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ぬくもりの回帰

――十歳の冬、リリアン・エヴァンスは死んだのだ。


 それ以降を生きてきたのは、別の人間だ。


 少なくとも——リリアンは、そう決めた。


 父の目が、一瞬、揺れた。


「屁理屈を言うな。お前は私の血を引いている、調べはついている。領民が餓死しかかっているのだぞ」


 父の声に、焦りが滲んでいた。その焦りは、領民への責任感からではないだろう。——この男は昔から、自分の管轄下で問題が起きること自体を「恥」と感じる人間だった。


 継母が、父の半歩後ろで唇を引き結んでいる。視線が定まらない。この部屋の調度品を、壁の装飾を、落ち着かなげに見回している。


(この人たちは今——「嘆願者」として、私の前に立っている)


 ——七年前、この構図は完全に逆だった。


 リリアンは机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。


「取引です」


 三人に向けて、羊皮紙を滑らせた。


 条件は事前に精査し尽くしてある。エヴァンス領の土壌データは三ヶ月前から入手し、再生計画は既に策定済みだ。


 父が羊皮紙をひったくるように読み、顔から、わずかに残っていた血の気が引いた。


「エヴァンス領の全関税の撤廃と、主要農地の管理権をアークライトに委譲だと……これでは、エヴァンス家は名ばかりの飾りではないか」


「ええ」


 リリアンは、声に力を込めなかった。その必要がなかった。


「なぜなら、公爵閣下。あなた方は七年間、最強のスキルを持ちながら、領地一つ守れなかった。そして農業のスキル持ちを何人雇っても、土は一粒も戻らなかった」


 言い終えた瞬間、父の肩が——ほんの僅かに、落ちた。



(——やめて)


 胸の奥で、誰かが叫んだ。


(やめて。お父様を、追い詰めないで)


 十歳のリリアンだ。雨の中で「お父様」と泣いた、あの子が、まだリリアンの中にいる。




 ——だが、十七歳のリリアン・アークライトは、その衝動を、静かに呑み込んだ。


「経営陣の交代は、組織を存続させるための当然の措置です」


 自分の声が、どこか遠くから聞こえた。


「姉上、頼む。俺のスキルじゃ、土は——」


「知っています」


 リリアンは、静かに遮った。


「『氷槍』は帝国建国神話に語られる伝説のスキル。十歳のあなたに周囲の大人が言った通り、類稀な力です」


 あの日。氷の蒼い光が神殿を満たし、貴族たちが歓声を上げ、モモンガたちが——リリアンの肩から飛び立って——アレンの元へ群がっていった、あの瞬間。


 ずっと一緒だと思っていた、ふわふわの小さな体温が消え、肩が冷たくなった感覚を――リリアンはまだ覚えている。


「ですが、アレン。力が大きいほど、壊すものも大きい。それを制御する仕組みが存在しなかった。あなたの責任ではなく、あなたの力を正しく運用する設計を怠った、大人たちの失敗です」


 そう言いながら——本当にそう思っているのか、自分でも分からなかった。


 頭では分かっている。アレンは何も悪くない。彼だって、生まれ持ったスキルを選んだわけではない。周囲の大人たちに「伝説だ」と持ち上げられ、制御の仕方も教わらないまま力を振るわされた被害者だろう。


 ——だけど。


(あなたが、来なければ。あなたさえ、いなければ、私は——)


 アレンの凍傷だらけの手が、拳を握りしめている。爪が掌に食い込んでいるのが見えた。


(——アレンも、苦しんでいたんだ。でも、ごめん。どうしても、優しくなれない)



「サインを、公爵閣下。さもなくば、お引き取りを」


 父は、長い間、羊皮紙を見つめていた。


 その横顔を、リリアンは黙って見ていた。


 ——額の皺が、深くなっている。こめかみの血管が、以前より浮き出ている。髪の生え際に、白いものが混じり始めている。


 父の手が、羽ペンを取った。


 震える指先が、インク壺に触れた。その微かな音が、静まり返った応接室に、やけに大きく響いた。



 署名が、終わった。


 父がペンを置いた瞬間——アレンの肩の上で、異変が起きた。


 五匹のモモンガたちが、一斉に顔を上げたのだ。


 最初に動いたのは、一番耳の大きな個体だった。アレンの右肩からふわりと浮き上がり、迷いのない軌道で——まっすぐに、リリアンの左肩に着地した。


 小さな前足が、リリアンの袖をきゅ、と掴む。


「——え」


 アレンが声を漏らした。


 二匹目。尻尾の長い個体が、アレンの頭の上から飛び立った。リリアンの机の縁に降り、そこからリリアンの右肩へ滑り込んだ。


 三匹目。四匹目。


 一匹、また一匹と、モモンガたちがアレンから離れていく。七年前、神殿でリリアンの肩から飛び去った時と、全く同じ速さで——ただし、今度は逆方向に。


 アレンが手を伸ばした。傷だらけの指が、最後の一匹——群れの長であろう大柄な個体を、引き留めようとした。


 群れの長は、アレンの指先に一瞬だけ鼻を寄せ——それから、静かに飛び立った。


 リリアンの前に着地し、深く頭を垂れた。


(守護妖精は、時期領主を守るための存在……。新しい領主が……実質、私だと判断した……?)


 応接室が、完全に静まった。


 父の顔から、残っていた血の気が引いていく。継母が口元を手で覆う。アレンは——自分の空になった両肩を、凍傷の手で触れた。誰も、いない。

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