5.再会
見覚えのある体格、あの雰囲気。
その人が、こちらを向いた。ああ、神様。
「ライオネル!!」
「……ナディア……」
月明かりに照らされたその人の顔は、間違いなくライオネルのものだった。彼は戸惑ったような顔で私を見て、そろそろと名前を呼んでくる。
何度、この声を聞きたいと思っただろう。何度、この顔が見たいと思っただろう。
気がつけば走り出していた。そのまま、ライオネルの胸に飛び込む。勢いよく抱きついた私を、彼はしっかりと支えてくれた。
「ライオネル、本当にあなたなのね!」
「ああ。……心配、させちゃったね。ごめん」
「いいの、戻ってきてくれたから……」
そこからはもう、何も言えなかった。私の言葉が、次から次から泣き声に変わっていく。
ライオネルに抱きしめられたまま、わんわんと大声を上げて泣く。少しも悲しくはないのに、涙が止まらない。
けれどもう、夜の森も怖くはなかった。
そうしてひとしきり泣いて、私が落ち着きを取り戻してから。
彼はゆっくりと、語り出した。ここまでのことを。
「子犬になってからのことは、はっきりとは覚えていないんだ。まるで夢の中にいるような、そんな気分で」
決まりが悪そうに、ライオネルは頭をかく。
「ただ、自分が犬であることは理解していたよ。……どこか寂しげに、僕を『ライ』と呼ぶ君の声も」
「……うん。聞こえてたのね」
「思えばあの声が、僕を僕としてつなぎ止めていてくれたのかもしれない。僕が本当に犬になってしまうのを、止めていたのかもしれない」
「だとしたら、嬉しいわ。……私の頑張りは無駄じゃなかったって、そう思えるから」
にこりとライオネルに笑いかけたものの、彼の表情は暗い。
「でも僕のせいで、君を泣かせてしまった……」
彼は私から目をそらして、しょんぼりとうつむいてしまった。
「……ひとりきりで泣く君を見たとたん、突然頭の中にかかっていたもやが晴れたんだ。僕は犬じゃない、人間なんだって、はっきりと思い出せた」
彼は顔を上げて、私を見た。決意に満ちた強い目で。
「このままじゃいけない、早く人間に戻らないと。そう思って、山神様に会いにいったんだ。あの時の無礼を詫びて、そしてお願いするために」
もしかしてこの近くに、山神様がおられるのだろうか。ちょっと怖くなってしまって、そっと自分自身を抱きしめる。
「山神様の前で、必死に訴えた。『僕はようやく、自分の罪を悟りました。ですがどうか、もっと別の罰を与えてもらえませんか。僕がこのままだと、大切な人が一人で泣くことになるんです』って」
その言葉に、また泣きそうになる。ぐっとこらえて、彼の話に耳を傾けた。
「そうしたら山神様は、『お前の身を心から案じる者。禁忌を知り、それでもなおお前を迎えにくる者。そのような者が現れれば、お前を元の姿に戻してやろう』って言ったんだ」
ライオネルは言葉を切り、切なげに息を吐いている。それから弱々しい声で、さらに続けた。
「……ああ、無理だろうなって、そう思った。禁忌を知る人たちは、それがただの言い伝えではないのだと知っている。ほかならぬ、僕のこの姿のせいで」
ライと同じトースト色の髪を振り立てるようにして、ライオネルは苦しげに首を振った。そうしてそのまま、うつむいてしまう。
「僕を迎えにこの山に入れば、自分も獣にされてしまう。それが分かっていてここに来る人なんて、いるはずがない」
伏せられていた彼の目がゆっくりと動き、私をとらえる。その顔に、優しい笑みが浮かんでいく。
「でも、こうして君が来てくれた。……驚いたよ。ありがとう」
その言葉に、頭にかっと血が上るのを感じた。『驚いた』。つまり彼は、私が来るなんて思っていなかったということで。
「馬鹿、ライオネルの馬鹿っ!!」
「ナディア?」
「私が来るって、信じてくれなかったの!?」
突然叫んだ私に、ライオネルが目を丸くしている。そんな彼に、さらに叫ぶ。
「あなたがいなくなるより怖いことなんてない!! あなたを見つけるためなら、何だってするんだから!!」
けれど、声を張り上げられたのもそこまでだった。一気にこみあげてくる涙に、唇が震えてしまう。
「……絶対に、あきらめたりしないんだから……」
涙声でそう言う私の頭に、ライオネルはぽんと手を置いた。大きくて、温かい。
「うん、そうだよな。……君は昔から、そうだった。まっすぐで強くて、とってもまぶしくて……」
頭の上から、この上なく優しい声が降ってくる。
「僕は子供の頃から、そんな君が好きでたまらなかった」
