049 疲弊と安らぎ
リビングでの攻防があった約一時間後、自室のドアをノックする音で瑞貴は目覚めた。
あんなことがあって混乱した状態でも眠れてしまえるほどに瑞貴の体調は悪かったらしい。
「……入るね」
たった一ヶ月前には全く想像出来なかった光景である。瑞貴は未だ夢の中にいるような錯覚にすら陥ってしまった。
お粥鍋を運んできた秋月穂香が瑞貴の部屋に立っている。
大黒様とコンビニ前で一緒に待っていたのは20日くらい前だったはずで、それから急激に仲良くなっていった気がする。
「人の家の台所を使うのって何だか緊張するね」
「……ごめん、本当にありがとう」
お互いに強烈な緊張感がある。親が不在になっている状況で二人だけ残してしまうこともだが、その状況を作り出した張本人が親であることも異常だ。
瑞貴の体調では何も出来ないと考えているのか、大黒様が見ていることで緊急事態を防げると考えているのか瑞貴には分からない。
瑞貴が食べている間に大黒様の晩御飯も準備するらしく、大黒様を連れて秋月は部屋を出ていった。
――秋月さんが作ってくれたお粥か……
感慨深く味わって食べたが、お世辞を抜きにしても美味しかった。
休日に本を借りて料理をするくらいなのだから本当に好きなのだろう。料理に関心がない瑞貴には細かいことまで分からない。
体調が悪い中でも残さず食べることが出来た。
食べ終えた鍋をテーブルの上のお盆の置いてから、お茶を飲んで一息ついていた。この部屋で一人になるのは久しぶりに感じられて思わず自分の部屋を見回してしまっていた。
再びノックをして秋月が入ってくる。
「……どう、だった?」
「すごく美味しかった。ありがとう。……俺一人で適当に済ませるところだったから助かりました」
「……本当に?」
随分と慎重な聞き方だったが、瑞貴は『本当だよ』と言葉短く答えた。
「……良かった。……一応、パンケーキの返事待ちだから、ちょっと心配してたんだ」
「……あっ。」
「えっ?……忘れてたの?自分で『少し考えさせて』って言ったんだよ?」
「もちろん、ちゃんと覚えてる。……ちゃんと考えてた」
今の今まで忘れていた。慌ただしい時期に返事を先送りにしてしまうと、そのことを忘れてしまう可能性が高い。秋月は明らかに疑いの眼差しで瑞貴を見ている。
「……まぁ、いいけど」
僅かの沈黙でも緊張感が高まってしまう。いつもの部屋であれば点いているはずの大黒様テレビも消されており室内は静かだった。
「そう言えば、大黒様は?」
「ご飯を食べ終わったら、リビングで寝ちゃってたよ」
「大黒様が?1階で寝てるの?……テレビも見ないで?」
「えっ?……大黒様ってテレビを見るの?」
瑞貴は大黒様が1階で眠っていることが不思議なことで、秋月は大黒様がテレビを見ることが不思議なこと。認識の違いが不思議に感じさせるポイントにズレを生じさせてしまう。
「あっ、一昨日も連絡くれて、ありがとう」
「……役に立てたかな?……山本さんも気にしてたよ」
「あぁ、十分過ぎるくらいに役に立った。……今度、山本さんにもお礼言わないとね。でも、俺のことは避けたいかな?」
「たぶん、そんなことないと思う。……山本さん、『ごめんなさい』って言ってた」
あの時は黒い感情に任せた発言をしていた。瑞貴自身も黒い感情の源である靄が自分の体から出ているところを直接見ていた。
山本は事実を語ったに過ぎないので、本来であれば瑞貴に責められる謂れはない。
「……少しくらいなら聞いてもいいのかな?……『山咲瑠々』ちゃんのこと」
秋月が知りたがって当然のこと。寧ろ、今まで何も質問しないまま協力してくれたことの方が不自然なくらいだった。
瑞貴はベッドに腰かけて、秋月はその正面に座った。
「聞いても全然楽しいことじゃないし……、全部を話すことも難しいんだ。……それでも良ければ」
「うん、それでいい。聞かせてほしい」
話せないこともあれば、話しても信じてもらえないこともある。それに『山咲瑠々』については確定した結末があり、悲しい話にしかならないことになる。
「……山咲瑠々ちゃんとは、あるきっかけで知り合った」
「それって一年以上前のこと?」
「ゴメン。詳しくは言えないけど、違う」
「えっ!?……でも……」
「知り合うはずのない子と知り合ったんだ。……変な話かな?」
「ううん。……大丈夫だよ、聞かせて」
普通に考えれば意味不明な話を瑞貴はしている。それでも秋月に嘘をついたり、誤魔化したりはしたくなかった。
「ある時、瑠々ちゃんが凄く怯える場面があったんだ。近くを歩いてた女の子がお母さんに怒られてるのを見て、すごく怯えてた」
「うん」
「そしたら、瑠々ちゃんが『自分は悪い子』だって言い始めて、お母さんから『邪魔な子』って呼ばれていたらしいことを知った。……それを知らされた俺は信じられなくて、ただ悲しくなった」
「それって……、『虐待』?」
「俺も真っ先に疑ったよ。……でもね、瑠々ちゃん本人が、お母さんを庇うんだ。悪いのは『ママの言うことを聞かない自分』だって。……俺には瑠々ちゃんの想いまで壊すことは出来なかったんだ。……辛い目にあっても頑張って生きてきたのに、信じていたものを否定することなんて出来なかった」
