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何となく、萌の様子がおかしい。
採血予定の子を処置室の中で待ちながら、一美はぼんやりとそう考えた。
何がどう、とは、一美もはっきりとは言えない。
ただ、最近の彼女と一緒にいると、歯車が一つずつずれていっているような、そこはかとない違和感を覚えるのだ。
変わらず仕事はこなしているし、普通に笑う。だが、時折ふと、視線が落ちる。
何が彼女の中で引っかかっているのだろう――それは、プロポーズの返事がもらえないことと、関係があるのだろうか。
恐らく、そうに違いない。
一美が小さくため息を落としたちょうどその時、子どもの手を引いた武藤師長が入ってくる。患児は五歳の男の子で、このくらいの年齢になると、しっかりと言い聞かせてやればたいていのことは理解して聞き入れてくれる。その子も顔は強張っているものの、泣き叫んだり暴れたりすることなく、おとなしく処置台の上に寝転んでジッと腕を差し出した。
「強いな。ジッとしていたら、一回で終わるからな。泣いてもいいから動かんでくれよ?」
目を覗き込んでそう言い聞かせると、子どもは小さく頷いた。
「よし、頑張れ」
そう励ましておいて、手早く処置を進め、淀みのない手付きで患児の採血をする。針が刺さる瞬間に微かに腕がピクついたが、そんなのは何の障害にもならない。
「もう終わるぞ」
一美のその声に、武藤師長は絶妙なタイミングで絆創膏をあてがい、手際よく彼から受け取った血液の処理をしていく。そうして、さっさと片付けて、処置台から降りた子どもの手を取った。
今、この処置室の中には、一美と武藤師長と、患児の三人のみだった。
「なあ、師長」
一美は、部屋を出て行きかけた武藤師長に、何気ない口調でそう声をかける。いかにも、何でもない世間話、という雰囲気で。
「はい?」
「最近、小宮山さんはどう?」
「どうって? まあ、仕事はちゃんとやってますよ」
それだけで終わる。
もう少し何かあるだろう、と思いつつも、一美はそれ以上突っ込めなかった。武藤師長は黙り込んだ彼を放ってそのまま処置室を出て行きかけて、入り口のところで肩越しに一美を振り返ると、ニッと笑う。
「師長のあたしとしては、別に、あの子がちゃんと仕事をしてくれさえすれば、いいんですからね。それ以外のことは、先生の担当ですから」
それだけ言い置いて、彼女は子どもを連れて出て行った。
残された一美は、手を洗いながら渋面になる。武藤師長は何かに気付いている筈だが、傍観するつもりらしい。
人が動こうとしないのは、何かを恐れているからだ。
では、萌が恐れているものの根源は、いったい何なのだろう。
それが単なるマリッジブルーではないことは、確かだ。
(そもそも、まだ頷いてもらっていないしな)
一美は声には出さずにうなる。
萌の気持ちが自分にあることは彼も確信しているが、プロポーズに対して良い返事がもらえることを確信しているかと言えば――どうだろう。
こんなにも自信が揺らぐのは、彼にとって初めての経験だった。
その心の内を曝け出して頼ってきて欲しいと一美は思っているのに、萌はなかなかそうしようとはしない。確かに、彼に対してだけは、他の者には見せないような、拗ねた顔や怒った顔も見せてくれる。だが、まだ足りない。もっと、彼女を近くに引き寄せたいのだ。
弱くて、強くて、そして弱い、萌。
彼女の中には、何かが深く根を下ろしている。それは判り始めているが、では、いったいどこまで掘り下げればその先端が見えてくるのかは、予想もつかない。
果たして、掘り出すことが正しいことなのかどうかも。
萌の心の中に潜むものを取り出して、彼女の目の前に突き出すことが必要なのか、それとも、埋め立てて覆い隠してしまうことの方がいいのだろうか。
こういう分野は、苦手だ。
だが避けては通れない。
一美は、また、小さくため息をついた。
*
――お父さんと、お母さんと、そして、赤ちゃん。
お母さんは赤ちゃんをしっかりと抱き締めて、その笑顔には愛おしくて愛おしくてたまらない、という気持ちが溢れている。赤ちゃんが手足をバタバタさせると、お父さんも同じような顔で小さなその手を指先で包み込んだ。
ごくごく普通な、幸せそうな風景。
萌は離れた場所から、スポットライトが当たっているかのように明るく輝く彼らを見つめる。距離はないのに、何故か、三人の顔ははっきりしない。楽しそうな表情をしていることは、判るのに。
――いいな……
萌は、心の中で、そんなふうに呟く。と、自分とその親子とのちょうど中間あたりに、一人の女の子が佇んでいることに気が付いた。三歳くらい、だろうか。萌に背を向けて、同じように家族を見つめている。
――お姉ちゃん、かな?
