6、王子と赤薔薇姫(2)
御前試合の前日、グレイズはベルイエン離宮の自室にてひとしきり駄々をこねた。
「離れたくないよ、マルー」
「わたくしも」
マルティータは膝に乗せたグレイズの頭を優しく撫でてくれた。
十五歳になったマルティータは依然として少女であったが、グレイズが昏い思いに打ち沈むときにはこうして姉のように慰めてくれた。
「ファロイスに戻ればまたしこたま絞られる日々だ。この一年、録に剣も握っていなかったのを父上は目ざとく気づくだろう。また修行の日々だ」
「でも陛下はグレイズ様の身長が半フィート以上も伸びた事をご存知ありませんわ。きっと逞しく素敵な騎士様におなりです」
「私は王太子だぞ。この平和の世で剣を振るう機会なんてないのに」
がばりと身体を持ち上げて婚約者の鼻にむかっていじけてみせると、彼女はきょとんと、あるいは咎めるように瞳をしばたたかせた。
「いいえ。技も知ですわ。そのお体に武芸の叡智を刻み込むのが修行かと存じます」
「君もやるかい?」
グレイズがより深く覗き込むとマルティータは小さくくちびるを突き出した。
「はい。花嫁に武術が必要でしたら」
「いや、君の可愛い手に武器など持たせるものか」
二人はどちらともなく手を取り合い、くすくすと微笑みを交換した。
開けはなたれた窓辺で温められた風がレースのカーテンをスカートよろしくふわりと翻す。
やがて冷たい風が吹き付けて夕暮れの端を運びながら常春の庭の花々を無造作に散らすだろう。
「一年か」
悪戯な風に飛ばされかけたショールを引き寄せてマルティータに着せてやる。
ジャケットを着ていても首元が冷やされると寒い。
繋いでいる指先から微かに感じる温もりが一層寒さを、いや、寂しさを引き立てる。
「婚約を認めていただいたのですもの。一年ぐらい我慢できますわ」
「私にはとても長いよ、マルー」
「一年が終わりますればそのあとはずっとお側におります。わたくしの命が尽きるまで」
そう言うとマルティータはうっとりと瞳を閉じた。
何を期待しているのかグレイズにはすぐにわかった。
けれど、大層残念だが今はそれに答えられない。
これまで幾度となくくちづけの衝動に襲われてきたけれど、その欲をぐっと押さえ込んできた。
彼女との契約――結婚無くしてはできない。
それはほとんどグレイズの誓いであった。
彼女にあの日の自分のような辱め――望まぬ同衾をさせたくはない。
父の用意した夜伽女からは貞操を奪われる前に男の力をもって逃げ出せたのだ。これが反対の性別ならば不可能だった。
大切な姫君を傷つけたくはない。ただその一心であった。
だからグレイズはマルティータの左手の薬指にくちづけて、その手を優しく引き心を込めて少女を抱きしめた。
少年の腕の中、胸に身体を預けてくれる彼女は小さくてやわらかくて、温かかった……。
***
青い林檎にかじりつき
去る日の悔いに顔しかめ
赤い林檎の蜜すすり
ある日の恋に目を細め
林檎が銀ならなにしよう
くる日の財に隠しこめ
林檎が金ならささげもの
ゆく日の光にかざしましょう
夢と悩みの浅瀬から聞こえてきた甘やかなソプラノでグレイズは気がついた。
浅い微睡みを漂っていたつもりがいつの間にか深く眠り込んでいたらしい。
東屋の暗がりを薄ぼんやりと薔薇色が満たしている。
まるで花々の褥に横たわっているような気分だ。
うっとりと瞳をしばたたかせる。
それが愛しい少女のものだと気づくやいなや、グレイズは弾む心臓にまかせて飛び起きた。
「マルー!」
知らないうちに婚約者マルティータがグレイズの傍にいてくれた。
「はい、あなたのマルティータです」
マルーの愛らしい顔が視界を占有していた。
身体を預けられ、鼻と鼻が触れあいそうなほど近づいていたので慌てて顎を引く。
「会いたかった」
喜ぶ勢いのままマルティータを抱きしめると彼女はくすくすと小さく悲鳴を上げた。本物だ。
「グレイズ様、苦しいですわ」
「すまない。夢のようで」
グレイズは短く詫びて身体を離し、彼女のまだ大人になりきれていない柔らかな輪郭を両手で包んでうっとりと覗き込んだ。
夢に見た出会いの頃から二年、彼女はすっかり貴婦人然とした風格を纏うようになったが、それでもまだ蕾のようで少女と呼ぶのが相応しいだろう。
「セルゲイには会えたのだね」
「はい。お送りして参りました」
マルティータを特別にしている銀色の両目にはグレイズしか映っていない。
「それからグレイズ様と、セルゲイ様も。ついに言えたのですね」
少女の熟れかけの瑞々しいくちびるから聞こえるソプラノにグレイズはぞくりとした。
