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天使と狼  作者: トウリン
ほんとうの、はじまり

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33/46

3

 霞谷かすみだに病院小児科医の業務の一つに、新生児回診がある。産科で産まれた健康な新生児を診察するというものだ。

 主には、産まれて一、二日目のうちに行なって生後早期の異常の有無を確認する為のものと、生後五、六日目に行なう退院の可否を決定する為のものとがある。

 たまに、心雑音から先天性の心疾患が見つかったりすることもあるが、明らかな異常がある赤ん坊はすぐに産科医から小児科医へコールがかかるので、新生児回診は、基本的には、ただ「元気です」を保証するだけのものとなる。

 その新生児回診は毎日行なわれており、毎週火曜日が一美かずよしの担当になっていた。

 たいていは十人ないし多くて二十人程度。ギャンギャン泣いている子、スヤスヤ寝ている子、起きていてもキョロキョロとどこかを見つめているだけの子、様々だ。


 一美は、そんな赤ん坊達の服を脱がし、聴診器を当て、あちこちひっくり返し、また服を着せる。何千回となく繰り返されたその作業は、目を閉じていてもできるほどに手に馴染んでいた。


 赤ん坊の一人をいつものように診察し、服を着せる。と、不意に赤ん坊が目を開け、ジッと一美を見つめてきた。

 新生児の視力は弱く、まだはっきりとは見えていない筈なのだが、不思議と赤ん坊達は人の目を捉える。

 赤ん坊と目が合うことなどしょっちゅうあることで、いつもは何も感じない。

 しかし、ふと一美の手が止まった。


 ――俺と、もえの子ども。


 そのことを考えた途端、唐突に、一美は鳩尾の辺りが何かで締め付けられたような、奇妙な胸苦しさを覚える。苦しいが、それは不快なものではなかった。不快ではなく、何かが押し寄せてくるような、そんな感覚だ。

 その子どもを抱いた時、自分はどんな気持ちになるのだろうか。

 無性に、早く知りたいと思った――その気持ちを。

 もっとも、その前に萌にイエスと言わせなければならないのだが。

 一美は再び手を動かし、掛け布で赤ん坊をしっかりと包む。ポンポンと腹の辺りを叩いてやると、やがてその子は目を閉じて眠り始めた。


「全員終わったぞ」

「あ、ありがとうございます。お疲れ様です」

 赤ん坊達の世話を焼いている看護師に声を掛けると、彼女ははつらつとした声で返してくる。

 新生児室を出て医局に向かいながら、一美は先日の萌と両親との顔合わせのことを思い返していた。

 相変らず何を考えているのかよく判らない親だったが、少なくとも彼女のことは気に入ったようだ。別れ際に「大事になさいよ」と言った母は他にも何か言いたそうにしていたが、結局そのまま父と連れ立って去っていった。明日は朝一番で米国に飛ぶとか。

 いつものことながら、ご苦労なことだ。


 一美としては、あれは萌に対するある種の意思表示のつもりだった。

 これから彼女との家庭を作っていくことを本気で考えているのだという、意思表示。

 だが、振り返ってみると、萌の様子がおかしくなってきたのは、あれ以来な気もする。

 不意打ちで会わせることになって、萌には悪いことをしたと多少は思っているが、前もって段取りをつけようとしても何だかんだと言い訳をして先延ばしになるだけだったろう。

 彼女は仕事ではあんなにテキパキと思い切りがいいのに、プライベートでは引っ込み思案もいいところだ。

 プロポーズの返事は、萌に伝えたとおり、一美はいくらでも待つつもりではある。待ちさえすれば、彼女の気持ちが決まるというのであれば。


 だが、どうだろう。


 萌自身が家庭を持ちたいと望んでいて、プロポーズをされたのだ。考える必要もなく承諾してしまえばいいと思うのに、彼女は決断を下さない。


 もしかして。


 ふと思い付いて、一美は足を止める。

 もしかして、萌の中では結婚することと家庭を持つことがつながっていないのではないだろうか。

 一美にとっては、萌とこの先も共に過ごしていきたいから、その手段として結婚がある。そして、その結果、二人の子どもを持ち、家庭を作っていく。

 だが、萌にとってはまず『家庭を持つこと』が第一にある――というより、それしかないのかもしれない。そこに至るまでに『結婚』があることは、考えていなかったのかもしれなかった。

 そう考えて、彼は複雑な心境になった。


 萌にとって、それはまだまだ『夢』なのだ。

 彼女にとって、一美と結婚し、家庭を持つといいうことは、『現実』ではない。

(あるいは、『夢』のままにしておきたい、とか?)

