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自由の旗を、高らかに掲げよ!

 7年の時は、アークライトを、「辺境の小さな村」以上の存在に変えていた。


 農業特区として多種多様な農産物を安定生産し、独自の灌漑・緑化技術のモデルケースとして、近隣の辺境領からも視察団が訪れるほどになっていた。人口は数万人を超え、学校、診療所、簡易裁判所まで完備した、帝国辺境でも類を見ない自治都市へと成長を遂げていた。


 先日の疫病の蔓延に、神殿が関わっていたという疑念はあり、調べは進めていたものの――その後、神殿に主だった動きはなく、アークライトは、華やかな祭りの季節を迎えていた。


「リリィ姉さん……じゃない、総監! 記念祭の旗、持ってきたよ!」


 執務室のドアから飛び込んできたのは、補佐官のアッシュだった。


 16歳の美少年に成長し、背丈はリリアンをとっくに追い越している。頭のいいアッシュは今や、アークライトの運営に欠かせない存在だ。半年前、畑の塩害を抑えるために植えた植物を転用し、アークライトの特産品に美しいステンドグラスを加えた手柄は、今では語り草だ。


 しかし、得意気に旗を広げ、空色の瞳をキラキラさせている様子は、7年前、乾いた井戸の底から見上げた時と変わらない。ブロンドの髪に、時々寝癖がついているのも。


「素敵よね、私たちの旗」


 旗のベースの緑は、リリアンたちが蘇らせた大地の色。模様として描かれている麦の穂は、リリアンたちの生命を支える食料だ。そして、もう一つの模様である冠歯車は、個々の力が噛み合い、大きな力を生み出す『システム』の象徴。


「ああ! デザインはリリィ姉さんで、絹を作ったのは生産省。織ったのは織物班の連中で、刺繍は仕立て屋のばあさんたちが総出でやってくれた。まさに、みんなで作った旗だ」


 アッシュの熱のこもった声が、執務室に響く。


 アッシュの視線がゆっくりと、旗から、リリアンに移った。その瞳が、熱っぽく揺れた。


「そのドレス、姉さんの緑の瞳と大地の色の髪に、すごく似合ってる。……まるで、アークライトの、妖精みたいだ」


 今日という晴れの日のために、仕立て屋のばあさんたちが「総監らしく!」と張り切って作ってくれた、一張羅だった。アークライト特産の絹地が、動くたびに上品な緑の陰影を作る。


 久しぶりにきちんとメイクをして、いつも無造作に束ねているブラウンの髪も、丁寧に結い上げた。


「ほら! もう行かないと。みんなが、待ってる」


 リリアンが扉を指さすと、アッシュは一瞬だけ寂しそうな顔になって。でも、笑った。


「行こう、総監。俺たちの旗を、掲げに」


 リリアンは、『井戸端の広間』と呼ばれる場所に出た。


 乾いた空気と、痛いほどの陽光。じわりと汗が滲む。


 古びた井戸が、目に留まる。7年前、10歳のリリアンが、たどりついた集落に受け入れられたくて、自分の有用性を示したくて、掘り始めた井戸。


 はじめは、たった一人だった。アッシュが最初の仲間になってくれて、その兄のギデオンも来てくれて……最後は、たくさんの仲間たちと一緒に掘った井戸。


 広間の壇上にリリアンが登ると、嵐のような歓声が巻き起こった。


 最初に井戸から水が出た時の歓声と似ているけれど、あの時より遥かに多くの人に囲まれている。


 リリアンは、ゆっくりと広場を見渡した。みんな、いい笑顔をしている。この顔を守るためなら、何でもできる。


 増幅のスキルを持つ者がかけてくれた声が、広場の隅々まで届く。


「アークライトの同志たちよ!」


 リリアンの声に、広場が静まり返った。


「7年前、最弱スキルと判定され、家族に見放され、この地に一人でやってきました。そこにあったのは、絶望と、乾ききった大地だけ。多くの者が、ここを『神に見放された土地』だと、そう言いました」


 あの時の絶望感が脳裏に蘇る。前世の記憶がなければ、きっと耐えきれない日々だった。『スキル』の代わりに科学があり、個々人が力を活かして生きていける、日本という世界。そこで研究者をしていた記憶は年々ぼんやりとしてきてはいるものの、リリアンの確かな道標だった。


