助けは来ない 1
焦る。顔全体をぐし、ぐし、と手でぬぐいながら小屋の様子をうかがう。
「…ぅぁ…」声にならないうめき声を上げるがもう遅い。
『次の瞬間』が来たのだ。私はもう小屋の中にいた。
小屋の中は小屋ではなかった。
そこは美術室だった。学校の美術室と全く一緒。後ろの棚にデッサン用のビーナスの頭部や蝋で出来た果物のサンプル。教壇も教卓も黒板も天井も電灯も、そこは全くの美術室。
少し床が高くなった教壇の、すぐ手前の所に私は立っていた。
窓際の、油絵具で汚れた洗い場の脇の柱にかかる鏡の中に、映った自分の顔と目が合ってギクリとする。
私の顔はまだらに黒く汚れていた。
油のようにべっとりとした…これは黒の油絵具だ。溶かし油で薄く伸ばした黒の…
鏡を見て、その汚れを手の甲でぬぐいながら私は、あぁ私なんだな、と思う。
自分の手さえも見えない暗闇の中にいて、自分がいるのかいないのかもわからなくなりそうだったけど、私はいたのだ。ちゃんと。
夢の中でも私は私で、私の顔をしているんだな。良かった私の顔で。誰かの別の顔が映ったりしたら超気持ち悪かったかも。そう思えても鏡の中の自分と目を合わすのは怖かった。
私が見つめた私が、私の事をきちんと見返さないような気がしたのだ。
そして教壇の脇のドアがゆっくりと開いた。
学校の美術室で言うと、そこは美術準備室への扉なのだがゆっくりと開いたそのドアから、「あ、山根」と言いながら出て来たのは真っ黒なキタだった。
キモっっっ!!
真っ黒な、真っ黒な、キタだ。黒以外の色がない。
顔も、手も、今日も来ているコーデュロイのスーツも。目玉にさえ白眼がない。アメリカのシリーズもののテレビドラマに出て来る悪魔の目玉みたいだ。
終わったな私。私はここで獲り殺される。
「あんなに走んなくてもいいのに。可愛いな」
「へ?」素っ頓狂な声を上げる私だ。
え?今、キタは何て言った?
私は窓から暗い外をのぞくが赤い目が見えない。
どこにも見えない。
「こっちにおいで、山根」キタが真っ黒な手を差し出す。
キモいぃっっ!!今までで一番、超絶キモい。
「描いてあげるから」
私はドアの方へ後ずさる。
「ほら、準備室にキャンバス用意してるから」
真っ黒なキタが微笑んだ…嫌だっっ!!
ヤグチ!!!
この夢から覚めて、2年4組のヤグチの後ろの席に戻れたとしても私はもうヤグチとは口聞かない。助けに来てくれないから。
オレがいなかったら目を覚ませ、って言ってくれてたけどそれがなかなか出来ないんだよお願い助けに来て!
後ずさる私は全然ドアに近付けない。
足が動かないのだ。キタがのっそりと近付いてくる。
「ぎゃあああああああっ!!」と私は叫びまくる。
全く後ずされず、キタから逃れられない私の手にキタの真っ黒なベタついた手が触れた。
ぬちょ。
「止めてっ!」
拒んで手を振り払った私をキタは真っ黒な目で見つめてくる。
「ハハハ」とキタは笑ったが口の中まで真っ黒だったので、私は、ううっ、と心の中で唸る。
小さい声で呟くように、唱えるように言う。「ヤグチ君来て」
ニヤっとキタが笑ったので私は大声を出した。
「ヤグチっ、助けてっ」
「来ないんじゃないかな、ここまでは」とキタが言う。
ニヤニヤすんなキタ。
「ヤグチはカッコいいよね。あ~いうヤツはいたよ。僕が高校の時にもいたね。顔が良くて背も高くて勉強も出来てスポーツも出来て、女子にモテてね。世の中って平等じゃないよね。最初からいろんな才能持って生れて来るヤツもいれば、どんなに努力してもうまくいかないヤツもしるし。一人ひとりの運が全て一緒ならさ、世の中みんなもっと仲良く、人の事恨んだり妬んだりしないでうまくやっていけるのに。山根もそう思うでしょう?」
「…」
「そういうわけでヤグチは来ないと思うよ?なんか…山根かわいそうだけど」
憐みの笑みを浮かべた真っ黒なキタに同情された。
ヤグチがいくら私を助けてくれるって言っても、今は残念な事に私も全く信じられないし、ヤグチが私の事を好きでいてくれるのも信じられない。
…チュウまでされたけど。
「好きだって言われて好きになったの?女子ってすぐカッコいい子の事は好きになるよね?最初嫌ってたりしてもさ、今まで冷たくされてたのに急にちょっと優しくされたりさ、強引な事したってカッコいいヤツは許される。
っていうか逆にそれが好まれたりとかな」
はぁ~~とキタはため息を付く。
「それをイケてない男子がやったりするとな」とキタはまだ続ける。「バカにされたり、疎まれたり、笑われたり、気持ち悪がられたりな」
嫌だなぁキタ。実際女子ってそういうとこあるけど、だからって今真っ黒なキタがそれを言っても本当に気持ち悪いだけだ。
「山根も今僕の事、かなり気持ち悪いと思ってるよね?」
思ってますとも!
はぁ~~とキタはまたため息を付いた。
「じゃあ、そろそろ描き始めようか?」とキタが言う。
私は無言でキタを見据えながら首を振った。
ホラ、と美術準備室を指さしてキタがなおも言う。
「ヤグチは来ないって。ヤグチはもっとこう、山根とは違う感じの子が本当は好きなんだと思うよ?もっと派手目で明るくてかわいげがあって…」
パァァァン!と両頬を自分の両手で引っぱたいてみる。
これやっても無駄だったよな全然目なんか覚めない、と思いながら。




