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学校一の美少女がお母さんになりました。  作者: 九条蓮
ショートストーリー

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おひるねのあとで

 休日の昼下がりというのは、不思議と時間の流れが遅い。

 平日なら珠理の送り迎えや家事に追われて、一日などあっという間に過ぎてしまう。それが休日になると、同じ二十四時間のはずなのに、やたらと空気がゆるんで、時計の針もどこか怠けているみたいに感じるのだ。

 昼食を終えて、食器も洗い終えて、居間のローテーブルの上には弥織が淹れてくれたほうじ茶の湯気だけがゆらゆらと漂っている。五月の陽射しがカーテン越しにやわらかく差し込んでいて、部屋の中がぼんやりとした金色に満ちていた。

 珠理はさっきまでアクアビーズで遊んでいたのだが、ここにきて飽きたのか、ラグの上でごろごろと転がっている。まだ昼寝をするには早い時間だけれど、午前中に公園で走り回っていた疲れが出てきたのだろう。


「おかーさん、えほん読んで」


 ごろごろしていた珠理が起き上がって、本棚の方へとてとて歩いていく。そして、何冊かの絵本を引っ張り出すと、両腕で抱えて弥織のところまで持ってきた。


「これと、これと、これ!」

「そんなにたくさんは読めないよ?」


 弥織が困った様に笑う。


「いつもそれで結局三冊読まされるぞ」


 俺が横から言うと、弥織は「えっ」とこちらを見てから、珠理に向き直った。


「じゃあ、今日は二冊まで。お約束ね?」

「えー。じゃあ……これと、これ!」


 珠理は渋々一冊を戻して、残りの二冊を弥織に差し出す。弥織はそれを受け取ると、ローソファーに腰を下ろした。珠理はすぐさまその隣にちょこんと座って、弥織の腕にぴったりとくっつく。

 こういう何でもないやり取りが、いつの間にか俺にとって特別なものになっていた。告白してからはなおさらだ。弥織がこの家にいてくれている事の意味を、以前よりもずっと強く意識してしまう。

 でも、それを考え過ぎると色々おかしくなるので、なるべく平静を装って──俺は台所に残っていた洗い物の続きに取りかかった。

 弥織が絵本を読み始めると、居間の空気がふわりと変わった。

 彼女の声はもともと柔らかいけれど、絵本を読む時はそれがより一層やわらかくなる。抑揚がつき過ぎず、でもちゃんと物語の起伏に沿って声色が変わって。聞いていて心地良い朗読だった。

 ぺらり、とページをめくる音。珠理が「このこ、なにしてるの?」と短く質問を挟む。弥織が「なんだろうね、何してるんだと思う?」と返した。珠理が「んー」と少し考えてから何か自分なりの答えを言うと、弥織がそれを「そうかもね」と受け止める。

 その繰り返しが、台所まで小さく届いてきた。

 不思議なものだ。皿を洗う水の音と、弥織の朗読と、珠理の声。それだけなのに、この家がいつもの何倍も「家」らしく感じる。

 ふと、以前の事を思い出した。

 弥織が休日にうちに来るようになった頃だ。珠理に絵本を読んでやっている彼女の声を、居間の隅で聞いていた事がある。あの時、気付けば俺もうとうとしてしまっていて、目が覚めた時には口元に涎の跡がついていた。弥織に拭かれるという、男としてはかなり情けない事態だ。

 でも──あの時、不覚にも眠ってしまった事を、今の俺は不思議と恥ずかしく思わなくなっていた。

 弥織の声を聞いていると、つい肩の力が抜ける。ずっと張り詰めていた何かが、知らないうちにほどけていく。それは珠理だけじゃなく、俺にとっても同じだったのだ。

 きっと俺も、彼女の声に甘えていたのだと思う。恋人になった今でも、その甘さは変わらないどころか、むしろ強くなっている気がした。

 洗い物を終えて手を拭き、居間に戻ろうとした時──ふと、気付いた。

 静かだ。

 さっきまで聞こえていた弥織の朗読が止まっている。珠理の質問も聞こえず、ページをめくる音すらしなかった。

 寝たのか、と思って居間を覗き込む。

 そこにあった光景に、俺は足を止めた。

 ローソファーにもたれかかる様にして、珠理と弥織が眠っていた。

 珠理は弥織の腕にしがみつく格好で、小さな口をわずかに開けてすやすやと寝息を立てている。弥織はソファの背に頭を預けて、開いたままの絵本を膝の上に乗せたまま、目を閉じていた。

