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1.子犬と私

 私の家の領地には、山神様の住まう山がある。


 そこは深い森に覆われた、手つかずの自然に満たされた地だ。


 私の家は代々、その山を守っている。山に立ち入ってはならないと人々に言い聞かせ、山を見守っているのだ。


 あの山に入ってはならない、もし入ってしまったらすぐに山から出るように。さもないと、山神様の罰を受けることになる。


 この辺りに住む人間なら、みんなその話を知っている。子供の頃から、耳にたこができるほど聞かされるから。


 でも山神様なんて、本当にいるはずがない。みんなそう思いつつ、ちゃんと言いつけを守っていた。


 私もそう思っていた。あれはただの迷信なんだって。


 そう、昨日までは。






 きゅんきゅん。


 とっても可愛い子犬が、甲高い声で鳴きながらこちらを見つめていた。ちょっぴり長めの毛は、こんがり焼けたトースト色。


 くるんと巻いた尻尾をちぎれんばかりに振って、小さな舌をちらりとのぞかせて、その子犬は元気よく鳴いている。


 ただ不思議なことに、子犬を連れてきたお父様は真っ青な顔をしていた。私に子犬を手渡すと、自分を抱きしめるように腕を回して震えている。


 急に狩りから戻ってきたと思ったら、この様子だ。いったいどうしたのだろう。


 子犬を落とさないようしっかりと抱きしめて、お父様に問いかける。


「お父様、どうかなさったのですか? それに、ライオネルとおじさまはどこですか? ……まさか、二人の身に何か?」


 ライオネルは、私の婚約者だ。


 領地は隣同士、家の格もほぼ同じ。そんなこともあって、私の家とライオネルの家はとっても仲がよかった。


 そんな二つの家に生まれた、同い年の子供たち。それが私たちだった。自然と、私たちはしょっちゅう一緒に過ごすようになっていた。


 だから彼との婚約話が持ち上がった時も、戸惑いはしなかった。これからもずっと彼と一緒にいられるのだと思ったら、嬉しかった。


 そうして私たちが婚約してからは、私たちの家の交流はさらに盛んになっていた。


 今日も、お父様とライオネル、それにライオネルの父――私にとってはもう一人の父親のようなものなので、親しみを込めて『おじさま』と呼んでいる――の三人で、狩りに出かけていたのだ。いつものように。


