外伝 転生者 直樹⑦
WEBフリー辞典より
藤堂 直樹
195X年誕生 202X年死亡。
母親:藤堂祥子
著名な子:多数(藤堂直樹の子供の項参照)
「藤堂の殿様」、「100万人の父親」、「男性解放運動の祖」など多数の称号がある。
転生者との説もある。(立花誠と藤堂直樹記念病院の項も参照)
概要
記録の確認できる範囲で、15年ぶりに誕生した8番目の一万回精役達成者
行為回数は公式認定で10026回(歴代3位)
確認されている出生児数は3221人(歴代12位)
その内の男性15人、名家女性42人は共に歴代1位である。
幼少期から同年代男性より年長者的言動が多かったとの記述がある。
生涯を通して他の男性と交流が少なかったと伝えられる。
当時の男性としては異常に女性にやさしい
会話時間を長く取る
相手女性への配慮が細やかであった
直樹本人の写真を持ち帰らせた
しばしば菓子(特に干し柿)を行為相手に渡した
などの行動が伝えられている。
「直樹ノート」
直樹に関する記録で最も有名なのが、後に「直樹ノート」と呼ばれる私記録群である。
10026人分の
日付、通し番号、女性の名前年齢
短い印象等が記載されている
国宝指定された、この20冊のノートは国立中央博物館で最も人気のある展示物として知られている。
ノートは全文が電子文書として公開されている。
100万人の父親説
直樹の確認されている子は3221人である。
しかし、次の理由により、自分の父親を直樹と推定している人が100万人近く存在している。
・直樹と接触した女性が、直樹に好意をもったため、娘に実の父親でなく直樹を父と伝えた
・当時、一般女性の多くが苗字を持たず、名前のバリエーションも少なかった。
そのため、直樹ノートに自分の母親のものと解釈できる記述を見つけた子が誤認した。
・母親が子に父を尋ねられた時に、他の名を思いつかなかったため直樹と答えた。
・まわりに直樹の娘を名乗るものが多かったので自分も直樹の娘と称した。
名家との関係
直樹は一般女性よりも名家女性との交流を好んだとされる。
名家の娘たちも直樹を好んだため、名家との行為回数は一般男性の5倍に達したとされる。
特に生家の藤堂家は直樹の管理権限を最後まで手放さなかった。
情が移ると判断が鈍るので、藤堂家では、直樹との行為は若い娘に限定された。
経産後の直樹との交流は茶会等、性行為を伴わないものに限定していた。
藤堂静香
直樹の最期の娘。直樹が認知しているおそらく唯一の娘である。
晩年、10000回を達成して、精役を終えた直樹は、同じく出産義務を終えた藤堂美里と行為を行うようになった。年齢的に妊娠は無いと思われていたが、美里は妊娠した。
子は産まれたが、美里は出産時に死亡。この時の子が静香である。
名付けは美里の遺言により直樹が行った。
日本列島転移後、直樹は、4人目の子を妊娠していた静香に日本での出産するよう勧めた。
当時、邪馬台国女性の日本での出産は例が無かった。
しかし、直樹が日本のとある産婦人科医に手紙を出したことで事態が急転した。
直樹が日本の産婦人科医をなぜ知っていたのかは謎である。
日本の産科医療導入後、名家の産婦死亡率は1%以下となった。
最期
当時の邪馬台国男性としては長寿の70才で死去した。
臨終時には全国から30人の娘、息子が駆け付けた。
多くの子供たちに看取られて亡くなった
直樹の葬儀は国葬として国立競技場で行われた。参列者の数は10万人を超えたとされる。
その他の影響
男子の幼年期の教育内容について、いくつかの提言を行い実施された。
精役任務の見直し、男性の主体性についての改革を主導した。
藤堂家の精神的なハブとして内部対立を治め、今日の藤堂家の繁栄に寄与した。
ここまでお付き合いいただき有難うございます。
明日、小説のタイトルを変更します。
今後ともよろしくお願いいたします。