もう、言葉にならなかった。
ライオネルにしっかりとしがみついて、もう一度泣きじゃくる。彼の温もりを感じながら。
そうして私たちは、手をつないで夜の森を歩いていた。森の外へ、私の屋敷へ向かって。柔らかな月に見守られながら。
去り際に彼は、森の奥に向かって一礼していた。「山神様にあいさつしておかないとね」と言いながら。
私も彼にならって、深々と頭を下げた。彼を返してくれてありがとうございます、そんな思いを込めて。
もうすっかり夜がふけていた。けれど不思議なくらい、ライオネルの足取りには迷いがなかった。月明かりしかない薄暗い森の中を、彼はまるで昼間のようにすいすいと歩いている。
彼に手を引かれて歩きながら、ずっと気になっていたことを口にした。
「……ねえ、教えて欲しいの。あの日のこと。何があったのか……あなたに何が起こったのか」
「そうだね。君にも心配かけてしまったし。きちんと話しておかないと」
ライオネルは静かにそう答えてくれた。それから、考え込んでいるかのようにゆっくりと話す。
「……あの日僕は、どうしても鹿を仕留めたかったんだ。屋敷で待っている君のために。君の喜ぶ顔が見たくて」
あの日、彼は鹿を深追いして森の奥へ進んでいってしまったのだと、お父様からそう聞いている。
彼の気持ちは嬉しい。でも、そんな無茶をして欲しくなかった。それも、私のためなんて。
また、胸がきりりと痛む。空いたほうの手を、ぎゅっと握りしめた。
「そうして森の中を追いかけ続けて、ついに鹿を追い詰めた。鹿は、とても大きな木の前でうずくまっていたよ。息も荒く、ぐったりとしていた」
その時のことを思い出しているのだろう、ライオネルがふっと言葉を切って、短く息を吐いた。
「とどめを刺そうとして鹿の前に立った時、どこからか声がしたんだ。すぐ近くから聞こえているようにも、遙か遠くから聞こえているようにも思えた。いや、直接頭の中に聞こえているようでもあったな」
それって、まさか。思わず息をのむ私に、彼はゆっくりと告げる。
「その声は、厳かに言った。『我が領域たるこの山で、無闇な殺生はまかりならぬ』と」
「……もしかして、山神様の、声……?」
「ああ。でもあの時の僕は、どうせ迷信だって思っていた」
彼だけじゃない。私も、お父様もお母様も、そしておじさまとおばさまも。みんな、本気で信じていなかった。あんなことになるまで。
「だから僕は、その忠告を気にもしなかったんだ。薄気味悪いなって思うだけで。……できることなら、あの時の自分をぶん殴ってやりたいよ」
そう言ってライオネルは、ふざけて自分を殴るような動きをしてみせた。けれどその目は、とても暗かった。
「そうして、鹿の首に刃を突き立てようとしたら……急に目が回って、頭がぼんやりして……そこから逃れなくてはいけない。そう思った」
彼は目を細め、苦しげに語る。
「よろめきながら、必死に歩いた。いつの間にか、世界がどんどん大きくなっていて……下に見ていた草花が、僕の真横にあった」
彼は目を細め、天を仰いだ。月の光が淡く照らし出すその表情に、彼がまた子犬になってしまうのではないかと、そんなことを思って怖くなってしまう。
いなくならないで、そんな思いを込めて彼の手をぎゅっと握る。彼はしっかりと、その手を握り返してくれた。
「訳が分からなかった。何が起こっているのか、分からなかった。でも、君のところに戻らないといけない。それだけは確かだった」
「ライオネル……」
「誰かが僕を抱え上げて、どこかに連れていった。そうして、心配そうな君の顔を見て……あとはぼんやりとした、子犬の夢の中だ」
彼は無念そうに目を伏せて、弱々しくささやいた。
「それから、どれくらい経ったのか。ふと我に返ったら、君が泣いていた。きっと君の涙が、僕を正気に戻してくれたんだろうな」
話し終えたライオネルは、微笑みながらこちらを向く。いつもと同じ、優しい笑顔。ああ、本当に戻ってきてくれたんだ。そんな実感が、ようやくわいてきた。
ほっとする私に、ライオネルは心配そうな顔で声をかけてくる。
「ところでナディア、君のほうは大丈夫だった? 僕がいない間に、何か困ったことはなかったかい?」
その言葉に、にっこり笑ってうなずく。
「ええ、あったにはあったけれど、もう大丈夫。こうして、あなたも無事に戻って来てくれたから。……これでクラウス様の妻にならなくて済むわ」
ところが最後の一言に、ライオネルが顔色を変える。
「ちょっと待って、今クラウスって言った!?」




