次の瞬間 3
犬だ。
犬がいる。赤い目をしたあの時のあのデカい犬。あの2階建てくらいの頭でっかちな、腐った息を吐く犬。
「ムラヤマさん…ゆっくり後ろを見て」小さな声で私は言う。
「見える?赤い点が二つ」
「赤い点?見えないけど」
「私の声がする逆の方だよ?」
「うん、周り中見てるけど見えない」
見えないんだ!
でも食べられちゃうよ、ムラヤマさん。私たち二人ともあの犬に食べられる。
え~と…どうしたらいいんだ?
委縮したまま私はグルグル考えを巡らす。
ムラヤマさんがいて、ここから出たがってて、でもムラヤマさんの身体の悪い妹はまだこの中にいて、私の見たムラヤマさんの妹は本当の妹じゃないし、妹の事なんてどうでもいいからムラヤマさんは出たいって言ってて…
…所詮ここは夢の中だ。
そうじゃないの?幻覚なの?穴の中なの?何なの?
夢の中だからムラヤマさんの事もムラヤマさんの妹の事も、全く気にしなくていいんじゃないかな。
向こうから犬が私たちをずっと見ているし…動いたら襲われる。きっとあの臭い息のする口で二人いっぺんに食べられて、汚いよだれの中ででぐちょぐちょに噛み砕かれるのだ。
…でも噛み砕かれてもいいんじゃないの?
だって所詮夢だから。いいんじゃないかな、それで目覚めることが出来るなら。
…目覚めることは出来るのかな。
目覚めたとしてまたそこは夢の中なんじゃないのかな。
私は両手で自分の両頬を、パン!!、とつぶすくらいの勢いで叩いてみた。
う~ん…
もう1回。パン!!
う~~ん…
もう1回、もっと強く。パン!!
「どうしたの?」とムラヤマさんが聞く。「もしかしてほっぺた叩いてる?」
「え?う、ううん」
即座に嘘を付いたらムラヤマさんが笑った。
「私もやったよ。何回も」
そうなんだ…
「ムラヤマさん、何回もこういう目に遭ってるの?どうやっていつも目を覚ましてるの?」
「…妹を探すの。一人で何とか抜け出そうとしても抜け出せなくて、やっぱり妹を探さなくちゃ、と思って探して、探しても探しても妹は見つからないんだけど、いつもそのうちピンク色に光ってる小さな鳥が現れて、それが出てくると目が覚める」
私はもう一度、パンっ!!!とほっぺたを叩く。
たぶん私の頬は真っ赤になっているのだろう。見えないけど。
それでもだめだ。目は覚めない。私は相変わらずの真っ暗闇の中にいる。
所詮夢でも幻覚でも、今目覚めることが出来ないのなら私にとってはここが現実だ。
「うっ」とムラヤマさんが唸り、同時に私も「うげっ」と顔をしかめる。
あの犬の腐った息の臭いが漂ってきた。
「臭いっ!何これ?」
あの赤い目が見えないムラヤマさんも臭いは感じてるのか…出来るだけたくさんの息をいっぺんに吸わないように答える。
「信じてもらえないと思うからあんまり言いたくないんだけど、すごいデカい犬がいるんだよ。見えないんだけどね。何かものすごくデカい犬なの。そいつの息のにおい」
「そっか」とムラヤマさんが軽く言うので拍子抜けをする。
が、「私も信じてもらえなさそうな事言うんだけど」とムラヤマさんが続けるので、即座に私は嫌だと思う。聞きたくないよムラヤマさん。
でもムラヤマさんは続けた。
「私には山根さんの向こうの方に黄色い目が二つ見える」
ホラね?
恐る恐る告白する。「私にはその黄色い目って見えないけど」
「そっか、おあいこだね」
「…」
「私にも姿は見えないんだけど」ムラヤマさんは淡々と説明する。「たぶんそいつはヘビなんだよね。テラテラした緑色の、そいで頭は私たちの身長ぐらいだから、たぶん一口で私たち食べられると思うんだけど、身体はそこまで長くない。ていうか、頭の大きさにたいして身体がずんぐりむっくり過ぎ。身体の長さは4,5メートルってとこだと思う。でも頭がでかいんだよ」
止めて止めて止めて…
でもムラヤマサンは続ける。「そいでね、黄色いゲロみたいなよだれをずるずる垂らしてる」
うげ~~~~~…巨大ツチノコだな。
「ねえムラヤマさん、ムラヤマさんの妹のいるところわかる?」
「わかんない。それにあれは本当の妹じゃないし」
「じゃあ他に、ここに誰かいる?」私は声を潜めさらに続ける。「キタの事見た?」
「キタ?キタって美術の?キタが関係あるの?この真っ暗闇に」
ムラヤマさんはキタが変だって事知らないんだ。
「いや、なんとなく」と私は歯切れの悪い答えを返す。
「ここでは見てないけど」
「最後どこで見たの?」
「昨日帰る時にデガワさんとコンドウ君と私が呼ばれたの」
「キタに?」
「そう。でも美術室に行ったらいなかった。少し待ってたけど来なかったから帰ったけど。それで美術室から出たとこで肩にフクロウ乗せてる桜井先生が、キタがいたかどうか聞いてきて、それで『準備室は見たのか』って。でも鍵掛かってたし準備室」
私は2個目の夢で見た、美術準備室の穴を思い出す。灰色のコーデュロイのスーツを着たキタが、ベタベタと油絵具を塗りたくって描いた穴。
よし、と心を決める。
「ムラヤマさん、ごめん、ちょっと嫌かもしれないけど手をつないでもらえる?ちょっと確認のため。ムラヤマさんがちゃんとここにいるって。だって私ホントに全然見えないもん」
ムラヤマさんの方へ右手を差し出すと向こうも私の手を探してくれていて、パタっと指先がぶつかった。そして私たちは手を握り合う。
ムラヤマさんはちゃんとここにいるのだ。温かい手。
でも本当にムラヤマさんかな…
いや!そんな事を考えたらいけない。この人はムラヤマさんだ。
が、ムラヤマさんが言った。「でも本当に山根さんかな?」
「え?」
「私は感覚で山根さんだってわかったけど、ちゃんと見えてるわけじゃないもんね?山根さんも私の事、本当に私かどうか不安にならない?」
「なるよ。なってる。でも頑張ってそれは考えない事にした」
「そっか、山根さんの事、私好きだよ」
「え?」
「よくわかんないけど。ここにいっしょにいるのが山根さんで良かったかも」




