今なら、そう今なら…。
ゼラはジークを追って建物の2階部分に入る。
そこは汗牛充棟という言葉が相応しい、大量の書物が置かれた部屋だった。誰もいない落ち着いたここで本が読めるのなら最高だろう。しかしそんな空間もあろうことか今やジークの衝突によって大部分が破壊され、砂煙が待っている。
「…………」
ゼラは煙の中を歩いていく。
全神経を集中させるように感覚のアンテナをはるが、誰かがいるような気配は全くしない。響くのはせいぜい自分の足音だけ。
おかしい……こんなことはあり得ない。
まだ彼は死んでいない。なぜそんなことが解るのかというと、それは彼を殴りつけた時に違和感があったのだ。まるで鉄の塊を殴っているようなとてもじゃないが生物では無い硬さだった。
あれが普通の肉体だとは思えないし、何より自分の一撃が効いたとは思えない。だからこそ彼は絶対に生きているはずだ。それこそ土属性魔法で自分の体に鉄を纏って防御したのかもしれない。
彼は死んでいない。
そう思うと自分の心をなぜだか落ち着かせられる。
自分はその感情を知っている。
それはつまり自分の弱さ、完全な無慈悲になれない自分の甘さが露呈してしまっているのだ。
これは矛盾した感情であり二律背反だ。こんな状況を自分で招いておきながらまだどっちつかずに決心できてないなど本当に情けないと思う。
すると……。
「流石に甘かった。ラフィーの意見をもっと聞いておけば良かったと今更ながら思ってるよ」
いつの間にかジークが少し後ろに立っていた。
家に激突した影響か服は擦り切れ汚れている。しかし身体は無傷のようで切り傷やどこかが腫れているというわけでもない。
本気ではないとはいえ普通の人間なら鍛えてあろうが一撃で葬れる強打を食らってピンピンしている。それは彼がフェンリルだということを裏付けている何よりの証拠でもあった。
ゼラはすぐに振り返って攻撃の行おうと、しかしそれよりも早くジークは両手を突き出した。
「ちょっと待ってよゼラさん!実は俺も謝りたいことがあるんです。ゼラさんは裏で人間を襲っている事件を起こした一人なんでしょ?でもね、俺もこう見えてフェンリルという闇の組織を率いてるんだ」
「何が言いたい?そんな事はとっくに知っている、だからお前を襲った」
「俺も騙してたしゼラさんも騙してた。だからこれでおあいこにしませんか……?この街を襲っているのかもしれないけど協力すれば今ならまだ間に合います。あの二人に言い訳だって作れるし、二人だってゼラさんを待ってると思うよ!」
「私は端からお前達の敵なんだぞ!それ以上でもそれ以下でも無い。元から人間と魔人は分かり合えないんだ……」
「……へぇ。じゃあ最初から敵なんだね。あの二人のことも初めから仲間だとは思ってないし、騙そうと思って近づいた訳ですね?」
「…………っ」
「あの二人はね、ゼラさんのことを本当に尊敬してるんですよ。村から出てきて何も分からない自分達に一から教えてくれたって。ゼラさんは自分の悩み事を手助けしてくれて、それでお礼を言ったら気にするなって言われたって。馬車でそう言ってました。二人はあなたのことを尊敬しているのにあなたは初めから二人のことを道具としてしか思って無かったんですか?」
「う、うるさい黙れっ!!お前と話していると調子が狂う……」
「ねぇゼラさん。僕もこんな事は望んでいない。誰もこんな事は望んでいないんですよ。だからね、止めませんか?今なら、そう今なら、まだ間に合いますから……」
「うるさい!!黙れと言っている!!」
ゼラは一瞬でジークに接近すると、爪を猛獣のような鋭く長い鋭利な刃物へと変化させて襲ってくる。
「うわっ!?」
と言いつつもジークはそれを回避した。しかしそれだけでは終わらない。魔人である驚異的な身体能力を使って次から次へと連続攻撃を仕掛けてくる。
ジークはギリギリでそれらを回避していく。
「そういえばリズさんがゼラさんにプレゼントがあるって言ってました。普段前線でチームを支えてるゼラさんに手作りのポーションとポーチをあげるんだって。その時のリズさんは楽しそうな顔をしてたな」
「うるさい!!」
「アレンさんもゼラさんとリズさんを連れてご馳走に行きたいって言ってました。ゼラさんに少しでも恩返しをしたいんだって。自分じゃまだこんなことしか出来ないけど、いつか村に招いて自分の家族と三人で食事を囲みたいって」
「しゃべるな!!」
追撃しても全ての攻撃を避けられ、ゼラは一度跳躍する事で距離を取った。そうすることで二人は真正面で向き合う構図となる。
「そして俺もゼラさんには感謝してます。僅かな時間だったけど今日冒険できてとっても楽しかった。それにこんな事を言うのは恥ずかしいけど、僕はゼラさんのことが好きなんだって気が付きました」
「な、何を言う……」