 だから、実現しそうになってしまって尻込みをしている。

 プロポーズに応えない萌が、彼には結婚を回避する為の理由を見付けようとしている様に思えてならない。


(それは、何故だ?)


 萌は確かに一美のことを想っている。

 それは間違いない。

 一美に対する彼女の気持ちは、ほんのわずかも疑っていない。

 萌は、一美と一緒にいたいと思っている筈だ。そんなのは、彼女の言葉一つ、仕草一つで伝わってくる。

(だったら、萌の方が俺の気持ちを信じていないのか?)

 その可能性に思い当り、彼はむっと眉根を寄せた。

 一美としてはこれ以上ないというほどに自分の気持ちを伝えているつもりだが、それでもまだ彼女は彼を信用しきれていないのだろうか。

 つまり、一美が萌と一緒にいたいと思っているかどうか、というところは。


 つい、ため息がこぼれた。


 まだまだなのだ。

 萌が築いた壁を乗り越えるには、まだ、何かが足りない。

 まだ、彼女は自分を守る殻を失うことを恐れている。


(いくらでも、俺がその殻になってやるのに)

 一美なら、萌を守るだけでなく、愛して、慈しんで、幸せにしてやれるのに。

 それをさせてくれない彼女に、歯噛みしたくなる。


「まったく、な」

 とことん厄介な相手に惚れたものだとは思うが、諦めるつもりは微塵もない。

 萌の気持ちを動かす為に無理強いをするつもりはないが、彼女を手に入れる為にはできる限りの手出しをするつもりだ。

 さて、ではいったい何ができるのだろうかと、再び歩き出した一美は考える。

 一美が萌を理解し、そして彼女を不安にさせずに一歩を踏み出させる為の何か。恐らく、萌の中にわだかまるものを紐解いていくことが必要なのだろう。


 手立ては、いくつか考えてある。そろそろ、それを実行する頃だった。



   *



「そう言えば、ねえ、萌。あんた、今度の院内コンサートのボランティア、引き受けたんだって?」

 勤務が終わった更衣室で着替えながらそう声をかけてきたリコに、もえは頷いた。

「はい。ちょうど勤務明けだし、そのままやって帰ろうかなって」

「……普通、勤務明けは帰るよ。しかも、夜勤明け。うちら、三交代制じゃないんだよ? 二交代なんだよ? 夜の九時から朝の九時まで、働いた後なんだからね?」

「でも、せっかく病院の中にいるんですから。家にいるのをわざわざ出てくるより、良くないですか?」

 呆れているというよりも、怒っているように見えるリコに眉をひそめながら、萌はそう答えた。


 この霞谷かすみだに病院では、月に一回、第四日曜日に『院内コンサート』を開いている。もっとも、コンサートと言っても、何も有名なプロを招くわけではない。ピアノ教室を開いたりしているセミプロが厚意で演奏してくれるもので、入院患者の息抜きにと気軽に催されているものだ。

