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天使と狼  作者: トウリン
SS

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46/46

たからもの

『君が目覚めるその時に』とリンクしてます。

あちらを読んでいなくても、大丈夫だとは思うのですが……

 パタン、とドアの閉まる音と、それに続くカチリという鍵のかかる音。

 それは小さなものだったけれど、ダイニングのテーブルでうたた寝をしていたもえの耳に確かに届いた。

(今日は遅かったな)

 壁にかかっている時計にチラリと寝ぼけ眼を走らせて、彼女は首をかしげる。短針は九を少し超していた。

 小児科医の一美かずよしの帰宅は、普段から不規則だ。それでも、こんなに遅くなることは滅多にない。確かに彼は仕事に心血を注いでいるけれど、同時に、萌と産まれて三ヶ月になる娘、まなをこの上なく大事にしてくれていて、結婚してからというもの、彼の帰宅が夜の八時をまわることは滅多になかった。

 伸びをしながら立ち上がり、萌は一美が姿を現すはずの戸口の方へと向き直る。ドアは閉めていないから、廊下が少し見えていた。

 が。

(……あれ?)

 玄関からここまでほんの数歩のはずなのだけれど。

「一美さん?」

 名前を呼びながら廊下を覗き込んでも、いない。

 気のせいだったのかしらと眉をひそめてダイニングを出て玄関へ向かった萌は、途中にある子ども部屋を通り過ぎかけて、数歩戻った。

 フットライトだけを灯した薄暗い部屋の中に、長身の背中が佇んでいる。

「一美さん?」

 そっと、呼びかける。

 彼女の声に、一美が静かに振り返った。彼の腕の中にはタオルケットの塊が抱え込まれている。その中に包まれているのは、もちろん愛だ。

 萌は、本格的に眉根を寄せる。

 そんな行動もまた、いつもの一美らしくなかった。

 一美が愛の世話をしないというわけではない。

 むしろその逆で、まさに目の中に入れても痛くないほど娘を溺愛している一美は、彼女がほんの少しでもぐずったらすぐに抱き上げてあやしてくれる。おむつだって換えてくれるし、母乳はさすがに無理だけれど、たまに哺乳瓶でミルクを飲ませる時には嬉々としてやってくれる。その時の彼があまりに嬉しそうだから、時々、ちゃんと母乳は出ているけれど、敢えて哺乳瓶で飲ませてもらう時もある。最近はあやすと笑うようになってきたから、朝などは仕事に行くのに後ろ髪を引かれまくっているのがありありと見て取れて、萌は笑いを噛み殺すのに息が止まりそうになる。

 けれど、そんなふうに何かにつけて愛に触れずにはいられない一美も、寝ている彼女には手を出さない。眠っているところを彼の都合で構うような事は決してしないのだ。どんなに抱きたいなと思っても愛が寝ている限りは絶対に手を出さず、まるでお預けを食らったシェパード犬のように見つめるだけで我慢している姿がまた、萌の笑いを誘う。

 そんな彼が、寝ていたはずの愛を抱いている――ダイニングに置いているベビーモニターはうんともすんとも言っていなかったから、ぐっすりと眠っていたはずだった。

 足音を忍ばせて彼の隣に行って、萌は優しく揺すられている娘を覗き込んだ。やっぱり愛は満足そうに目を閉じていて、起きて泣いていた形跡は全然ない。

 おかしいな、と思いつつ、一美が何も言わないでいるから、萌も黙ったまま、彼と二人でふっくらとした寝顔を見つめた。

 一美がそうであるように、萌も、愛を見ているとついつい口元が緩んでしまう。こんなに愛らしいものを自分と一美の二人でこの世界に送り出したことが、いまだに不思議でならなかった。

 静かな室内で聞こえるのは、微かな衣擦れの音だけ。

 短くはない時間が過ぎた後、名残惜しげに愛をベビーベッドに戻した一美は、そうしてからもまだ、柵に手を置いてそのまま見つめ続けていた。

 萌は、目を上げて視線を彼の整った横顔へと移す。出逢った時よりもほんの少しだけ目尻の皺が増えているけれど、出逢った時よりも柔らかになったその顔に。

(やっぱり、おかしいな)