思い出しながら話していると記憶は鮮明に甦ってくる。落ち着いていたはずの感情は再び揺り動かされて悲しみに飲み込まて行く。
瑠々の母親と会って話した瑞貴は瑠々が虐待をされていた事実を肯定する材料全てを持っている。
瑞貴は段々と涙声になっていた。同級生の女の子の前で泣きながら話をする恥ずかしさよりも、誰かに聞いてもらいたい欲求が強かった。
山咲瑠々が生きていた時間のことを自分以外にも知ってもらいたかった。
「……あの子に俺がしてあげられることはなかったんだ」
「瑠々ちゃんは、お母さんが大好きだったんだね……?」
「……そうなんだ。瑠々ちゃんの世界では、お母さんの存在が全てだった。……ただ、お母さんに『良い子』って褒めてもらいたい、『家族』として認めてもらいたい。……ただ、それだけだったんだと思う」
ボロボロと大粒の涙が流れ始めていた。話す順序の組立もせず、思いついたままの言葉を吐き出している会話だ。
「……でも、それで結果が『事故死』ってあり得ないじゃないか。……酷いこと言われて、我慢してたことを無視して、死んだ原因だけで片付けるなんて意味が分からない。…………だから、確認しに言ったんだ!」
段々と語気が荒らくなってしまっていて、秋月に八つ当たりしているようになってしまう。
それでも、秋月は寂しくて優しい表情のまま瑞貴の言葉を聞いてくれていた。その表情を見ている内に瑞貴は誰かに話したかった感情を思い知らされてしまう。
きちんと話が伝わるように心を落ち着けてから瑞貴は話を続けた。
「一昨日、瑠々ちゃんのお母さんに会いに行って直接質問してみたんだ。……瑠々ちゃんに酷いことを言ったりしませんでしたか?……って。……そしたら、バカな子がバカなことをして勝手に死んだだけだ、って言われたよ」
「……そんな」
よく見ると秋月の目からも涙が零れ落ちていた。せっかく来てくれた秋月に悲しい想いをさせていることが情けなかった。
瑞貴は話をすることで気持ちは楽になる。だが、秋月は瑞貴の悲しさの一部を引き受けなければならなくなるのだ。秋月が聞くことを望んだとしても瑞貴は話すべきではなかったのかもしれない。
「……ごめん」
話に脈絡はなくなってしまうが、瑞貴は泣きながら秋月に謝罪していた。
秋月の優しさに甘えてしまった自分の弱さにも後悔する。
「私に話したことを後悔しているなら、そんな必要ないよ。……私は知りたかったの。……滝川君がどうしてあんなに怒っていたのか。……滝川君が誰のために泣いていたのか。……知りたかっただけなの」
そう言って秋月は瑞貴に笑いかけてくれた。
「……俺は、怒って、泣くことしか出来てない」
「そんなことないよ。一生懸命に考えて、滝川君が出来ることを探してたんだよ」
「……でも、結局は何もしてあげられなかったんだ。……また、真っ黒な感情に負けて山本さんの時と同じ怒りを感じていたら、大黒様が止めてくれた。……俺は何も出来なかったんだ」
「『出来なかった』って過去形で言っちゃてもいいの?……もう滝川君の中では終わったことにできるの?」
「……終わったこと?」
瑞貴は鼻を啜りながら秋月の言葉を反芻していた。
何も出来ないことを理解して瑞貴の中で終わったことにしていた。あとはクリスマス・パーティーを楽しんでもらって、無事に成仏させてあげるだけとしか考えていなかった。
無理やり自分の中で『終わったこと』にしてしまい、感情の安定を図っていただけなのかもしれない。
秋月は膝立ちで瑞貴の直ぐ近くまで来ていて、瑞貴をそっと抱き寄せてくれる。秋月の肩口に額が当たるくらいの軽い抱擁。
柔らかな感触と柔らかに匂いに包まれて瑞貴は驚きと恥ずかしさで身動きは取れなくなっていた。
「……悲しかったんだよね、悔しかったんだよね。……でも、子どもたちのために頑張るって決めたんでしょ?……滝川君が悲しい顔をしてたら、きっと子どもたちも悲しいと思うよ」
秋月の優しい声が瑞貴の中に響く。
――俺が悲しいと、みんなも悲しい?
悲しいのは自分だけでいいはずなのに悲しさは伝わってしまう。心から楽しめないままで残り少ない時間を費やすことになってしまう。それは瑞貴が一番避けなければいけないことだったはず。
「だからね、沢山泣いて……、また頑張ろう」
出来ることはあるのだろうか。まだ諦めなくてもいいのだろうか。優しく諭してくれる秋月の言葉には力が込められていた。
子どもたちや信長や秀吉の姿を思い出していた。
思い出している内に瑞貴は再び泣き出してしまっている。嗚咽交じりに鳴き声をあげながら、ただひたすらに涙を流していた。
秋月の『大丈夫だよ』と言う声が何度も聞こえてくる。
その声は子守歌のように心地良く響き、大人になり損ねている瑞貴を眠りに誘っていた。
まだ不条理への耐性に欠ける瑞貴の心は思った以上に疲弊していたのだろう。眠りの誘いに抗うことも出来ずに、いつの間にか瑞貴の鳴き声は寝息に変わってしまっていた。