 その会場準備や何やらのスタッフは院内の職員でまかなうことになっていて、萌はそれに手を挙げたのだけれども。

 勤務が明けて、その一時間後に始まるコンサートの手伝いをする。会は一時間ほどで終わるから、後片付けもするとしても、帰宅するのはいつもより三、四時間遅くなる程度だ。

 たいした負担にはならない。

 だから萌にとっては、手伝うことはごくごく当たり前のことのように思える。


 最近は何だか気分が落ち着かなくて、仕事が終わって家に帰ってもずっと体を動かしている。

 ぼんやりしながら部屋の掃除を三回してしまうのよりも、いっそ病院でボランティアをしていた方がいい。

 その方が、身も心もすっきりする。


「どうせその日は暇ですし、することがないんです」

 萌が笑顔でそう返すと、リコは何故かため息をついた。

「まあ、あんたがいいならいいけどさ。でも、その日岩崎先生が当直でしょ? 見つからないようにしなさいよ?」

「え? ……なんでですか?」

 思わずそう問い返してしまった萌に、リコは呆れたような眼差しを向けてくる。

「判んないの?」

 スパッとそう訊き返されて、萌は口ごもる。

 判らない方がおかしい、と言わんばかりのリコの口調だった。二の句が継げずにいる萌に、彼女が更に付け加える。


「岩崎先生も今まで楽な『恋愛』ばっかの人だったから、きっと苦労してるんだろうねぇ。何ていうか……哀れというか、ざまぁみろ、というか……」

「それって、どっちなんですか」

 憐憫と嘲りが同席するのは、どういう状況なのか。

 眉根を寄せた萌に、リコはニッと笑った。

「解かってもらえないのは『哀れ』で、解かってもらえないことで四苦八苦する様は『ざまぁみろ』ってこと」

「余計……解かりません」

「まあ、見ていて面白いってことよね。今まで散々女を振り回してきたんだから、今度は思いっきり振り回されてりゃいいのよ」

 そうして、言いたいことを言うと、リコは「じゃあね」と去って行った。いつもは一緒に帰るのだけど、彼女は最近付き合い始めた人と約束があるらしい。


 うきうきと楽しそうなリコの背中を見送って、萌もロッカーを閉めて鍵をかける。


 何だろう。すっきりしない。


 萌は胸の中がモヤモヤするような気がして、拳をそこに押し当てた。

 一美かずよしのことで、リコに解かっていて、自分には解からないことがあるなんて、何だかイヤだった。


(前にも、こんなふうに思ったことがあるような気がする)

 いったい、いつだったろうかと振り返ってみて、それほど考えることなく思い当たった。萌がそんなふうに強い思いを抱いた相手は、限られているから。


 まだ『クスノキの家』にいた頃、優子ゆうこに対して感じたものだ。

 萌の相手をしてくれていた優子が、他の子どもたちの方へ行ってしまった時に、感じたもの。

 それはずっとずっと、小さい頃だ。

 はっきりとは覚えていないけれども、優子に繋いだ手を離されて、その温もりを惜しんだ気持ちは、残っている。


 多分、それは独占欲とか、嫉妬とか。


 でも、萌がそんな気持ちを抱くのは、間違っているのだ。そんなふうに思うのは、良くない。


「そんなわがまま、いけないんだから」

 ぼんやりと、萌は声に出してつぶやいた――彼女自身に言い聞かせるように。

 そう、自分には、そんなふうに思える権利はないのだから、と。

 そんな戒めがふと頭をよぎった時、胸の奥が、ズクンと疼いた。固く閉ざしてしまい込んでおいた箱からジワジワと染み出した何かが身体中に満ちていくような心持ちがして、何となく手足が重く感じられる。


(なんか、疲れたな)

 なぜ、そんなふうに思ってしまうのだろう。

(わたしは、今、幸せなのに)

 幸せを感じるほどに、その奥にわだかまっていく、もやもやした何か。

 明るい未来を望むほどに、暗い澱が積もっていくような気がする。


 ―― 一美が『約束』をくれるたびに、さらに多くを、その先を、望んでしまう。


(そんなの、だめなのに)

 一美と想いが通じ合うまでは、他人ひとに何かを望む気持ちなど、忘れていられたのに。


 優子への思慕は、周りの子ども達に想いを注ぐことですぐに昇華できた。

 子ども達も萌を慕ってくれて、それはマンツーマンの関係ではなかったけれども、充分に満足できていたのだ。敢えて彼女の方から望まなくても、与えられた分だけで、良かった。


 それなのに、一美に対してはもっと多くを望んでしまう。


 愛情も、未来も、彼は萌が望めばきっと応えてくれる。

 けれども、どうしても一歩が踏み出せない。その一歩を踏み出したら、その途端に足元が崩れ落ちてしまうのではないだろうかという怖さが、いつも付きまとう。


 一美のことは信じている――信じている、筈なのに。


 いっそ、こんな気持ちを知らない方が良かったのだろうか。

 一人の人から、自分だけに注がれる愛情の心地良さを、知らなければ。


 ふと、そんな思いが、頭の片隅をチラリとかすめていった。


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