名を呼ばれる度に甘く心を締め付けられて心に小さくて温かな灯火が燈るようだ。
とろりと微笑まずにはいられない。
「どうして君が嬉しそうなんだ?」
「グレイズ様の嬉しいことですもの」
彼の喜びを我が物としてくれるところも彼女の素晴らしい長所のひとつだ。
銀色の瞳を水晶のように輝かせて丸い頬を持ち上げるマルティータの愛らしさにグレイズの胸がきゅんと疼く。
ときめきと切なさにまかせて手をきつく握る。
「マルー。君は本当に優しくて、慈愛に満ちた子だね」
「慈悲の名をお持ちのグレイズ様にはとても」
「では、いつくしみあおう。お互いを、この国を」
晴天にウィスティリアの花びらが舞う中グレイズは寄り添う少女の両手を取った。
そして常春の庭に渦巻く甘やかな薫風をたっぷりと吸い込んでから再び口を開いた。
「私の妻になってくれるね。君が十六の成人を迎えるのをずっと待ちわびていた。皆、祝福してくれよう。私たちの婚礼は明るいニュースになる。父上にも、もちろん国民にも」
グレイズは滔々と淀みなく語りかけた。
いままでもこれからもマルティータへの言葉に詰まったことは一度も無い。
思ったことをそのまま言うことができるし彼女もまたそのままの彼を受け止めてくれる。
彼女の前でなら世界一の詩人になれる。
父親の真っ赤な顔、大臣や議員たちの青白く、あるいは茶色い顔を前にしたときの顔面と喉がこわばる嫌な緊張感などはない。
汗ばむ手のひらの中で小さな両手が蠢いた。
「もう何度も申し上げましたけれど、喜び謹んでお受けいたします。ですが……」
遠慮がちに見上げてきた恋人の赤い巻き毛が輝きながら揺れた。
「本当によろしいのですか。わたくしには〈ギフト〉の一つもありません」
「それこそ何度も聞いた質問だね」
前髪の下で同じ色をした長い睫毛を楚々と羽ばたかせるのがいじらしい。
自らが王室の悪いニュースになりかねない。
彼女はそれを危惧しているのだ。
ヴァニアス王家には代々神秘の力持つ娘――〈ヴァニアスの神子〉が生まれる。
理由は定かではないが始祖王とその妻に由来があるのではと歴史家は語る。
つまりエドゥアルガス獅子王が娶ったワニア民族の神子シャラーラの力が今でもその血に流れているという話だ。
マルティータもそれを信じ尊んでいる一人だった。
建国から九〇〇年が経ち、現在ではワニア民族とその力も希少なものになってしまった。
歴史以前からヴァーナ諸島に原住していたワニア民族――魔法使いの一族はソレナ民族によって二重――迫害と同化に追われたからだ。
ヴァニアス島の南方、フィスティア大陸から入植してきた貴族は当初ワニアたちを野蛮人として迫害していたが、彼らが神秘の力をその身に宿すと知るなり立身出世を目的にその力を求めワニア民族との婚姻を繰り返した。
またエドゥアルガスとシャラーラの婚姻と建国をきっかけに融和が、そして意図せず同化が促進されたという見解もある。
そして純血同士でのみ受け継がれるワニア特有の水色の髪と瞳、魔法の〈ギフト〉は時代とともに失われていった。
こんにちでも魔法の〈ギフト〉を貴ぶ風潮があり、現サンデル公爵は現存する唯一のワニアの集落ラズ・デル・マールからワニアの純血でしかも〈御山の神子〉を娶った。
そしてマルティータが生まれたが、彼女は何のギフトも持っていなかった。
こうした状況からマルティータは己を〈ギフト〉なき無能と考えてしまうようだ。
しかしグレイズはヴァニアス人――ソレナ民族に魔法の〈ギフト〉が顕現する現象は過去にワニア民族と交わった名残――ただの先祖返りであり、くじ引きのようなものだと考えていた。
「マルー、私の赤薔薇さん」
グレイズは彼女の自分より一回り小さい顔を覗き込んだ。
「魔法の力がなんだ。魔法を使いたければ魔法使いに頼めばいい。知性があれば魔術にだって取り組める。君の長所は別にある。学生も投げる本を読みこなし素晴らしい知恵を蓄えたじゃないか。医術書を読む娘など私は君の他には知らない。私はこの世にただ一人の君を愛し、君と人生を共にしたい」
グレイズはマルティータの瞳に映る自分のさらに奥にある少女の黒々とした瞳孔を見つめながら、彼女の前髪をそっと耳にかけ直してやった。
「私のほうこそ、父上のように勇猛でもなければ剣や政治に長けてもいない。始祖様のような立派な王にはなれないだろう。しかし私は神ではないからこそ人に頼れる。剣術はセルゲイのような優秀な騎士にまかせるほうがずっといい」
「そうおっしゃって学びを放棄されるので?」