 リリアンは、一度言葉を切り、集まった人々の顔を一人一人見つめるようにして、続けた。


「ですが、本当にそうだったのでしょうか? 私たちは、神に、スキルに選ばれなかった、出来損ないだったのでしょうか?」


 いいや! と誰かが叫んだ。その声に呼応するように、あちこちから声が上がる。


「私たちは、諦めなかった!」


「俺は、落ちこぼれじゃない!」


 リリアンは、力強く頷いた。


「私たちは、示しました。『スキル』が全てとされるこの世界において、たとえ生まれ持った才に恵まれなくても、一人ひとりの力は小さくても……その手を重ねれば、偉業を成し遂げられると。……乾季でも枯れぬ、この井戸が証です! かつての荒れ地に芽吹く、黄金の麦畑が証です! ……私たちは、私たち自身で、生きる場所を創り上げた!」


 熱が、会場全体に伝播していく。


「——あたしにも言わせておくれ!」


 興奮した、しわがれた声が、広場の端から響いた。

 人々の視線が動く。杖をついた小さな老婆――マアサが、人垣をかき分けるようにして、前へ出てきた。

 広場が、水を打ったように静まり返った。


「あたしのスキルはね、『草の元気が分かる』ってだけのもんだよ」


 老婆の声は、震えていた。けれど、静まった広場の空気を、確かに震わせた。


「六十年間、役立たずだって笑われてきた」


 旗が風にはためく音だけが、遠くに聞こえた。


「でもあの子が来てから——」


 老婆の皺だらけの指が、壇上のリリアンを指した。


「あたしのスキルじゃなく、あたしの知識が、役に立つって言うんだよ。あたしがいないと、人が死ぬって言うんだよ」


 老婆の目から、涙がこぼれ落ちた。


「六十年だよ。六十年待って……やっと、あたしの手が、誰かの役に立った」


 広場を、沈黙が包んだ。


 笑われてきたのは、マアサだけではない。ここにいる誰もが、「お前は要らない」と言われた痛みを知っていた。


 リリアンは壇上を降りた。マアサの前に歩み寄り、その皺だらけの手を、両手でそっと包んだ。


「——あなたの手が、たくさんの命を救ってくださった」


 リリアンの声も、震えていた。


「ここでは、要らない手なんてない。……それが、アークライトです」


 マアサが、くしゃりと顔を歪めて——声を上げて、泣いた。


 リリアンは、マアサの手を包んだまま、顔を上げた。涙の滲む緑の瞳で、広場を見渡した。


「この旗は……生まれながらに与えられた力に、決して屈することのなかった……自由と尊厳の証です!」


 ギデオンが、空高く旗を掲げるためのロープを引いた。


 緑の旗が、青空へと昇っていく。風を孕んで、大きく、力強く、はためいた。


「胸を張りなさい! 我々は、アークライトの民だ!」


 その瞬間、地響きのような歓声が天を衝いた。


 人々は旗を見上げ、拳を突き上げた。泣きながら叫ぶ者がいた。笑いながら隣の人を抱きしめる者がいた。フェイまでが興奮して、大きく前足とコートを広げる。


「アークライト!」


「アークライト!」


「アークライト!」


 リリアンも、湧いてくる涙をこらえることができなかった。


 7年前、全てを失った少女が、たくさんの仲間と、豊かな大地と、そして『アークライト』という新しい故郷を得たのだから。




 しかし、喜びの絶頂は、長くは続かなかった。


 空を切り裂く鋭い鳴き声と共に、一羽の鷲が広間に舞い降りた。


(帝国の通信用の、スキルで強化された軍鷲……?)


 アッシュも鷲に近づき、ハッとした顔になってリリアンに目配せをした。


 リリアンは何とか笑顔で演説を終えた。足早に広間を後にする。


 広間の興奮は覚めやらず、代わる代わる、アークライトの民が壇上に登り、自分がアークライトで何を得たかを叫んでいた。


「リリィ姉さんだけが注目を浴びるような組織じゃなかったのが、幸運だったね」


「っていうか、私がいなくなっても、誰も気にしてない……」


「……その封書、何?」


 鷲の脚に結び付けられていたのは、皇帝の紋章である『双頭の鷲』が刻印された、蝋で封をされた一通の勅書。


 嫌な予感が、リリアンの背筋を駆け上った。


(よりにもよって、記念祭の大事な日に……いや、あえて、狙ったのか)


 リリアンは、執務室に駆け込むと、唾を飲み込み、震える指で封を切った。

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