ふたりだけの帰り道
その日は、いつもより少しだけ早く終礼が終わった。
定期考査前だから部活動もなく、職員会議の都合もあって、校舎の中は普段よりも落ち着かない空気に包まれている。早く帰れる事に浮かれている奴もいれば、これから家に帰って勉強しなければならない現実に打ちひしがれている奴もいて、教室の中はどこか半端な解放感に満ちていた。
俺は終礼が終わるなり、いつもの癖でスマートフォンを取り出して時刻を確認した。
珠理の迎えまでは、まだ少し時間がある。
とはいえ、どこかへ寄り道できるほど余裕があるわけでもない。せいぜい、ゆっくり歩いてスーパーに寄って、今日の夕飯を何にするか考えるくらいだろう。
そんな事を考えながら机の横に掛けていたスクールバッグを肩に掛けた、その時。
「あの、依紗樹くん」
教室の入り口のあたりから、遠慮がちな声が聞こえた。
聞き間違えるはずがない声。顔を上げると、そこには伊宮弥織が立っていた。
長い黒髪を肩の前に流し、両手で鞄の持ち手を握りながら、こちらの様子を窺う様に立っている。夕方の光が窓から差し込んでいて、その横顔をやわらかく照らしていた。
付き合い始めてから、弥織は以前よりも自然に俺を待ってくれるようになった。
それ自体は嬉しい。というより、嬉しくないはずがなかった。
ただ、学校一の美少女が自分を待っているという状況に、俺の方がまだ慣れていないというだけで。
しかも、その学校一の美少女が今は俺の恋人。慣れるはずがなかった。
この事実を冷静に受け止められる男子高校生がいるなら、是非とも今すぐ俺の前に連れてきてほしい。人生相談をしたい。
「どうした?」
なるべく平静を装って訊くと、弥織は少しだけ視線を揺らしてから、控えめに言った。
「今日……一緒に帰ってもいい?」
「……え?」
思わず、間の抜けた声が出た。
一緒に帰る──それ自体は、別に珍しい事ではない。
最近は弥織がうちに来る事も多かったし、珠理を迎えに行く時に一緒に行く事もあった。スーパーで買い物をして、そのまま真田家に向かって、三人で夕飯を食べて。珠理と遊んで、寝かしつけをする。そういう時間は、もはや俺達の日常になりつつあった。
でも、今日の弥織の言い方は、いつもと少し違っていた。
そう。普段なら、彼女は『珠理ちゃん迎えに行こ』と言うような言い方をしていたはずだ。
それが、珠理を迎えに行く為でもなく、うちに来る為でもなく、ただ一緒に帰りたい。そんな風に聞こえた。
「いや、別にいいけど……珠理の迎えまで、そんなに時間ないぞ?」
照れ隠しの様にそう返すと、弥織は小さく笑った。
「うん。だから、少しだけ」
その笑顔を見た瞬間、ようやく理解する。
弥織は今、珠理の〝おかーさん〟として俺の隣に立とうとしているわけではない。
俺の彼女として、一緒に帰りたいと言ってくれているのだ。
そう気付いた途端、胸の奥が変に騒がしくなった。
「……そっか」
「うん」
弥織は少しだけ頬を赤くして頷く。
その仕草が妙に可愛くて、俺は思わず視線を逸らした。
しかし、そういう空気を敏感に察知する奴らが、この教室にはいる。
「お、今日は若夫婦だけで下校か?」
背後から聞こえてきた声に、俺は思わず眉間に皺を寄せた。
振り返ると、信也がにやにやと嫌な笑みを浮かべている。こいつは人が照れている時ほど活き活きとするタイプの生き物だ。おそらく前世は人の恋路に石を投げる妖怪か何かだったに違いない。
「違うでしょ」
その隣から、スモモが呆れた様に口を挟む。
「若夫婦じゃなくて、今日は恋人モードのみーちゃんでしょ」
「も、桃ちゃん……!」
弥織がわかりやすく真っ赤になる。
俺も咄嗟に何か言い返そうとしたが、言葉がうまく出てこなかった。
「い、いや、そういうの、ではなくて」
結局、出てきたのは弱々しい抗議だけだった。
「否定が弱ぇぞ?」
信也は満足そうに頷く。
「珠理ちゃんのお迎えまでの短時間デートってやつか。ったく、青春してやがんなあ」
「デートってほどじゃない。ただ帰るだけだろ」
俺は即座にそう返した。
実際、その通りだ。ただ一緒に学校から出て、スーパーに寄って、保育園まで向かう。それだけだ。それをデートと呼ぶには、あまりにも生活感があり過ぎる。
だが、俺の返答を聞いたスモモが、すかさず弥織の方へ顔を向けた。
「みーちゃん、今の聞いた? ただ帰るだけだって」
「えっ、えっと……」
弥織は困った様に視線を泳がせた後、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「私は、それでも嬉しい、けど……」
小さな声だった。
でも、俺の耳には、はっきりと『けど』まで届いてしまった。
それは、ずるくないか?
