氷帝の足音
勅書に書かれていたのは、有無を言わせぬ命令だった。
『辺境自由区・アークライト総監へ告ぐ。近日中に、皇帝カイゼル・ヴァン・アドラーが、当区の視察に赴く。万全の準備を以て、これを迎えよ』
*
リリアンはすぐに、副総監であるギデオンや、各省のリーダーたちを招集した。
「皇帝自らが、視察に……?」
農業省のリーダーが、青い顔で呟く。彼の動揺は、会議室に集まった全員の気持ちを代弁していた。
「リリィ……やない、総監。皇帝の狙いは一体何や? 俺らを反乱分子と見做して、潰す気か?」
ギデオンの瞳に、警戒の色が浮かんでいる。
「その可能性もあるけど……私たちの経済規模から考えて、アークライトを帝国に正式に組み込み、システムの解体を目指すほうが、帝国にはメリットがある。工業式農業のノウハウも、おそらく帝国は欲しがっている」
「気の遠くなるほど、荒れ地に種を植え続け……緑にしたのは俺達や。 横取りしようってのかよ」
苛立ったギデオンの声に、そうだ、そうだ、という賛同が重なる。
「帝国から見れば、荒れ地だったのをいいことに、いつの間にか『自由区』なんて呼ばれるようになった異分子。それが私たちの立場ね」
「弱気になんなよ、兄貴! 俺たちが、どれだけの思いでこの街を作ってきたと思ってるんだ! 皇帝だの辺境伯だのに、好きにさせてたまるか!」
アッシュが兄に噛みついた。
「だが、相手はあの『氷帝』だぞ!」
別の幹部が叫ぶ。
カイゼル・ヴァン・アドラー。
十五歳で帝位を継いだ天才的な統治者。わずか数年の治世において、腐敗した貴族を一掃し、硬直化した法を改正し、斜陽となっていた帝国の経済を立て直して、経済大国として復権させた。
しかし一方で、彼の名は恐怖の代名詞として帝国全土に轟いていた。
曰く、カイゼルは感情を持たない。その心は帝室に伝わる呪いによって凍りついているのだ、と。
曰く、カイゼルは血も涙もない。少しでも意に沿わぬ者は、たとえ側近であろうと容赦なく切り捨てるのだ、と。
そんな噂が、行商人たちによって、この辺境の地にもたらされていた。
その人物像は、多様性を受容し個々の自由を尊重するアークライトの理念とは、対極にある。
不安と恐怖が、会議室の空気を支配する。
(このままでは、士気が下がるだけ)
リリアンは、パン、と手を叩いて皆の注意を引いた。
「小手先の誤魔化しは、切れ者で完璧主義者だという皇帝には通用しないでしょう。ありのままに見せてやりましょう、個々の『スキル』なんかに頼らない『システム』の力を。……絶対に、負けない。私たちの理念が問われる、戦いだから」
リリアンの言葉に、幹部たちの顔が少しずつ明るくなっていく。
そうだ。リリアンたちは、いつだってそうやって困難を乗り越えてきたのだから。
「……俺たちも、戦うよ。姉さ……総監の、隣で」
*
そして、運命の日が来た。
リリアンは、アッシュやギデオン、幹部たちと共に、アークライトの正門で来訪者を待ち受けた。
自由区の門には、高らかにアークライトの旗を掲げた。同じ高さに、帝国の旗も掲げておく。
(帝国を軽んじているわけじゃない、というメッセージ……伝わるかしら。他国も尊重していることを示すために、万国旗も飾ろうかと思ったけど……前世の運動会みたいになりそうだし)
緊張をほぐそうと、リリアンは下らない方向へ思考を飛ばす。
見張り台から、到着を告げる鐘の音が鳴り響く。
やがて、地平線の彼方から、空に黒い影が見えた。
「……空から来るのか!?」
ギデオンが叫んだ。
その影は、みるみるうちに大きくなった。
空を覆い尽くすような翼。漆黒の鱗に覆われた巨大な体躯。帝国の最高位の騎士のみに与えられるという飛竜が、地鳴りのような羽ばたきと共に、アークライトの上空に姿を現した。
後続には、数頭の飛竜に騎乗した、帝国の近衛騎士団。纏う鎧は太陽の光を鈍く反射し、威圧的な銀色の光を放っている。
風圧で砂塵が舞い上がり、広場に並ぶリリアンたちの髪と衣服を、激しくなびかせた。
先頭の飛竜が、正門のすぐ前に、翼を畳みながら急降下してくる。
帝国最大級の飛竜の、圧倒的な威圧感。地面に着地した衝撃で、門柱が軋んだ。
空気が、張り詰める。
誰もが固唾を飲んで、飛竜の背を見つめた。
やがて、飛竜の背から、一つの人影が軽やかに飛び降りた。
舞い降りる雪のような、白銀に輝く髪。
その人物が外套のフードを払い、顔を上げた瞬間。
――リリアンの心臓が、止まった。
紫水晶の瞳。
端正な容貌。
知的で、冷たく、それでいて孤独を湛えた、あの眼差し。
(――嘘。カイ……?)
息が、できなかった。
カイゼル・ヴァン・アドラー。アドラー帝国皇帝。
氷帝と恐れられる、帝国の支配者。
その男は、リリアンが「旅人のカイ」として知っていた人間と、うり二つだった。
沈黙の中、カイはゆっくりとリリアンに歩み寄った。
リリアンの背後では、ギデオンの手が剣の柄にかかり、アッシュが青ざめた顔で身構えている。
「……リリアン・アークライト」
カイの声は低く、帝国皇帝としての威厳を纏ったままだ。リリアンに笑いかけた時とは違う。
リリアンの唇が、かすかに震えた。
(あの旅人が……あの、「呪われている」と怯えていた人が……帝国皇帝……?)
皇帝の前で、カーテンシーはしないと決めていた。平民らしく振る舞おうと。けれど、事前に準備した歓迎の台詞など、完全にリリアンの頭から飛んでいた。
「……カイ。あなた、本当に……」
「ああ。俺の名は、カイゼル・ヴァン・アドラー。……全てを明らかにしに来た」




