第10話 誰も書かなかった、幸せな結末
初めての待ち合わせで、私は十分、早く着いた。
ロアンは、もういた。
「いつから?」
「少し前だ」
店の人が、彼を見て言った。
「半刻ほど、お待ちでしたよ」
彼は、店の人を見た。
私は、声を出して笑った。
冷酷な監察官は、嘘が下手だった。
仕事のときは、あんなに落ち着いているのに。
私たちは、庭園を歩いた。
彼の服は軍服ではなく、濃い紺色の上着。
私は、監察局では着られなかった、水色の服を着ていた。
「似合う」
言われて、私は顔を上げた。
「服が?」
「服も」
私は、次の言葉を待った。
彼は少し迷い、それでも言った。
「今日の君は、私を見ると笑う。それが、嬉しい」
前は、死なないでほしいと祈るたびに、彼を見ていた。
今は、隣を歩くと、何を話そうかと思う。
同じ顔を見ていても、違う日になった。
帰り道、彼が手を差し出した。
私はその手を取った。
私の歩幅へ、彼の歩幅が、少し小さくなった。
*
半年後、私は王都の小さな劇場で、脚本の仕事を始めた。
知り合いの舞台監督へ、短い喜劇を読んでもらったのがきっかけだった。
侯爵家の娘が仕事をすることに、驚かれることもあった。
父は、一度やってみなさいと言ってくれた。
役者は、私の書いた通りに動かない。
台詞が言いにくいから、変えてほしい。
その場所に立つと、客席から顔が見えない。
この人物なら、黙っている方が自然ではないか。
たくさん、言われた。
私は、紙を抱えて、話を聞いた。
前世でも、話し合う仕事だった。
けれど、今は、誰かが提案してくれると嬉しかった。
私一人の予定より、いいものになるかもしれない。
ロアンは、最初の上演を見に来た。
前の席に座ると怖がられるかもしれないからと、後ろを選んだ。
休憩のとき、子どもに前を譲っていた。
その夜、私へ感想を言った。
「最後、男が約束の場所へ戻るところが好きだ」
「戦いに行っていたわけではありません。買い物です」
「それでも、待つ方は気になる」
私は、少し笑った。
彼も、覚えている。
帰還、と書いたあの日を。
リネットとユーゴも、見に来てくれた。
二人は今、王都の外で暮らしている。
弟は商会で仕事を習い、姉は巡礼者の宿で働く。
聖女の肩書は、本人の希望で、返していた。
舞台が終わると、ユーゴは私へ、名前入りの感想をくれた。
笑ったところに、線がたくさん引いてあった。
私は、その紙を机に置いた。
証人の少年、ではない人の、今日の話だった。
*
ロアンに求婚されたのは、その冬だった。
特別な舞台も、観客もなかった。
仕事のあと、いつもの店で食事をして、帰る途中。
「エステル」
彼が足を止めた。
私の手を、両手で包んだ。
「君のこの先の予定に、私を入れてほしい」
私は、彼を見た。
最初、彼には、私を殺す予定があった。
それを知っているのは、私だけだった。
今は、二人で聞き、二人で答えられる。
「結婚してください、という意味ですか」
「そういう意味だ」
彼は、まっすぐ言った。
「幸せにしたい。少なくとも、君が何を幸せだと思うかを、一緒に暮らして、聞き続けたい」
私は、彼の指を握った。
「私もです」
それから、笑った。
「お互い、生きて帰ってくることを、最初の予定にしましょう」
彼も、笑った。
額へ、温かい口づけが落ちた。
次は、私が彼へ近づいた。
*
結婚しても、彼は監察官を続けた。
私は劇場へ通い、家でも脚本を書いた。
帰るのが遅い日は、連絡が来る。
行き先を話せない日は、話せないと言う。
私が待っていることを、忘れないでくれる。
彼は、贈り物も増やした。
舞台のために調べていた古い本。
私が気に入ったと言った、柔らかい布の膝掛け。
窓の花を見て足を止めた翌日には、同じ花が玄関へ来た。
「買いすぎです」
私が言うと、彼は真剣な顔になった。
「どれが、余計だった?」
私は困った。
どれも、私の話を聞いて選んでくれていた。
「次は、ご一緒に選びたいです」
彼は、すぐにうなずいた。
その週末は、二人で、一つだけ本を買った。
夜、原稿を読み終えると、彼は私の椅子の隣へ来る。
私がペンを置くまで、少し待つ。
置いた途端、腕を引かれて、抱きしめられる。
「今日も、待っていたんですか」
「ああ」
仕事の顔とは、全然違う。
私は彼の胸へ、顔を寄せた。
世間は、まだ、彼を冷酷な監察官と呼ぶ。
私には、半刻早く来ていたのに、少し前だと答えた人だ。
戻った、と真っ先に言ってくれた人だ。
私は、一度、この人の死を書いた。
今は、明日、何を一緒に食べるかを考えている。
机には、新しい原稿があった。
最後の一行は、まだ、書いていない。
ロアンが私の髪へ口づけ、明日は休みだと言った。
私は顔を上げ、行きたい場所を伝えた。
その続きが気になって、今夜は、原稿を閉じた。
完