何故、傍に行かないのだろうと萌が首をかしげた時だった。クルリと、その子が彼女に向き直る。
顔は、陰になっていて見えない。
けれど、小さなその子どもに気圧されるように、思わず萌は一歩後ずさった。
「うらやましい?」
不意に、子どもが口を開く。聞き覚えのある、声。でも、いったい、誰の声だろう。
言葉の内容ではなく、その声に意識を取られた――いや、意識を注いだ萌に、子どもは更に続ける。
「うらやましい? あそこにいきたいの?」
無邪気な、問いかけ。その響きに、裏も表もない。
――いいえ、行きたくない。だって……
まるで、心の中のその声が聞こえたかのように、子どもが萌の後を引き取る。
「いけないよね。だって、いれてもらえないもん。ママってよんでも、パパってよんでも、なんにもいってくれないもんね。もえのことなんか、みてくれないもんね」
子どもが一歩を踏み出し、萌が一歩後ずさる。いつしか、『温かな家族』は消えていた。こどもは、舌足らずな声で、続ける。
「でも、どうせ、すぐになくしちゃうんだもん。さいしょから、ないほうがいいよね」
――それは、そうだ。その心地良さを知らなければ、失うのも怖くない。逆に、一度手に入れてしまったら、失った時の喪失感は、とてつもなく大きい。その方が、ずっと怖い。
心の底の奥の奥。そこに、微かに残る、柔らかな温もり。優しい匂い。それを与えてくれた人に追いすがっても振り返ってくれなくなったのは、いったいいつの頃からだったろう?
ぼんやりと、萌は振り返る。けれども、答えは見つからない。見つけられるものではない。
ククッと、子どもの喉から笑いが漏れる。いいや、それは本当に笑いだったろうか。
ちょっと手を伸ばせばすぐ届く距離にいるのに、萌はそうできなかった。その子には、触れたくない、触れられないと、思った。
そんな彼女を、子どもは更に追い詰める。
「ねえ、ずっとかわらない、なんて、ぜったいないよ。どうせ、すぐにみんなどこかにいっちゃうんだから。もえをおいて。もえをほんとうにほしがるひとなんていないんだよ」
小さなその唇が、ニッと横に引かれる。その形は笑みなのに、笑っているようには思えない。
――やめて。
凍りついたような喉から声は出せなくて、萌はただ首を振る。
「もえのことなんて、だれもいらない。ほしがらない」
――それ以上、言わないで。
遥かに年若い子どもに向けて、懇願する。お願いだから、と。
けれど。子どもは言った。はっきりと、とても聞き覚えのある声で。容赦なく。
「だって、『 』だって、萌のことを置いていったんだから」
「!」
ハッと布団を跳ね除けて、萌は跳び起きた。
パジャマは汗で濡れそぼっていて、鼓動は耳鳴りがするほどに激しく打っている。
夢を、観た。
けれど、どんな夢だったのだろう。
とても嫌なものだったのは覚えているけれど、その『嫌な感覚』しか残っていない。
時計を見ると三時を少し回ったくらいだった。
眠気はすっかり失せている。もう一度眠る気にはなれなくて――眠って夢の続きを見るのが怖くて、萌はもそもそと緩慢な動きで布団を出た。身体がだるくて、そのままそこでうずくまってしまいたくなるのを、奮い立たせて。
布団に触れてみると、パジャマどころかシーツまで湿っていて、萌は布団カバーともども引きはがすと、パジャマと一緒に洗濯機に放り込んで、仕事に出るまでに洗い終わるようにタイマーをセットする。そうして、少し考えて、この時期では使うことのない布団乾燥機を引っ張り出した。
壁に寄り掛かって膝を抱え、乾燥機がたてる静かなモーター音に聞き入る。こうやって頭の中を空っぽにしていくと、自分の中の色々なことがリセットできるような気がするのだ。
やがてカチリと音がして、部屋の中にまた完全な静寂が訪れる。カーテンの隙間からはいつしか薄明りが射し込みはじめていて、萌は小さくため息をついた。
