中(なか) 2
一瞬の判断で声を出さないように頑張ったが、この怖さはもう表現のしようがない。
私の体は強張りグゲッといびつに縮んだ。
その大きなモノの気配は2階建ての家くらい。今私の20メートルくらい先にいる。
それは私が感じているだけの話で、実際にヤツの姿が見えているわけではないし、うずくまった体制で私のことを狙っているのだと思う。ネコ科の獣が獲物を狙う時のように。
そしてすぐにひどい臭いが私のもとへやって来た。
生温かくてものすごく臭い、ゆるい風が体に当たる。
その大きなモノの腐った粘り気のある息が、私の体にかかっているのだ。
それは今まで嗅いだ事のない、
ありとあらゆる良くないモノの匂いを集めて出来た空気だ。
臭いっ!臭いし食べられる!
私はこの大きなわけのわからないモノに食べられてしまう!膝ががくがくと震えている。逃げなくちゃいけないのに動けない。動けるわけがない。動いた途端にきっと私は捕食されてしまう。
そして動かなくても。
…どうして私がこんな目に遭う?
取り立てて何も悪いことなんてしていないのに。
やっぱり動いた方がいいんじゃないか?ほんのわずかでも逃げられる可能性があるかもしれない。…けれど逃げてどうする?どこに動く?
逃げた後、私はこの暗闇でその後どうしたらいい?
走って走って走って、その後どうする?
臭いはどんどんひどくなって、私は立ってもいられなくなる。我慢できずに込み上げてきた酸っぱい胃液を吐いてしまう。
そいつの気配は私の中でどんどん大きくなってきて、未だ私には赤い目二つしか見えないのに、そいつがどんなモノかがたんだんとわかって来た。
そいつは大きな呪われた犬だ。
その姿はブルドッグに似ているが、頭の大きさが体の半分を占めているような頭でっかちで、その大きな頭の半分もある皺だらけの口から牙をむき出し、その赤い目でこちらをずっと見据えているのだ。
私はそいつの腐った息を浴びながらもう動けずに震える。
ただ、ただ、震えるだけだ。そして胃液をダラダラと吐き続ける。
呪われた犬が、私の胃液の匂いをもう十分嗅ぎつけているに決まっているのに。
最後には胃液も出なくなって、私は変な音の空気を吐いてその場にうずくまった。
小さく小さく小さく…
そしてそこからまたさらに暗くて狭い所へと落ちて行った。
ひゅうううううううううう…
★ ★ ★ ★ ★
私は小さくなり過ぎて自分の姿が何なのかもわからなかった。
いや依然真っ暗闇で自分の姿さえも見えないからなのだが、私は私であるはずなのに、もう私ではないという気がする。
そう、例えると私は砂一粒くらいになってしまった。
存在はしていると思う。
でも本当に自分が「居る」のか「居ない」のかよくわからない。
バサッ、バサッ、とどこかで大きな羽音が聞こえたような気がしたが
それはほんの一瞬の事だ。なぜなら私は落ち続けていたから。
まだ全くの暗闇。どこまでもどこまでも…
でももう赤い眼はどこにも見えない。何も見えない。
もう私の眼は見えなくなっているんじゃないのか?ただここを、ものすごい速さで落ちて行っている事だけがわかる。
どういうわけか怖くはない。
怖くはなくて、ひゅうううううっと落ちるその感覚だけがある。
哀しくもない。
もういろんな事がどうでもいいような気がしてきた。落ちるんなら落ちるでいいし。全く何も見えないなら、もうそれはそれでしょうがない。
ひゅううううっとどこまでも落ちる。
落ち続けて、そしてわからなくなる。今、落ちているのか、ただ浮いているのか。
そして長い長い時がものすごい速さで過ぎ去っているような感覚。こうしているのが当たり前の気持ち。
そして私は私の事を忘れた。
暗闇の中を落ちながら、落ちていく私の周りをいろんなものがすごい速さで近く、遠く、回っているような気もしたが、それももうどうでもよかった。
ただ私は有るか無いかもわからないモノになって落ちて行くだけ。ずっとずっと…
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