 愛を見る時にはいつも一美は微笑んでいるのに、今の彼は少し硬い表情をしている。

「何か、あったんですか?」

 彼の隣に寄り添って、彼が見つめる娘の寝顔を同じように見つめて、萌は囁いた。

 しばらくは、沈黙。

 と、一美の腕が上がって、萌は彼の胸へと引き寄せられた。温かな吐息が、頭の天辺に感じられる。

「……俺は、幸運だよな」

「?」

 一美の呟きに萌が首を反らせて見上げると、彼も真っ直ぐに見返してきた。そして不意に頭を下げて、そっと触れるだけのキスを落としてくる。それからまた、抱き締められた。

「君と逢えて、こんな最高に可愛い子を授けられて」

「なんですか、急に」

 ストレートすぎる愛情表現は結婚してからというもの毎日浴びせかけられているけれど、いまだに慣れない。

 ちょっと身構えてしまった萌に、一美が小さな笑みを漏らした。

 そして、低い声で続ける。

「……俺は、病気の子と毎日接しているだろう? 俺は、あの子たちのことを、運が悪いのだと思っていたんだ」

「運?」

 話の流れが見えなくて、萌は戸惑いながらその一言を繰り返した。一美は多分無意識なのだろう手付きで彼女の背中を撫でながら、言う。

「ああ。五体満足で産まれて、何事もなく成長して――子どもというのはそれが当たり前であって、そうでない子は運が悪いのだと、そう思っていたんだ」

「それは、そうじゃないんですか? 普通は、みんな元気に大きくなっていくでしょう?」

「いいや、違う。それは運が良かったんだよ。こうやって愛が『普通』に産まれて、すくすく何事もなく育っていく――これは、幸運なことなんだ」

 一美らしくないな、と萌は思った。

 彼はいつも自信満々で、どちらかというと楽観的で、前向きだ。

 何でこんなことを言うのだろうと考えて、ハタと思い当たる。

「キラちゃんに、何か……?」

 萌が小さな声でそっと尋ねると、彼女の背中に回されている一美の腕に力がこもった。それが無言の答えで、萌はやっぱり、と思う。

 雨宮キラという、一美が担当している子がいる。重い病気なのに明るく屈託のない少女で、一緒にいるとつい笑顔になってしまう、そんな子だ。

 彼女はもう十年近く一美が主治医をしている心臓病の子で、昨年の十二月に容体が悪化してからずっと昏睡状態に陥っていた。

 彼が小児科医として霞谷病院に勤務するようになった時から診ていて、関わってきた時間が長いだけに思い入れも強い。仕事のことを一切家には持ち込まない一美に暗い顔をさせるとすれば、あの少女のことしか思い浮かばなかった。

 もやもやと、嫌な考えが、萌の頭に湧き上る。

「もしかして――」

(キラちゃんは、あのまま目覚めずに……?)

 身体を離して一美を見上げた萌に、彼が即座に首を振った。

「いや、違う」

「そうじゃない。彼女は、目を覚ましたんだ」

「え、ホントに!?」

 思わず声をあげてしまった萌は、パッと口を押さえる。慌てて愛を振り返ったけれど、娘はすやすやと寝息を立てたままだった。

 ホッと胸を撫で下ろした萌を、再び一美が自分の胸に引き寄せる。

「あの子は目を覚ましたよ。二ヶ月近くも意識がなかったとは思えないほど、ケロリとしている」

「そう、ですか……良かった」

 嬉しさで、萌の目にはジワリと涙が滲んだ。

 風の噂で雨宮キラが急変したと聞いた時、彼女は「もしかして」と思ったのだ。キラは幼い頃からずっと、「未来がない」と言われ続けていたと聞いていたから。

 ついにその時が来てしまったのだろうかと思って、萌はキラが快復することを毎日祈っていた。まだ終わりにしないで、もう少し頑張って、と。

 人が死ぬのは、悲しいことだ。

 それは至極当然のことなのだけれど、こうやって幸せを掴んだ萌は、それをより強く感じるようになっていた。

 一美と出逢う前、萌の周りには優しい人たちがたくさんいてくれたけれども、それでも、ふとこみ上げてくる寂しさやどうしようもない空虚感に、押し潰されそうになることがあった。もう、全部投げてしまおうかと思ったことも、何度もあった。常に頭の中で囁かれ続ける「自分は望まれない存在なのだ」という声を振り切ろうとして、囚われて、クタクタになりそうだった。