小さくくちびるを尖らせて的確に注意してくる少女の頭の回転の速さも我がことのように誇らしい長所だ。
グレイズは微笑んで顎を引いた。
「まさか。セルゲイは私の騎士で、友で、師となる男だ。君を守るためならばいかに不得手といえど全力で取り組もう。君に侮られぬ、君の誇りでありたいから。だからお願いだ、マルー。私の欠けたところを埋めておくれ。未来永劫、私の側にいておくれ」
「グレイズ様……!」
マルティータはくしゃりと切なげに破顔してグレイズに体重を預けてきた。
細い身体のほどよい重み、少し早い鼓動、暖かい匂いに彼女の確かな存在を実感する。
本当は思い切り抱きしめて彼女を一番近くに感じたい。
誰も、グレイズさえもまだ摘んだことのない桜桃のようなくちびるを味わってみたい。
グレイズは頭がくらくらするような興奮を理性の内側になんとかとどめて、なるたけ優しく、思いの丈を込めて、そっと頭を撫でた。
それは正解だったようだ。
少女は日向を喜ぶ子猫のように目を細め、くたりと力を抜き少年の愛撫を受け入れてくれた。
たわわに咲き垂れるウィスティリアの屋根の下、世界一可憐な婚約者と甘い風の吹く素晴らしい午後とに半ば放心していると、腕の中で少女がくすぐったそうに笑って身をよじった。
「いままでに何度プロポーズをお受けしたかしら」
見上げてきた銀の瞳はうっとりと潤み三日月のように清らかな光を集めている。
その下で動くくちびるのなんと美味しそうなことだろう。
ヴァニアス王家に魔法の力をもたらした伝説の神子姫シャラーラも相当な美貌を誇ったといわれているが、マルティータの花も恥じらう愛らしさにはとてもかなわないだろう。
グレイズは欲望をごまかすようにマルティータの髪を指に巻き付けて戯れる。
「結婚したあとにされなかったと言われないようにね」
「まあっ。では今日が聴き納めでしたのね」
「しかし、これからはなんと言って君の気を引けばよいかな」
「チェッカーボードケーキなんていかがかしら。それとも……」
とマルティータがグレイズの鼻先へ向かって首を伸ばしてきた、その時だった。
どこからともなく鐘の音が響く。
「いけない!」
マルティータがすっくと立ち上がる。
三回で止まったそれが今日のお茶会の合図であることをグレイズも思い出した。
「春の盛りを過ぎぬ間に、薔薇の咲くを摘むがごとし」
そして歌うようなメゾソプラノが天から降り注いだ。
と思いきや金色の光を纏った婦人が東屋のウィスティリアのすだれをくぐってきた。
神子姫の歩みに合わせて金色の光が移動する。
「お楽しみはとっておおき、可愛い子たち」
グレイズは悪戯っぽく微笑むミゼリア・ミュデリアにすぐさま跪き、彼女の足に最敬礼を、そして立ち上がって手をとりくちづけた。
「叔母様。セルゲイにお話はお済みで?」
「ええ。せっかくのケーキが傷んでしまってはね」
グレイズがちらと彼女の背後を窺うと中庭の入り口で見慣れた従騎士がいた。
セルゲイはお茶会の支度に行き交う女中に鼻の下を伸ばしていた。
彼の瞳ならば娘たちのお仕着せの中まで見通せてしまうのかもしれない。
マルティータにも色目を使ってはいないだろうか。
グレイズは警戒を強めた。
セルゲイは長身にしっかりと蓄えられた筋肉、均整のとれた戦士の体つきに加え、高い庇と立派な鼻に挟まれた甘い瞳を持つ。
その様々な表情を見せてくれる緑青色の瞳が特に魅力的だと思えばこそ憧れながらも嫉妬してしまう。
「グレイズ様」
と従騎士をじっとねめつけていた王太子の腕が温かく柔らかいものに包まれた。
「わたくしにグレイズ様しかいませんように、セルゲイ様にも運命の方が訪れるはずです」
マルティータだ。
彼女は婚約者の腕を全身で抱きしめてくれていた。
心を濁らせた妬み黒い気持ちがそれだけで浄化されるようだ。
「それを探すために、出会う女性と手あたり次第に?」
「きっと寂しがりやなのです」
「どうしてわかるんだい、マルー?」
「目を見たら、なんとなく……でしょうか」
睦みあう二人の目前で神子姫がくるりときびすを返した。
踊り子のような美しいターンだ。
羽のように薄く透けたショールが彼女の軌跡を追いかける。
「さあ、お茶にしますよ」
ふわりと舞うようにそれでいて足音も立てず中庭を闊歩するミゼリア・ミュデリアはまさに妖精の女王のようだった。
「お前も。おいでなさい」
「はっ!」
白い首筋を伸ばした神子姫に手招きされたセルゲイは身体を棒きれのようにまっすぐにした。
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