6.問題はもう一つ
クラウスの名前を出したとたん、ライオネルは思いっきり焦ったような表情になった。どうしたのだろう。
「え、ええそうよ。その、あなたが子犬になっていた間のことなんだけど……」
彼の態度を不思議に思いつつ、クラウスとの間にあったことについて説明した。
するとライオネルは、一転して苦虫をかみつぶしたような顔になってしまった。しかもそのまま、ふるふると頭を振って嘆き始める。
「ああ……なんていうことだ……」
「だ、大丈夫よ、ライオネル。彼は私の婚約者になるつもりでいたみたいだけど、こうしてあなたが戻ってきたのだから」
「……そう楽観視できない気がするんだよなあ……彼はずっと、君に思いを寄せていたから」
「思い? どっちかというと、値踏みされているような気分だったわ」
昼間のクラウスの目つきを思い出して、そう答える。
彼が私に思いを寄せる。うん、絶対に何かが違う。彼が抱いているのはもっとねっとりとしてじめっとした、嫌な感じの感情だ。
「ああ、そうだね。正確には執着しているというか……獲物に目をつけた感じというか……」
「……とても物騒な表現だけれど、そっちのほうが合っている気がするわ。もしかしてクラウス様って、かなり面倒な方……なの?」
「間違いなく面倒だね。というか、ずっと頭痛の種だった。彼は以前から、君にちょっかいをかけようとしていたんだよ。僕という婚約者がいるというのに。だから僕は、そのたびに彼を一生懸命追い払ってたんだ」
ライオネルは頭を抱え、小声でつぶやいている。私の知らないところで、そんなことになっていたなんて。
というかクラウスは、私に婚約者がいるから引き下がっていたのだとかなんとか言っていたのに、全然引き下がっていなかったのか。怖い。
「はあ……それにしても、厄介なことになったな。ぼんやりと子犬として過ごしてた間に、あいつにかみついてやればよかった」
「さっきからやけに暗い顔をしているけれど、そんなに良くない状況なの?」
そう問いかけると、彼はためらいがちにうなずいた。
「彼はとても執念深い男なんだ。こうして表立って動き出してしまった今、ちょっとやそっとでは引かないだろう」
「で、でも私の婚約者は、あなただけで」
「うん。僕もそう思ってる。ただ、うちの親やおじさんおばさんまでもがクラウスに押し負けたってのが、問題なんだよなあ……」
「そんな、どうしよう……」
ライオネルは戻ってきた。でもどうにかしてクラウスを追い払わないと、私たちは幸せになれない。しかもそれは、ちょっと……かなり難しいことのように思われた。
あの時私が、クラウスをしっかりと跳ねつけていたら。そんな後悔が、頭の中をよぎっていく。
そんなことを考えているうちに、どうやら私は暗い顔をしていたらしい。ライオネルが励ますように笑いかけてきた。
「悲しまないで、ナディア。ここは僕が何とかするよ」
「でも……私がクラウスをきっぱりと拒否していたら、こんなことには……」
「いや、君が拒否しても変わらなかっただろう。……僕はもう戻らない。きっとみんな、そう思ってたのだし」
「違うわ!! 私は、ずっとあなたを待ってた……」
「ああ、分かってるよ。君は本当に、僕の帰りを信じて待っていてくれた。……ありがとう、ナディア。僕は幸せ者だ」
その優しい声に、また涙がにじんでしまった。泣きたくなんてないのに。
うつむいて、無言で大きく首を縦に振る。私も幸せ者なんだって、そう彼に伝えるために。
そうしたら、ライオネルがそっと頭をなでてくれた。子供の頃、うっかり膝をすりむいてしまった私をなぐさめてくれた、あの時と同じように。
「そんな君に報いるためにも、君を泣かせてしまった償いのためにも、ここからは僕が頑張らないとな。よし、任せてよ」
「……頑張るって、何をするの?」
彼の声には、妙な自信のようなものが漂っていた。思わず問いかけると、いたずらっぽい笑みが返ってくる。さっきまでの深刻そうな顔とは、まるで違う。
「ちょっと、思いついたことがあるんだ。でもそれには準備がいるから、君はこのまま屋敷に戻って待っていて」
「待っているだけ?」
「ああ。おそらく数日のうちに、クラウスがまたやって来る。その時に、決着をつけよう」
決着。本当につくのだろうか。ライオネルが何を思いついたのか分からないけれど、すっかり乗り気になっているクラウスを引き下がらせることができるのだろうか。
「その……あなたはどうするの?」
「僕はもう少しこの森に留まるよ。あ、そうだ。もしクラウスが現れたら、これを燃やして欲しい。裏庭がいいかな。僕はその煙を頼りに、君のところに駆けつけるから。そして彼を、庭に呼び出して欲しい」
