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2.思い出の場所を、二人で

 そうして私はライを抱いて、庭に出た。裏庭に近い一角に生えている、大きな木の下までやってくる。


「ほら、着いたわ。……あ、待ってちょうだい、ライ」


 ライがもがいたので、いったん地面に下ろしてみる。


 すると彼は、通りがかった蝶々を追いかけて走っていってしまった。お尻を振って、弾むような足取りで。


 走って追いかけて、花壇の中に突っ込みかけていたライをどうにかこうにか捕まえる。本当に元気だな、この子は。


 ライはまだ遊びたいとばかりに足をばたばたさせていたけれど、頭をなでてやったらおとなしくなった。


 改めて木のところに戻り、ライと一緒に木を見上げる。そうして彼に呼びかけた。


「小さい頃、よく二人でこの木に登ったの、覚えてる? 春になるとあふれんばかりに花をつけて、とっても綺麗だった」


 ライは小さな耳をぴんと立てている。まるで私の話に聞き入っているような、そんな様子だった。


 今は青々とした葉を茂らせている木を見ていると、自然と思い出がよみがえってくる。


 あれは私たちがまだ無邪気な子供だった、ずっと昔のこと。



「ほらライオネル、こっちこっち! はい、私の手につかまって」


「ありがとう、ナディア。よい……しょっと」


「あと少し、頑張って!」


 十年ほど前のある春の日、少女と少年がこの木に登っていた。愛らしい顔に、楽しげな笑みを浮かべて。


 年の頃も背の丈も同じ二人は、まるで双子のようだった。


 はらはらしながら木の下に立つ使用人たちに見守られながら、二人は太い枝に並んで腰を下ろす。


 少女がうっとりとした顔で、隣の少年に話しかけた。周囲で咲き乱れる、かすかに紅色を帯びた白い花を見つめながら。


「私、ここが好きよ。花が雲みたいで、その雲に包まれてるみたいな気分になるから」


 少年も頬を上気させて、にっこりと笑っていた。彼の目は、隣の少女に向けられている。


「うん、僕もだ。それに君と一緒に見ると、すごく幸せなんだ」


「私も、ライオネルと一緒だともっと楽しいわ」


 そうして二人は、くすくすと仲良く笑い合う。それから少年が、少女を称賛の目で見つめてつぶやいた。


「それにしても、ナディアは木登りがうまいなあ。僕は助けられてばかりだ。それにかけっこも、僕より速いし」


「大丈夫よ。私があなたに教えてあげるから。だからこれからも、一緒に遊びましょう」


「うん、よろしく。ナディアが教えてくれるのなら、僕も強くなれると思うんだ」


 そんなことを話しながら、子供たちはまた明るい笑い声を上げた。一面の花の中で。


 ひらひらと散る花びらも、二人につられて笑っているようだった。



「……私、もう一人ではこの木に登れないの。体はすっかり重たくなってしまったし、足も昔ほど強くはないから」


 子供の頃に並んで座ったあの枝は、手を伸ばしても届かない。あと少しのところで、つかめない。


「でもあなたはすっかり大きく、強くなった。あなたなら今でも、一人で木に登れそうね」


 ここにいるのかいないのか分からないライオネルに、静かに呼びかけた。


「私、またあなたと木に登りたい。花に包まれた素晴らしい光景を、またあなたと並んで眺めたい。……今度は、あなたに助けられて登りたい」


 ライは何も言わず、身動き一つせず、ただじっと上を向いていた。




 その次の日、私はライを抱いて馬車に乗っていた。すぐ近くにあるライオネルの屋敷に向かうために。


 ライが本当にライオネルなのだというのなら、生まれ育った屋敷で過ごす時間も必要だと思ったのだ。それをきっかけに、ライオネルとしての記憶や自覚が戻るかもしれないから。