 午後の日差しが二人を包んでいて、その光の中で長い黒髪がきらきらと輝いている。珠理の亜麻色のツインテールが弥織の制服の袖にかかっていて、まるで本当の母娘がそうする様に、二人は寄り添っていた。

 ──可愛い、とか。綺麗だ、とか。

 そういう簡単な言葉では片付けられない何かが、胸の奥に広がった。この光景をどう表現すればいいのか、俺にはわからない。ただ、この瞬間が壊れてしまわない様に、息をするのさえ躊躇ってしまうくらいには、大切な光景だった。

 弥織はいつも与えてくれる側だった。珠理の相手をしてくれて、俺の生活を助けてくれて、俺の弱音を受け止めてくれた。

 でも、こうして無防備に眠る姿を見ていると、この子だって疲れるのだと当たり前の事を思い知らされる。自分の家に帰れば家事もあるだろうし、学校生活だってある。それなのに、休日にわざわざ俺の家まで来て、珠理の相手をしてくれているのだ。

 今度は、俺がこの子を休ませてやる番だ。

 そう思って、俺は足音を殺してソファの横にあるカゴから毛布を取り出した。

 まず珠理の小さな身体にそっと掛けてやる。珠理はむにゅっと口を動かしたが、目を開ける事はなかった。

 次に、弥織だ。

 毛布を広げて、彼女の肩に掛けようとした時──手が、止まった。

 近い。

 弥織の顔が、すぐそこにあった。閉じた瞼に長い睫毛、少し開いた唇。普段はしっかりとした優等生たる顔立ちが、眠っている時はこんなにも無防備で、柔らかくなるのか。

 心臓がうるさくなってきた。寝顔相手にこれはどうなのだ。

 ──いいから、毛布を掛けるだけだ。それだけだ。

 自分に言い聞かせて、そっと毛布を弥織の肩に掛ける。彼女のシャンプーの匂いがふわっと鼻腔を擽って、一瞬意識が飛びかけたが、何とか耐えた。

 よし、任務完了。あとは静かに離れるだけ──。


「おとーさん」


 耳元で、小さな声がした。

 ぎょっとして振り向くと、珠理がうっすらと目を開けていた。完全には覚醒していない、とろんとした瞳。半分夢の中にいる様な表情だ。


「きょうは……おかーさんを、寝かせてあげて……」


 それだけ言うと、珠理はまた目を閉じて、弥織の腕にぎゅっとしがみ付いた。あっという間に寝息に戻る。

 俺は、ソファの横にしゃがんだ体勢のまま固まった。

 寝かせてあげて。

 寝かせてあげて、って何だ。

 いや、意味はわかる。弥織がいつもたくさん頑張ってくれているから、今日くらいはゆっくり寝かせてあげてね──そういう事なのだろう。五歳児なりの気遣いだ。

 わかる。わかるのだが、〝おとーさん〟が〝おかーさん〟を寝かせてあげる、という構図がもう色々と──。

 珠理の中では、俺達はもう完全にそういう関係として成立しているのだ。変なところでそれを実感させられて、頭がぐるぐるする。

 そして俺の心臓だけが、静かな部屋の中で一人騒いでいた。

 とりあえず、このまま弥織をソファの端にもたれた状態で寝かせ続けるのは良くない。首が痛くなるだろうし、身体にも悪い。

 せめてもう少し楽な体勢にしてやりたい。

 ──が。それは即ち、眠っている弥織に触れる必要がある、という事で。

 ソファの横にしゃがんだまま、俺は思考を巡らせる。抱き上げて別の部屋に運ぶ──いや、それは流石に色々まずい。目が覚めた時にパニックになるだろう。

 ならば、せめてソファに深くもたれさせて、頭の下にクッションを入れてやるくらいか。それくらいなら自然だ。自然なはず。たぶん。

 意を決して、ソファの背に寄りかかっている弥織の肩にそっと手を添える。

 ……柔らか。

 いきなり余計な情報が入ってきた。振り払え、真田依紗樹。今はそういう事を考えている場合ではない。

 弥織の身体を少しだけ傾けて、ソファの座面に深く沈ませる。クッションを一つ引き寄せて、彼女の頭の下に滑り込ませた。弥織はんっと小さく声を漏らしたが、目は開かなかった。