「ゼラさんは可愛くて綺麗だ。クールに装ってますが根は本当に優しくてお姉さんのように面倒見が良い。少なくとも僕はそう思っています」
「そんなのは演技に決まっているだろ!!お前たち人間を信用させるために小芝居を打ったに過ぎない!!」
「本当にそうですか?あの二人を見つめる時の貴方は本当に優しい目をしていた。馬鹿な僕にはどうしてもそれが嘘には見えません」
「うっ……」
「ゼラさんは可愛い。貴方は誰よりも魅力的で誰よりも人思いだ。僕と一緒に来てくれませんか?今なら二人にも訳を話せば、今まで通りきっとうまくいきます。少なくとも僕がそう努力します。貴方のことは必ず守りますから……。だからまた四人で冒険に行きませんか?」
度重なる説得に少しではあるが右手をジークの元へ伸ばす。
しかし……。
「男の手を取るんじゃない。その男は私を騙そうとしている。今までだってそうだっただろう?関わってきた人間全ては私を騙そうとしてきた。そして目の前にいる男もその中の一人に過ぎない」
もう一人の白い自分がそう言っている。
すると頭のどこから彼の声で、
「ゼラさん僕と来てください」
四方八方の説得と叫び声の幻聴が聞こえる。
もう無理だ、ゼラの精神は限界を迎えていた。
「うるさいうるさいうるさい!!どいつもこいつもなんで私の邪魔をするんだ!?私はただ、父さんと母さんと静かに暮らしたかっただけなのに!!」
ひどい頭痛にゼラは耐えられなかった。その場にうずくまって頭を押さえ、もがき苦しむ。
「ゼラさん!?」
急いで彼女の元に駆け寄り、彼女を優しく抱きしめた。
「大丈夫ですか?横になってください。今すぐ貴方の苦悩を取り除いてあげます」
「じ、ジーク……」
彼の頬にそっと優しく手を触れる。しかし彼が近くに来れば来るほど、もう一人の自分の主張も激しくなる。
「だめだこの男から今すぐ離れろ!!こいつは私に何かしようとしているぞ!!今すぐ離れるんだ!!」
もう自分であって自分じゃない。半強制的に怒りと憎しみに駆られたゼラは鋭い瞳でジークを睨んでしまう。
「私から、私から離れろ!!」
「うわっ!?」
介抱していたジークを突き飛ばした。そしてすぐさま立ち上がる。
その瞬間。
「な、なんだ……?」
ジークは唖然とする。
ゼラの身体は光を放っていたのだ。それは眩いばかりの神聖な白い輝き。とてもじゃないが、怒りに支配された魔人のオーラには見えない。
そしてそれと同時に容姿も変化していく。紫の髪は少し明るい色へ紫へと変色する。何より肌の色が変わった。浅黒い褐色はあろうことか、透き通るような白い肌へと変色を遂げて、神々しい天使のような見た目に変貌を遂げた。
それは深層心理に現れていたもう一人の自分。
いや正確に言えばこれが本当の自分。
ゼラはゆっくりと開眼をする。そこにはもうかつてのゼラの面影は無くなっていた。
「これが本当の姿……。久しぶりだなこの容姿へと戻ったのは。本当ならこれから先ずっと封印する予定だったのだが、仕方ない」
「ゼラさん。貴方は本当にゼラさんなのか?」
「ふん、さぁな。私自身でも今の心が誰ものなのか分からない。いや違う、これこそが本当の私だったのだろう。お前たちを利用して殺すには少し人間と長く居すぎたのかもしれない。これは私の失態だ。冥土の土産に本当の名を教えておこう。私の名はセレンディバイト・ルーナロイド=レニセウスだ。かつて魔人国にあった大貴族レニセウス家の長女であり次期当主の名だ」
「本当の名前?そんなのはどうでも良いよ。貴方が魔人だろうが貴族だろうが本当の姿だろうが、そんなものは関係ない。貴方の名前はゼラ・ウォーカス。僕に優しくしてくれた掛け替えのない大好きな人の名だ」
「そうか……」
セレンディバイトは無意識に神妙な顔になっていた。もう一人のゼラの方の感情が必死に主張している。ただそんな事は真の感情を取り戻したセレンディバイドが知る由もない。
セレンディバイトは戦闘体勢を取る。今度はもう容赦はしないとばかりに相手を睨みつけた。
「貴方が本気を出した以上、俺も本気を出させて貰う」
そう言って体勢を変える。
先ほどまでの直立から、何かを抱えるように両手を広げた。そしてセレンディバイトへ優しく微笑む。
攻撃の意思が全く見られない。何を考えているのかセレンディバイトにはわからない。
「全力で掛かってきてください。俺はこれから一切反撃をしません。貴方のどんな攻撃だって受け止めて、元のゼラさんに戻して見せますから」
「好きにしろ」
急接近したセレンディバイドがジークの顔面を殴りつける。その瞬間、ジークはロケットのように急スピードで吹っ飛びながら幾つもの建物を貫通していった。一つ二つ三つ四つと破壊していく。
これがゼラの真の実力。先ほどまでのお遊びのような組手とは訳が違う。この形態になった以上、セレンディバイドが負けるなど万に一つもあり得ない。