第18話「密偵の影」
領主の館には怒号が響いていた。
「村人どもが兵を追い返しただと!? 剣を持たぬ百姓が、兵士に楯突いたというのか!」
報告に跪く兵士は顔を上げられない。
「しかも……魔法を使う者が混じっておりました。冷気を放ち、我らの動きを封じました」
「魔法だと?」領主の目が細くなる。「下賤の者が魔法を操るはずがなかろう」
「確かに……ですが光と氷を使ったのは事実。村人たちは団結し、子どもまで護身の技を見せました。あれは尋常ではありません」
領主はしばらく黙り込んだのち、机を拳で叩いた。
「よかろう。次は正面から潰す必要はない。密偵を増やせ。奴らの企みを探り、内側から腐らせてやるのだ」
――その夜。
村は静けさに包まれていた。だが焚き火の明かりの外、闇の中にじっと潜む気配をアルトは見逃さなかった。
「……来ているな」
木々の間に微かな影。焚き火の揺らぎと同じように揺れるが、動きが違う。呼吸を押し殺す者の気配。
アルトはそっと立ち上がった。だが澪が袖をつかむ。
「行くの?」
「いや、今は追わぬ。相手に警戒心を悟らせたくない」
澪は唇を噛んだ。
「でも、このままじゃ何をされるか……」
「だからこそ、俺たちは日常を続けるんだ。学びをやめれば、領主の思うつぼだ」
澪は悔しそうに目を伏せた。けれどすぐに顔を上げ、強い光を宿す。
「だったら余計に……雑誌をもっと広めなきゃ。領主がいくら抑えつけようとしても、知識が広がれば止められない」
アルトはしばし澪を見つめ、やがて小さく頷いた。
「お前の筆の速さには、俺もついていけん。……好きに書け。ただし慎重にな」
ちょうどその時、村の入り口から明るい声が響いた。
「おーい! 久しぶりだな!」
焚き火に照らされたのは、荷を背負ったサミュエルだった。汗まみれの顔で笑い、肩から荷を降ろす。
「町まで行ってきたんだがな、噂になってるぞ。『夜学で庶民が魔法を学んでる』ってな」
澪の目が輝いた。
「ほんとに!?」
「おうよ。行商仲間の中には、『その雑誌を手に入れたい』って奴もいた。こりゃただの紙切れじゃねえ。人を動かす力がある」
アルトの眉がわずかに動いた。
「……噂が広がるのは早い。だが、それは領主にも届いている」
「まあな」サミュエルは肩をすくめた。「けどよ、火がついたもんは簡単に消せやしねえ。だったら燃やし広げる方が面白ぇだろ?」
澪は勢い込んで紙を広げ、サミュエルの話を写し取る。
「町の人たちがどう反応したのか、全部教えて!」
「任せろ。俺の目と耳は商売道具だからな」
その様子を、アルトは静かに見守った。焚き火の影に潜む気配はまだ消えていない。
――密偵は確かにいる。だが恐れる必要はない。恐怖で口を閉ざすより、知識で人の心を開けばよい。
焚き火の周りでは子どもたちが笑い、女たちが薬草を仕分け、男たちが木箱を組み立てている。村は生きていた。
その温もりこそが、領主にとって最も厄介な炎なのだと、アルトは気づいていた。
夜空に火の粉が舞い上がる。
――見張られていようとも、彼らの歩みは止まらない。