 けれど、その度に顔を上げて、また一歩を踏み出して。

 そうして、一美と巡り逢えて――想いを交わすことができて。

 彼と出逢えて、頑張ってきたことが報われたと、思った。この為に生まれてきたのではないだろうかとすら、思えた。心の底から、生まれてきて良かった、頑張ってきて良かったと思えたのだ。

 萌は両手を伸ばして一美にしがみ付く。

 温かくて大きな彼の身体は、いつでも萌の全てを包み込んでくれる。

 一美に抱き締められると、萌は自分の全てを肯定されている気持ちになれるのだ。

 だから、自分がこんな幸せを手に入れられたから、キラにも頑張って欲しいと、萌は彼女の快復を祈りつつ、思っていた。

 生きることがキラにとって楽なものではないことはよく解かっていたけれど、今がどんなに辛くても、この先に待っているかけがえのない幸せに出会えるまでは、頑張って欲しいと願っていた。

 たとえまた病と闘う苦しい日々が始まるのだとしても、「頑張ってきて良かった」と思える何かを手に入れるまでは、頑張り続けて欲しいのだ。

(きっと、何かがあるはずだから)

 そう胸の中で呟きながら一美の硬い胸に頬をすり寄せた萌の耳に、彼の小さなため息が届く。

「俺は、結局何もできなかったんだよな」

「え?」

 見上げた萌の目に映るのは、彼の苦笑だ。

「手術に踏み切ったのはたきだし、あの子の目を覚まさせたのも瀧なんじゃないかな」

「瀧、先生?」

 萌は首をかしげる。

 瀧というのは瀧清一郎といって、昨年の初夏頃からキラに関わるようになった循環器内科の医師だ。

 大柄で無愛想で、ちょっと怖い感じだけれども、実は優しい人なのだろうとキラは思っている。産休に入る前、何度かキラと一緒のところを見かけたことがあって、何となくいつもの彼の雰囲気と違っていて、あれ、と思ったのを覚えている。

 その瀧に、今の一美は何だか引け目を感じているようだった。

 確かに瀧は循環器内科でも優秀な医師だけれど、一美だって、負けていないはずだ。

「そんなこと……」

 眉をひそめた萌の眼差しから逃れるように、一美は彼女の頭に手を添えて自分の胸に押し付けてきた。力強くゆっくりとした鼓動が鼓膜に響く。

「――俺は、無意識のうちに、心のどこかで諦めかけていたんじゃないかと思うんだ。人工呼吸器につながれて、穏やかに眠るキラを見て、もしかしたら、このまま逝ってしまった方が、あの子にも、あの子の家族にとっても、良いことなんじゃないだろうかと……そんな気持ちが全然なかったとは言えない」

 深い、ため息。萌の頬を押し当てた胸が、大きく上下する。

「もしも――もしも愛がキラのようになったら、俺は耐えられないかもしれない。苦しんでいる愛を、頑張らせてやれないかもしれない」

 普段は自信満々の一美の声に滲む苦さに、萌は黙って彼の背中に回した腕に力を込めた。そうして、手の届く範囲を、撫でる。ほんの一瞬だけ彼の力も痛いほどに強くなって、またすぐに緩んだ。

「――あの子がまた戻ってきてくれたのは、瀧のお陰だよ」

 らしくない、自嘲の響き。

 それが何だか苦しくて、萌は一美の胸に手を当てグイと腕を突っ張って身体を引きはがした。

「でも、キラちゃんが瀧先生に逢えたのは、一美さんが頑張ってきたからじゃないんですか?」

「え?」

 暗がりの中でも、一美がいぶかしげに眉を細めたのが判った。そんな彼を見上げながら、萌は言葉を重ねる。

「瀧先生がキラちゃんを助けたって言うなら、その瀧先生とキラちゃんを引き合わせたのは一美さんじゃないですか。瀧先生と逢えるまでキラちゃんを守ってきたのは、一美さんでしょう? 愛のことだって……なんだかんだ言ったって、いざっていう時にはやれちゃうと思います。絶対、愛のこと諦めたりしませんよ、一美さんは」

