十八章 真紅の戦い 8
「なぜだ……」
アーチャは拳を握り、弱々しく地を叩いた。
「なぜお前たちは、ヒト族のアーチャをそこまで信頼し、ジャーグ族の俺の力を否定する? こんな腐った世界で生き残る術は、何者にも劣らない力を手にすることだ。俺はやっと、最強の力を我が物にすることができたんだ……この世界で、俺の存在は確立されたんだ!」
「誰も望んでなんかない!」
シャヌが声の出る限りで叫んだ。
「人殺しのための力なんて、誰も望まない。思い出して……アーチャはそんな悲しい力、望んでなかったはずだよ」
「嘘だ……俺はみんなのカタキを討つんだ……父さんも母さんも、俺がそうすることを願ってるはずだ」
爪が手に食い込むほど強く拳を握り、アーチャは、自分の意思を貫こうと頑なまでに主張し続けた。ゼルは荒々しい呼吸を繰り返し、やがてその虚ろな瞳をアーチャに向けた。
「いや……それは違う。君の両親は、命が儚くも尊いものだと知っていた。だから自分たちの危険を顧みず、私のことを助けてくれた。そんな二人が、君に復讐することを望むと思うか? アーチャ……君はたくさんの愛情を受けて育ったんだ」
「……愛?」
その言葉の意味を探るようにして、アーチャは呟くように繰り返した。心の中でずっと、この言葉を待っていたような、そんな気がした。
「君の両親からは、他の者にはない、何か強い力を感じた。それは君が言う邪悪な力でも、弱者を服従させる力でもない。そして私は、ヒト族のアーチャが持っていた何にも勝る力が、その両親から感じた強い力に共通していると気付いた……それは、自らを犠牲にしてでも他人を守り通したいという、愛の力だった」
その瞬間、アーチャは心の中で何者かの声を聞いた。アーチャは知らず知らずの内に、その声に聞き入っていた。
『俺、ずっと疑問に感じてたことがあったんだ』
誰かがはっきりとそう言った。
『俺はどうしてシャヌを助けたいんだろう……って。でも、ようやくその答えが出た』
背中の痛みさえ忘れ、アーチャはその場に立ち上がっていた。そして、しっかりとした足取りでシャヌの前まで歩み寄り、彼女の瞳を見た。こちらをじっと見据え返す、その汚れなき瞳を。
「俺は、シャヌのことをずっと愛してたんだ」
その言葉は、アーチャのものであって、アーチャのものではなかった。目に涙を浮かべるシャヌを優しく包み込むように、アーチャは彼女を見つめ続けた。
「俺が本当の俺であるために……愛し、愛される存在であるために……この姿を捨てる時が来た。俺は、もう一度ヒト族に戻りたい」
「そのきっかけを君に与えるために、僕がここにいるんじゃないですか」
ユイツは「自分のことをお忘れではありませんか?」と言いたげに進み出た。アーチャもシャヌも、ゼルでさえ、ユイツがそこにいたことを忘れかけていた。
「どうやるんだ?」
アーチャがせっついた。
「ヒト族だった時のアーチャの記憶を、掘り起こしてやればいいんです。アーチャは自分の赴く地のすべてに、記憶の隠し場所を幻影として作り上げていた。どこに何があったか、よく思い出してごらん。共通する何かが、思い浮かぶはずだよ」
記憶をさかのぼりながら、アーチャはほんやりと考えた。
「あいつが錯覚した英雄の姿……か?」
アーチャはノロノロと答えた。ユイツは嬉しそうにうなずいた。
「ヒト族となった君は、過去の記憶をそこに隠さなければならなかった。そうすることで、自身の存在を確かなものとしていたんだ。分かるかい? 本来守られるべきものを差し置いてまでそこに隠そうとした、その場所がどこなのか」
「英雄? 戦士……鎧……そうか、甲冑だ!」
アーチャは突然ひらめいた。
「グレア・レヴでは俺たちのアジトの中にあるし、トワゴの入り口には剣闘士の石像が並んでいた。シシーラにあるレッジの酒場には、鎧をまとった兵士たちの絵が飾ってあった。ヘガの戦闘機には鎧を着た死体。海底には……海底には……そういえば、ジャーニスの手紙を地面に埋める時、何か硬い物にぶつかった。あれはあいつが作り出した幻の甲冑だったんだ!」
すべてを思い出した瞬間、アーチャの目の前は真っ白になった。体がふわりと宙に浮くのを感じた時、アーチャの心は清々しいほどの開放感で満たされていた。
気付くと、アーチャの首に腕をからませるシャヌの姿が目の前にあった。アーチャはそのまま強くシャヌを抱き寄せ、シャヌの肩に乗せた自分の腕を見た。紫色だった皮膚は肌色に戻り、長かった爪は切り落とされた具合に丸く縮んでいた。
「ただいま」
シャヌの耳元にそっと声をかけ、アーチャは、薄れゆくジャーグ族の記憶に手を振り、真紅の空へと追い立てて別れを告げた。
東の空のてっぺんに、一番星が瞬いていた。