 もっとも彼は、子供の頃からしょっちゅう私の屋敷に遊びに来ていたので、彼にとっては私の屋敷も実家のようなものになっていたけれど。


 わらにもすがる思いで、ライオネルの屋敷に足を踏み入れる。おじさまに続いておばさままでもが心労で寝込んでしまったせいで、屋敷の空気は重い。


 顔なじみの使用人たちにあいさつして、屋敷の中を一人突き進む。もちろん、ライをしっかりと抱いたまま。


 私も私で、ここには数えきれないくらい遊びに来ている。だから、屋敷の間取りは完璧に頭に入っていた。


 迷うことなく突き進み、そのまま書斎に入っていった。ライオネルの家の当主たちが、代々引き継いできた場所に。


 本当は、ここはおじさまの部屋だ。鍵こそかかっていないけれど、勝手に入るのは褒められたことではない。


「……私が自分からここに忍び込もうとするのは、初めてね」


 そうしてまた、昔のことを思い出していた。大きくなって外遊びも減ってきた私たちが、二人一緒にここに忍び込んだ時のことを。



「ねえ、勝手に入ってしまってよかったの?」


 少女が愛らしい顔を曇らせて、自分よりも少し大きくなった少年の背中に呼びかける。


 少年はうきうきとした笑顔で、ずらりと並ぶ本の背表紙を眺めていた。


「いいんだよ。ここは僕の父さんの部屋なんだから。中のものを持ち出したら怒られるかもしれないけれど、ここでこっそり読むくらいは大丈夫」


 そうして彼は、一冊の大きな本を引っ張り出した。しっかりとした革の表紙に、金色の箔で文字が刷り込まれている。


「あったあった。この本、こないだ父さんが出入りの商人から買ったんだ」


「『絶景探訪記』……? どういう本なのかしら」


「すっごく素敵なんだ。ほら、こっちで一緒に見よう」


 少年はそわそわしながら、少女の手を引いて近くのソファに連れていく。二人並んで腰を下ろし、二人の膝の上に本を置いた。


 そうして少年は、待ち切れないといった様子で本を開いた。少女が驚きに目を見開く。


「うわあ、すごいわ……」


 開いたページの片方に、写実的な風景画が載っていた。少女はため息を漏らしながら、そこに広がる風景に見入っていた。


 まるで彫刻のように複雑な形をした岩がいくつも連なり、美術品のような、あるいは怪物のような姿を見せている。


 その岩の下のほうには、海面が見えていた。打ち寄せる波が岩にぶつかり、繊細な水しぶきを跳ね上げていた。


「これ……海岸、よね。見たこともない不思議な形……こんな場所、本当にあるのかしら?」


「あるさ。ほら、ここの地図を見てよ」


 少女が風景画に興味を示したのが嬉しいのか、少年は弾んだ声で答えながら隣のページを指さす。


 そこには解説文と共に地図が描かれ、その海岸がある地点が示されていた。


「わあ……こんなところにあるの。結構遠いのね」


「ここからだと、ちょっとした旅になるね。でも僕は、この海岸を実際に見にいくつもりなんだ」


「……本気で言っているの、ライオネル?」


「僕は本気だよ、ナディア。それに、行きたいのはここだけじゃない」


 まるで一人前の男のような表情で言い切って、少年はさらにページをめくった。二人の膝の上に、さらに様々な風景が広がる。


 砂の海の中にぽつんと広がる澄んだ泉、極彩色の鳥たちが飛び交う緑鮮やかな密林、雪をかぶった険しい山々。


「綺麗……この世のものじゃないみたい……」


 柔らかな頬を感動に赤く染めて、少女はまばたきも忘れて本を見つめている。そんな少女に、少年は優しく語りかける。


「ね、素敵だろう? ……その、さ。こんな素敵な場所を、いつか二人で一緒に見にいこうよ」


「うん……ちょっと、怖いけれど、私も見てみたいわ」


 少女はまだためらいながらも、そんな言葉を返している。


 美しいその光景は、人を寄せつけない自然の厳しさを感じさせるものだった。それに何より、今の彼女にとっては恐ろしく遠い場所のように思えていた。


 そんな彼女に、少年は頼もしく笑いかけた。


「大丈夫、安心してナディア。僕がついているから」


「約束する?」


「ああ、約束だ」


 そうして二人は、しっかりと小指をからめた。ずっとずっと先の未来を、誓うために。


 お互いの姿だけを、しっかりと目に焼きつけるかのように見つめ合ったまま。


◇ 


「あの時の約束、一度だって忘れたことはないわ。……ねえ、戻ってきて、ライオネル。あなた、いつも約束は守ってくれるでしょう……? このまま帰ってこないなんて、絶対に駄目だからね……」


 ライを床に置いて、両手で顔を覆った。ここでこうしていると、どうしてもあの約束のことを思い出してしまう。


 あれから何度も、私たちはこの書斎に忍び込んで、あの本を読んだ。大きな地図を広げて、実際に旅行の計画を立ててみたりもした。


 大人になったら、一緒に行こう。いつしか、それが私たちの合い言葉になっていた。最初は半信半疑だった私も、いつの間にかその日を楽しみにするようになっていた。


 でも、ライオネルはいなくなってしまった。幸せな未来も、あの日の約束も、一緒になくなってしまった。


 必死に涙をこらえていたら、足に柔らかなものがぽすんとぶつかった。


 そろそろと足元を見ると、ライが元気よく尻尾を振ってこちらを見上げていた。笑みを浮かべているようなその表情に、張り詰めていた気持ちがほぐれていく。


 頭をなでてやろうとかがみ込んだら、ライはするりと私の手から逃げた。そしてそのままとことこと、書棚に向かって歩いていく。


「えっ……? それって……」


 ライの小さな前足が、一冊の本の背表紙にかけられている。何度もライオネルと読んだ、あの本だ。


「これが……見たいの?」


 震える手で本を取り出し、ライを抱えてソファに座る。あの頃と同じように。


 ライは私の膝によじ登って、軽やかにほえていた。いつもよりご機嫌な気がする。


 私がページをめくってやると、ライはぶんぶんと尻尾を振りながら身を乗り出し、一生懸命に本を眺めていた。浮かれたような鳴き声を上げながら。


「あなたは……やっぱり、ライオネルなのね」


 その姿に、胸が苦しくなった。山神様の罰は、本当にあった。ライオネルは、ライになってしまった。今さらながらに、そんなことを実感してしまったから。


 けれど、悪いことばかりでもない。ライは、この本のことを覚えている。だったらいつか、ライオネルは戻ってくる。あの約束を果たしに。


 そう確信しながら、ライをそっとなでた。はしゃぎ疲れたのか、いつの間にかライは私の膝の上で眠っていた。

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