 そう言って笑って、萌はもう一度大きな身体に抱き付いた。本当は、一美がいつもそうしてくれるように彼をすっぽりと包み込んであげたかったけれど、それは物理的に無理だから、精一杯、腕を伸ばす。

 頭の上から小さな笑い声が聞こえてきて、顔を上げようとした萌はそれより先にふわりと抱き締められた。耳に柔らかなキスが落とされて、くすぐったい囁き声が吹き込まれる。

「お前に逢えて、本当に、良かったよ。最初はめぐみさんが君にしたことを一生許せないだろうと思っていたんだけどな、今は、心の底からあの人に感謝してる。お前を産んでくれてありがとうってな」

 彼のその言葉に、萌の胸にじんわりと温かいものが広がっていく。

 めぐみは、萌を捨てた母親だ。

 過去の行いを悔やんでいた彼女を、萌はとっくに赦していたけれど、一美はなかなか受け入れられないようだった。めぐみと会う時、一美はまるで彼女との間に氷の塊でも挟んでいるかのように硬い顔をしていて、萌はいつかそれが融けきってくれることを祈っていたのだ。

 待ち焦がれていたその兆しに嬉しくなった萌は、彼の胸に頬をすり寄せ、笑う。

「わたしもそうですよ。一美さんを産んでくださってありがとうございますって、お義母さんにひれ伏したっていいです」

「それより、甘えてやれよ。あのヒト、アレで可愛いもの好きなんだよな……三十年以上顔を合わせていて、初めて知った。『娘』ができてかなり喜んでるし、その上こんな可愛い孫までできたしな」

 言いながら一美が彼女の頭越しにベビーベッドを覗き込む気配がして、萌も彼の腕の中でクルリと身体を捻ってそちらへと向き直った。

 一度腕を緩めた一美は、萌のお腹に腕をまわして自分の胸に彼女の背中を引き寄せる。

 ベビーベッドの中では両親の視線などどこ吹く風で、すやすやと愛が安眠にふけっていた。

 二人でその寝顔を見つめながら、彼が言う。

「この子が何もなく元気で成長してくれれば、もうそれだけでいいとしみじみと思うよ」

「学校の成績が悪くても?」

「ああ」

「運動が全然できなくても?」

「ああ」

「思春期になって、パパ嫌い、とか言い出しても?」

 一瞬、返事が遅れた。けれど、彼は重々しく頷く。

「――ああ。ただ、この子が幸せに生きてくれたら、それだけでいい」

 若干のやせ我慢を感じて、萌はほんの少しいじわるをしてみたくなる。

「じゃあ、将来この子が好きな人を連れてきても、イヤな顔しないでくださいね?」

 ヘタな男には絶対に渡さないというのが、愛が生まれてからの一美の口癖である。

 肩越しににっこりと笑ってみせた萌に、一美はグッと眉間に深いしわを刻んだ。

「それは……」

 その困り顔にできるだけ耐えていたけれど、萌はついに耐えきれなくなって声をあげて笑ってしまう。そんな彼女に一美がいっそうムッと厳しい顔になった、と思ったら、唐突に下りてきた唇に笑いを止められた。

 甘く深い口づけにボウッとしていた萌は、束の間の息継ぎで、いつの間にか自分が彼の腕の中に抱き上げられていたことに気付く。

「晩ごはん……」

「後で食べる」

 短い一言で答えた一美が、キスを再開してゆっくりと歩き出した。

 そんな彼にしがみ付きながら、萌は信じられないほどの幸福感を噛み締める。そうして、もう何度繰り返したかわからない言葉を胸の中で呟いた。

 ――あなたに逢えて、本当に良かった、と。

 いつか、遥か遠い未来に避けようのない別れが訪れた時にも、きっとこの想いは変わらないだろう。彼と出逢えた喜びは、どんな苦しみも悲しみも凌駕する。この幸せは、決して色褪せない。

(あなたも、あなたがもたらしてくれる全てのものも、全部、わたしにはかけがえのない宝物なんですよ)

 萌は心の中で一美に向けてそう囁いて、後はもう何も考えず、甘い喜びの中に身を投げ出した。


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