 ちなみにおばさまは私の屋敷に来ていて、お母様と世間話に花を咲かせている。


 そして、狩りが終わった三人を女性三人で出迎えて、みんなで夕食をとりながら和やかにお喋りする。それが、毎回のお決まりになっていた。


 それなのに今日は、顔色を変えたお父様だけが子犬を抱えて戻ってきた。こんなこと、今までになかった。


「……その、落ち着いて聞いてくれ、ナディア」


 首をかしげている私に、お父様は震える声で告げる。


「その子犬が……ライオネルなんだ」




 あまりにも信じがたい言葉に、たっぷり三秒は考え込む。腕の中の温かくて小さな子犬を、じっと見つめながら。


 この可愛い子犬が、ライオネル。まさか、そんな。お父様は私をからかっているに違いない。


 そう思おうとしたけれど、尋常ではないお父様の顔色と様子は、その言葉が冗談ではないことをありありと物語っていた。


「お父様……いったい、何があったのですか?」


「自分でもまだ信じられないのだが、実は……」


 そうしてお父様は、語り出す。ぶるぶると震えて、冷や汗をかきながら。


 お父様たちと狩りに出たライオネルは、手負いの鹿を追いかけて狩り場から離れていった。そしてなんと、彼はそのまま山神様の山に入っていってしまったのだった。


 家で待つナディアに、好物の鹿肉のシチューを食べさせてやりたいんだ。鹿は今の季節が一番おいしいから。彼は朝から、そう言って張り切っていた。


 そんなこともあって、肉付きのいい鹿を逃がしたくなかったらしい。


 仕方なく、お父様とおじさまは山のふもとで彼の帰りを待つことにした。お父様はそわそわしながら目の前の森を見つめ、おじさまはのんびりと構えて。


 やがて二人の前に、再びライオネルが姿を現した。うつろな目をして、ふらふらとよろめきながら。


 彼はお父様とおじ様の前までやってくると、ふらりと倒れかかり……抱き留めようとした二人の腕は宙をかいた。


 次の瞬間、ライオネルの姿は消えていた。後にはどことなく彼を思わせる雰囲気の、人懐っこい子犬だけが残されていた。


 お父様はそんなことを語り終えて、せわしなくハンカチで汗を拭っている。


「シチューなんて……そんなもののために、こんなことになってしまったの?」


 腕の中の子犬に語りかけると、子犬はきらきらした目でこちらを見上げてきた。それからあふうと小さくあくびをして、私に抱かれたまま眠ってしまった。


 本当に、この子犬がライオネルなのだろうか。この子の毛皮の色はライオネルの髪の色と同じだし、よく見ると顔立ちも似ているような、いないような。


 ともかく、ライオネルが行方不明だということと、この子犬がこうしてここにいるということだけは確かだった。




 ライオネルかもしれないこの子犬、その世話は私の仕事になった。


 おじさまは、驚きのあまり寝込んでしまった。おばさまはおじさまの看病でつきっきりになっている。


 お父様はそんなおじさまの執務を肩代わりするために、そしてお母様はおばさまを励ますために、二人してライオネルの屋敷に毎日のように通うようになった。


 そんなこんなで、この子犬の面倒を見られそうなのは私だけだった。それにこの子がもし本当にライオネルだというのなら、この子をめったな相手に任せたくはなかった。


 そして今日も、皿を手に子犬に呼びかける。


「ライ、ご飯よ」


 子犬にライオネルと呼びかけるのも妙な気分だったので、ひとまずライと呼んでいる。


 床を走り回って遊んでいたライは、声をかけると尻尾を振って近づいてきた。彼はくわえていた何かを、私の前にぽとりと落とした。


「あら、くれるの? ありがとう。……こうしていると、本当に犬ね」


 ライが持ってきてくれたのは、端切れで作った小さなクッションだ。


 私の手のひらに載ってしまうほど小さなそれを、ライはすっかり気に入ってくれた。そうしてこんな風に、しょっちゅうくわえて走り回っている。


 ライに、ライオネルとしての自覚があるのかないのか分からない。むしろ、自覚していない気がする。けれど、ひとまず私にはすぐになついてくれている。


「今日もあなたは元気ね。よかった」


 ものすごい勢いでご飯を食べているライを見ながら、ぽつりとつぶやく。


 ライの面倒を見ることにしたものの、ここまでにはたくさんの問題が立ちはだかっていた。食事も、その一つだった。


 犬が何を食べるのか、私は知らなかった。なので、使用人のみんなに相談してみたのだ。


 もちろん、ライオネルが子犬になったかもなんてことは伏せて。事情があって少しの間子犬の世話をすることになったのと、そんな言い訳を添えた。


 そうして、ようやくライのご飯が決まった。蒸して刻んだ肉と、生の野菜だ。


 みんなは「犬の餌なんて、生でいいですよ」と言っていたけれど、もしこの子が本当にライオネルだとしたら、生肉は嫌だと思うのだ。


 そんな一幕を分かっているのかいないのか、ライはとても元気よく食事を平らげ、満足げにげっぷをしている。


「おいしかった? あら、口が汚れてるわ。拭いてあげるわね」


 ハンカチを握って、反対の手をライに向かって伸ばす。


 ライは楽しげにきゃんと鳴いて、私の手から逃げ回り始めた。遊んでもらえると思ったらしい。


 うっかり踏みつぶさないように、手加減して追いかける。ライは弾むような足取りで、ぴょんぴょん走っている。


 少しだけそうやって一緒に走ってから、さっきライが渡してくれたクッションを手にした。


「ほら、ライ。取ってきてちょうだい」


 クッションを振って、それから広いところにぽんと放り投げてやる。ライは全速力でそれを追いかけていった。


 たたたた、と走って、クッションのところで止まろうとして止まれない。そのまま、勢い余って転んでしまった。


 けれどすぐに立ち上がって、けろりとした顔でクッションをくわえて戻ってきた。


「ふふ、いい子……よしよし」


 頭をなでられたライは、くるんと丸まった尻尾をちぎれんばかりに振っている。とっても可愛い。でもその可愛らしさに、気分が暗くなる。


 今のところ、ライはまるきり子犬そのものだった。よく食べ、よく遊び、よく眠る。


 このまま元に戻らなかったらどうしようと、そんな思いが脳裏をかすめてしまうくらいに。


 きゃうん? という声に、我に返る。


 床に座り込んだ私の膝の上にライが乗って、私の手をぺろぺろとなめていた。気のせいか、とても心配そうな顔をしている。


 ライの舌は柔らかくて、くすぐったい。泣きそうになるのをこらえながら、ライに笑いかける。


「ありがとう、ライ。落ち込んでると励ましてくれるところ、ライオネルにそっくり」


 ライオネルの名前を口にした拍子に、また気分がずうんと落ち込む。


 駄目だ、このままじゃ。


 本当の本当にこの子犬がライオネルだというのなら……私としては、まだ信じられないけれど……このまま普通に世話をしているだけでは駄目だ。


 何か、しなくては。彼の記憶が戻るような、そんなことを。


「……あ、そうだわ」


 お腹がいっぱいでちょっと眠そうなライを抱いて、部屋を出た。


 暗い気分を追い払うために、ささやかな希望をつかむために、行動を起こそう。そう思ったのだ。

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