そう言って彼は、布に包んだ何かを渡してくる。私の手にすっぽり入ってしまうくらいの、小さなものだ。たぶん、狩りに使うものなのだと思う。前にお父様が、同じようなものを持っているのを見たから。
「ええ、必ず。……来てくれるって、信じてるから」
「ありがとう、ナディア。君がそうやって信じてくれるなら、僕はいくらでも頑張れるよ」
「もう、ライオネルったら……何をするつもりなのか分からないけれど、どうか気をつけて」
「ああ、もちろんだよ」
朗らかに笑ったライオネルが、ふっと真顔になる。
「それと、もう一つ。僕が元の姿に戻ったことは、まだ内緒にしていて欲しいんだ。僕が戻るまでは」
「分かったわ」
「聞きたいことが、たくさんあると思う。けりがついたら、ちゃんと話すから」
「約束よ」
そうして立ち止まり、小指をからめて約束する。その拍子にこぼれ落ちた涙を、ライオネルがそっと拭ってくれた。
それからまた、私たちは無言で森を歩き続けた。ずっとこうしていたい、そんなことを思ってしまう。
彼と離れたくない、クラウスのことなんか考えたくない。でも、そんなことは言えない。
二人の幸せな未来のために、ライオネルは努力すると言った。私は、そんな彼の言葉を信じたい。だから、彼に協力する。わがままなんて、言っては駄目。
やがて、森の出口が見えてきた。すぐ近くに、私の屋敷の明かりが見えている。
「それじゃあ、ナディア。……また、後で」
名残惜しそうにそう言って、彼はただ一人森の中に去っていく。何度も振り返りながら。
私はじっと、その背中を見ていた。彼の姿が見えなくなってもずっと、そちらを見つめ続けていた。
「ナディア! 無事だったか!」
「いきなり飛び出していったと聞いた時は、生きた心地もしなかったわ……あなたまでいなくなってしまったらって……」
そうして喜びと寂しさを抱えて屋敷に戻った私は、不安で真っ青になった両親に出迎えられた。
その時ようやく、二人に心配させてしまっていたことに気づく。申し訳なく思いながら、そろそろと口を開く。
「あの、ライがいなくなってしまって……私、探しにいったんです……でも……見つからなくて……このままじゃ、ライオネルが……」
ライと私が飛び出していって、私だけが戻ってきた。ライが行方不明になってしまったら、もうライオネルは戻ってこない。
そうほのめかしたのに、二人の顔色は変わらない。ただひたすらに、私の無事を喜んでいるだけだった。
はっとしながら、そんな二人を見つめる。
ああ、二人は最初から、ライオネルが子犬に変わったなんて信じてはいなかったんだ。そう実感した。
もしかしたら、おじさまとおばさまもそうなのかもしれない。世話をする人手が足りなかったとはいえ、私がずっとライを手元に置いていても、二人とも何も言わなかった。
山神様のことを信じていなかったのは、私も同じだ。それでも私は、信じていた。ライはライオネルなのだと。絶対にライオネルは戻ってくるのだと。たぶん、この世でたった一人。
ほんの少しの誇らしさと、両親たちへのいら立ち。それが、私の背中を押してくれた。ライオネルが戻ってきたということを黙っている、隠し事をする後ろめたさを吹き飛ばしてくれた。
だから私は、黙って両親の言葉にうなずいていた。今までと同じような、ちょっと寂しそうな笑顔を作って。
そうして夜遅く、部屋で一人きりになって。
「夢じゃ……なかったのよね」
夕方からのことが、次々と頭によみがえってくる。ライオネルとつないだ手の温かさも、まだ覚えている。
ライオネルは、元の姿に戻った。そして彼は今、クラウスを何とかするために準備をしている。
「でもいったい、何の準備なのかしら……それに、山神様の山で準備するって……」
分からない。いくら考えても、予想がつかない。
「彼は昔から、意外と思い切ったところがあったから……」
昔二人で見た本に描かれた、不思議な光景。そこに実際に行こうと、子供の彼は言っていた。
普通の貴族なら、そんなことはまず考えない。そしてあの頃の私たちは、一応その辺りの分別がつく年ではあった。
「でも彼ならきっと、やり遂げてくれる」
そんな期待が、私の胸には満ちていた。それと同時に、うまくいかなかったらどうしようという不安がひとかけら、胸の奥底でたゆたっている。
「私は、信じるの」
彼が渡してきた謎の何かは、箱にしまって机の上に置いてある。クラウスが来たら、これを裏庭で燃やして煙を立てる。それが、私の役目だ。
「私も、やり遂げてみせるから……」
ここにはいない大切な人に、そっと呼びかけた。もちろん、返事はなかった。
その二日後、ついにクラウスが私の屋敷にやってきた。