている。トップに据えられた一粒のダイヤモンドは、どこまでも透明な白い閃光を、内側から放っている。
食堂に、カイが現れ、向かいの席に座った。
なぜか最近カイはリリアンと昼食を共にしたがる。
「……陛下。こちらの贈り物……お気持ちはありがたく存じますが……私には過分な品かと」
できるだけ失礼にならないように――贈り物を返すこと自体が失礼であることは重々承知だ――ネックレスを箱に入れ、カイへ向けて机の上を滑らせた。
「なぜだ。その装飾品の金銭的価値は、このアークライトの一年分の予算に匹敵する。貴方の『価値』に、見合うはずだ。貴方が好むと思い、葉の文様にしたのだ。貴方以外、これを身につけられる者はいない」
カイが、リリアンのほうへ、ネックレスを突き返す。
「お気持ちだけ、いただきます」
机の上を行ったり来たりするネックレス。
カイの瞳が、不可解そうに揺れた。
「……仮説を、修正する」
*
さらに翌日。
カイが次に贈ってきたのは、帝国の高名な魔導士が何日もかけて織り上げたという、虹色に輝くドレスだった。
「……陛下。このような華やかな服は」
「これは、あらゆるスキル攻撃を無効化する、最高の防御性能を持つ礼装だ。貴方の安全を保障する。……貴方には敵も多いだろう、着ていてほしい」
「私は、戦場には赴きません。農地を歩き回る私には、こういう丈夫な木綿の服が一番です」
もうなりふり構わず、リリアンは再び贈り物を突き返した。
「……仮説を、修正する」
*
アッシュとギデオンは、リリアンたちの様子を、食堂の扉の外から遠巻きに見て――腹を抱えて笑っていた。
「ざまあみろだ、氷帝様!」
「ぜんっぜん、分かってねぇのな!」
声が、食堂の中まで届いている。
(アークライトの幹部が、この爆笑兄弟かーって思われるじゃない……恥ずかしい、やめてほしい)
――ふと。笑いを収めたギデオンが、食堂に入ってきた。
「リリィ……いえ、総監。皇帝陛下は随分、貴方にご執心のようやなぁ」
ギデオンの、いつもより硬い声。カイを、見ようともしない。リリアンだけを見据えている。
リリアンは違和感に目を丸くして、ギデオンを見返す。
「我々は、貴方のものだ。貴方のためなら、いつでもこの命を差し出す覚悟がある。そして貴方も、我々の、アークライトのものだ。……誰にも、奪わせはしない」
ギデオンの珍しく丁寧な口調と、真摯な瞳に、リリアンは曖昧に頷くことしかできなかった。
*
そして、さらに数日後。
昼食中の食堂で、カイが突然、人払いを命じた。
「ここ数日、ずっとある仮説を考えていた……リリアンは、どんな贈り物も喜んではくれない。アークライトの自治権も、経済的な利権も、貴方を動かすには足りない。……では、俺自身が、リリアンが夫にしたいと思える男に変わるしかないのでは、と」
いつもリリアンを射抜いてくるカイの目線は、明後日の方向を向いていた。滑らかで白い頬は、うっすらと赤く色づいている。
(て、照れている? 陛下が?)
「貴方の好みの男性像について、帝国中のあらゆる情報を集めたが……どこにも、なかった」
「……私が新聞などに載るとしたら、経済紙とかですから……個人的な情報は」
「そこで、直接聞くのが合理的だと判断した。貴方の理想の男になりたい。そうすれば、貴方は俺を好きになってくれるだろう? だから教えてくれ。俺は、どう変わればいい?」
(む、無茶苦茶な)
「陛下は何も、変わる必要はないのです。『特性』は頭の使い方の癖ですから、軽い病のように簡単に治癒するものでもないですし。『力』にもなり得る特性を、変える必要もございません。……それに私は、愛情が付随する契約としての婚姻を期待していないので。アークライトの幹部は、私個人の幸せを願ってくれているので反対するでしょうが」
「……その言い方だと、貴方個人の幸せが、俺と結婚することと両立しないように聞こえる。俺は、貴方が俺と結婚することで幸せになってほしいのだ。貴方が一緒にいて幸せを感じられる俺に……俺は、なりたい」
「……その言い方ですと、陛下が、私個人を幸せにしたいと思っているように……聞こえますが」
「そうなのか?」
「私に、聞かないでくださいっ」
「ああ……そうか。だから、リリアンと一緒にいると、痛いほどに心臓が打つのか」
カイは、腑に落ちたように呟く。
その後急に、カイの顔が真っ赤になった。そのまま、黙り込んでしまう。
(え……まさか、カイ……私のこと、本気で。しかも今……自覚、した?)
つられたように、リリアンの顔も真っ赤になる。
(可愛い、かも)
「て、帝国一の美姫と謳われる姫の前でも、こ、これほどの熱を感じたことはない……。貴方は確かにアークライトの女王だが……もう、あらゆる権力も領地も要らない。むしろ今となっては邪魔にさえ思える」
カイは立ち上がり、リリアンの前に跪いた。
「ただ一人の女性として、ただ一人の男である俺と、結婚してほしい」