そんな風に言われたら、どう返せばいいのかわからなくなってしまう。
「へいへい、ごちそうさま」
信也がわざとらしく手を合わせる。
「はー。お砂糖じゃりじゃりだね」
「胸焼けするくらい甘いな」
「お前らな……」
何とか抗議しようとしたが、スモモが弥織の背中をぽんと押した。
「ほらほら、みーちゃん。短時間デートなんでしょ。こっちのことはいいから、時間ないんだったら早く行ってきなって」
「だ、だからデートじゃ──」
「依紗樹くん」
弥織が俺を見た。
その目は、恥ずかしそうで、でも少しだけ楽しそうでもあった。
「行こ?」
「……ああ」
結局、俺は何も言い返せないまま、弥織と一緒に教室を出る事になった。
廊下を歩いている間も、妙に視線を感じた。
そりゃそうだろう。学校一の美少女が、俺の少し隣を歩いているのだ。しかも俺達の関係を知っている奴も増えていた。今更隠せるものでもない。
以前なら、そういう視線が怖かった。
自分と弥織の関係が噂になって、彼女に迷惑が掛かるのではないか。珠理の〝おかーさん〟としての関係が壊れてしまうのではないか。そんな事ばかりを考えていた。
けれど今は、少し違う。
もちろん恥ずかしいけど。めちゃくちゃ恥ずかしいけど。
だが、それでも隣にいる弥織が俺の彼女なのだと思うと、逃げ出したい様な、胸を張りたい様な、よくわからない気持ちになる。
昇降口で靴を履き替えて、校門を出た。
これまでなら、隣には信也がいた。或いは、珠理の迎えに間に合うように少し早足で歩いていたと思う。
でもここ最近は、隣にいるのは弥織。
たったそれだけの事なのに、歩き方がわからなくなった。
弥織の歩く速度に合わせようと、俺は少し歩幅を狭める。
すると、弥織も俺に合わせようとして、少しだけ早歩きになった。
結果、二人の歩調は微妙に噛み合わなくなる。
何だこれ。
「……何か、変だな」
思わずそう呟くと、弥織がこちらを見る。
「え?」
「いや。ほぼ毎日一緒にいるのに、ふたりで歩くだけでこんなにぎこちなくなるんだなって」
俺が苦笑すると、弥織は少し俯いて、髪を耳にかけた。
「……そうだね。ふたりだと、ちょっと違うかも」
その言葉に、胸の奥がくすぐったくなった。
弥織はいつも、珠理の前では不思議なくらい自然に笑う。
俺よりもずっと大人びていて、俺よりもずっと〝おかーさん〟みたいで。
でも今、隣を歩いている彼女は、少しだけ歩幅を迷って、少しだけ頬を赤くしている。まるで、年相応な女子高生のように。
その事実に、何故だかどうしようもなく胸が落ち着かなかった。
もちろん、家で見る弥織も好きだ。
珠理に絵本を読んでいる時の優しい声も、台所に立っている時の横顔も、珠理のわがままに困った様に笑う顔も、全部好き過ぎて困る。
でも、今隣にいる弥織は、そういう弥織とは少し違っていた。
珠理の〝おかーさん〟ではなく。
俺の、恋人としての弥織。
改めてそんな事を意識してしまうと、何を話せばいいのかわからなくなる。
無言が嫌なわけではなかった。
むしろ、春の終わりかけの風と、遠くから聞こえてくる部活の掛け声と、隣を歩く弥織の気配が、妙に心地良い。
しばらく歩くと、横断歩道に差し掛かった。
赤信号で立ち止まる。
車が何台か通り過ぎていった。
その時、ふと弥織の手がすぐ近くにある事に気付いた。
白くて、細い手。
珠理の頭を撫でてくれる手。
俺の頭を撫でて、泣いていいと言ってくれた手。
付き合っているのだから、手を繋いでもおかしくない。
おかしくない、はずだ。
でも、いざ二人きりの帰り道で手を繋ぐとなると、妙にハードルが高かった。
ここで急に手を出したら、何かこう……がっついているみたいじゃないか?
いや、彼氏が彼女と手を繋ぎたいと思うのは普通なのでは?
そもそも普通って何だ。俺にそんな普通の恋愛経験はない。
いや、経験がないからこそ、こういう時は普通にしておいた方がいいんじゃないのか。
だから普通って何だよ。
そんな事をぐるぐる考えている間に、信号が青に変わった。
俺が一歩踏み出そうとした時。
弥織の指先が、ほんの少しだけ俺の手に触れた。
偶然かもしれない。
でも、弥織の顔を見ると、耳まで赤くなっていた。
視線は前を向いているのに、明らかに意識している。
その横顔を見た瞬間、変に覚悟が決まった。
俺はそっと右手を動かして、弥織の手を取る。
「……っ」
弥織の肩が小さく跳ねる。
でも、逃げなかった。
それどころか、少しだけ指を握り返してくる。
柔らかくて、温かい手。
手を繋いだだけなのに、心臓が馬鹿みたいにうるさくなった。
「車が……危ないからな」
我ながら意味のわからない言い訳だった。
横断歩道は青だし、車も止まっている。
危ない要素など、ほとんどない。
だが、弥織は小さく笑ってくれた。
「もう。私は珠理ちゃんじゃないよ?」
そう言って、俺の指をきゅっと握る。
この、ふたりだけの時間を、ふたりだけで使って。ふたりで帰り道を歩く。
もしかすると、こんな何でもない時間が、この世の中のどんなものよりも価値があるのではないだろうか。
そんなことを、考えさせられてしまう。
「弥織?」
「なあに?」
呼びかけると、彼女がこちらを見上げた。
「また、こうやって帰ろっか。時間ある時とか、少し学校が早く終わった時とか」
正面を向いたまま、言った。
何を今さら言ってるんだと思う。でも、これを言うだけで、頬が焼けそうに熱いし、心臓もばくばくだ。
弥織は照れたようにはにかんで。
「うん」
こくり、と小さく頷く。
結局、横断歩道を渡り終えた後も──俺達の手は、繋がれたままだった。