 これで少しは楽になったはずだ。

 よし。 

 離れよう。今すぐ離れるべきだ。これ以上この距離にいると、色々なものが壊れてしまう。

 そう思って手を引こうとした瞬間──。

 弥織の手が、俺のシャツの裾をきゅっと掴んだ。

 思考が、呼吸が、全部が止まった気がした。

 それは決して強い力ではない。本当に無意識の、子供が親の服を掴む様な、小さな小さな力。でも、その小ささが余計にたちが悪かった。

 振りほどけない。振りほどけるわけがなかった。

 珠理が弥織の服をきゅっと掴んで離さないのと、全く同じ仕草。それを今、弥織が俺に対してしている。無意識で。眠ったまま。

 何で寝顔相手にこんな命懸けなんだ、俺は。


「……いさき、くん」


 心臓が、止まりかけた。

 弥織が、眠ったまま俺の名前を呼んだ。

 目は閉じていて、完全に眠っていた。意識なんてないだろう。

 寝言だ。ただの寝言。

 それはわかっているのに、俺の名前がその唇からこぼれ落ちたという事実だけで、全身の血液が沸騰しそうだった。

 無意識だからこそ、嘘がない。

 寝言で俺の名前を呼んでくれた──それはつまり、弥織の意識の奥で俺が存在しているという事で。眠りの底でさえ、俺の事を思ってくれているのかもしれないという事で。

 嬉しいのか恥ずかしいのか、もう自分でもわからなくなっていた。ただ確実に言えるのは、今の俺の顔は茹でダコよりも赤いだろうという事だけだ。

 起こしてはいけない。でも離れられない。なんの地獄だ。

 俺はソファの横にしゃがんだまま、顔だけを天井に向けて、声にならない叫びを上げた。

 どれくらいそうしていただろう。

 弥織の手がTシャツの裾からするりと離れたのは、それから数分後の事だった。俺はその隙に音を立てずにソファから距離を取り、台所まで退避する。

 顔を洗って、深呼吸を何度かして、ようやく心拍が人間のそれに戻ってきた頃──居間の方から、小さな声が聞こえた。


「……あ、れ? 私、寝ちゃってた?」


 弥織が薄く目を開けて、きょろきょろと周りを見ている。珠理はまだ隣で眠っていた。


「あ、ああ。二人とも寝てたよ」


 俺は何食わぬ顔で──全く何食わぬ顔にはなれていなかったと思うが──居間に戻った。


「ごめんね、絵本読んでたのに……珠理ちゃんが先に寝ちゃって、つられちゃったみたい」


 弥織は少し申し訳なさそうに言ってから、自分の肩に掛かっている毛布に気付いた。そして、珠理にも毛布が掛かっている事を確認して、こちらを見る。


「……依紗樹くんが掛けてくれたの?」

「まあ、その……風邪引くと困るし」


 視線を逸らして答えると、弥織は少しだけ目を丸くした。それから、ふわっと笑みを浮かべる。


「ありがとう」


 たった五文字の礼が、何故かやけに胸に沁みた。

 弥織は毛布を畳みながら、ふと何かに気付いた様に首を傾げる。


「……何かあった?」

「は? 何が?」

「依紗樹くん、顔赤いよ?」

「──ッ!? あ、暑いんだよ。五月だし」


 苦しい言い訳だった。五月でそこまで暑いわけがない。

 弥織は「そうかな?」と不思議そうにしていたが、それ以上は追及してこなかった。

 追及されなくてよかった。寝ぼけて俺の服を掴んだ事も、俺の名前を呼んだ事も、彼女は覚えていないのだろう。

 それでいい。それでいいのだけれど──覚えていないのが少しだけ悔しいのは、俺の我儘だろうか。

 珠理はまだすやすやと眠っている。弥織は珠理の寝顔を見下ろして、その頬をそっと撫でていた。


「珠理ちゃん、よく寝てるね」

「ああ。午前中いっぱい遊んだからな」

「ふふ。可愛い寝顔」


 弥織が目を細めて微笑む。

 その横顔を見ながら、俺は思っていた。

 弥織がいてくれる時間は、相変わらず俺を休ませてくれる。彼女の声や笑顔や、そこにいてくれるだけで、肩の荷がほんの少し軽くなるのだ。

 でも、今はそれだけじゃない。

 今度は俺も、少しずつこの子を休ませてあげられる様になりたい。毛布を掛ける事くらいしかまだできないけれど、それでも──彼女がこの家で安心して眠れるくらいには、なりたかった。

 ソファの上で珠理と並んで毛布にくるまっている弥織を見て、胸の奥が静かに満たされていくのを感じる。

 恋人になった実感は、遊園地のデートでもなく、放課後の告白でもなく──こういう、何でもない休日の午後の方が、ずっと強いのかもしれない。

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