――仕事だ。早く、病院に行こう。
そう思うと少し力が湧いてきて、立ち上がり、身支度を始める。
萌は、仕事が好きだった。誰かの世話をして「ありがとう」と言われると、いつも、心地よい――というよりも、安心するという表現の方がしっくりくるものが胸を満たした。大げさかもしれないけれど、働くということは、彼女にとって『食べる糧』以上の、『生きる糧』ともいえる。
食欲はないから、いつものバランス栄養食品をホットミルクで流し込み、洗面所に向かった。顔を洗って鏡を見ると、どこか不安げな眼差しと出会う。そんな顔では、仕事にならない。両頬を手のひらでぴしゃりと叩くと、萌は鏡の中の自分に笑顔を向けた。
そこにいるのは、いつもの、自分だ。
洗濯物を干し、家を出て、地下鉄に乗る。
病院に着いて、更衣室で着替えて、病棟に上がり、朝の申し送りに臨む。
変わらない日常。安心できる、変化のない毎日。
それが、萌にとっては一番寛げる。
申し送りが解散し、コロコロコロとカートを押しながら、萌は病室を回る。検温や点滴のチェックをしながら、何か気になることや困ることがないかを訊いていく。
霞谷病院の小児科は原則的に付き添いをお願いしていて、時に父親、祖父母などがベッドサイドにいることもあるけれど、母親であることが一番多い。
「お熱はないですね。痛いところとか、ない?」
ベッドの上に寝転がった少年にそう問いかけると、彼は首を振った。ひどい腸炎で入院してきた子で、最初の一日は嘔吐と下痢とでヘトヘトになっていたけれど、今は吐くのは止まって下痢だけになっている。
子どもは何も言わなかったけれど、傍に控えていた母親が言い添えた。
「あの、下痢の所為でお尻が荒れちゃってるみたいなんです。痛そうで……」
「判りました。先生に伝えておきますね」
心配そうな彼女にニッコリとそう返して、また次の子へ。
入院するということはあまり良くないことではあるけれど、親子の関係が一番近くなる時でもあるのではないかな、と萌は思う。普段はついつい怒ってしまってばかりのお母さんも心配する気持ちで一杯だし、いつもは生意気盛りで反抗してばかりの子ども達もしおらしくしている。心配で心配でこの子が良くなってくれるなら何でもいいと案じるばかりの親達と、ここぞとばかりに甘える子ども達。
この病院で働くようになって、たくさんの親子を、家族を、見てきた。
そうして、萌の中の憧れはいや増していく――目の当たりにする、その関係の、濃厚さに。
萌は、家族が、欲しかった。自分の、自分だけのものだと言っても赦される家族が。家族であれば、強い想いを繋げて、その絆が永遠に続くのだと信じても赦されるような気がする。
萌にとって、家族とはそういうものだった。
では、なぜ、一美のプロポーズに返事ができないのだろう。
そう、自問する。
彼の申し出を受ければ、望んでいたものが手に入るのに。なんで、「はい」と、「嬉しいです」と言えないのだろう。
萌には、自分でも何故なのかよく判らない。
一美のことは好きだ。ずっと一緒にいたいと思う。彼からあの言葉をもらえた時、心臓が止まるかと思うほど、嬉しかった。
それなのに、なんで答えが出せないのか。
早く返事をしなくちゃいけないと焦れば焦るほど、色々なことが解からなくなってきてしまうのだ。
そもそも、自分の中の一美に対する気持ちは、好きという想いは、どういう『好き』なんだろう。本当に恋愛感情なのだろうか。
一美と付き合い始める前に、彼が自分に向けてくるものは妹や、下手をすると娘とかに対するようなものではないのかと、落ち込んだことがあった。でも、こうやって改めて考えてみると、もしかしたら、萌の中にある彼に対する気持ちは、兄とか父親とか、そういう存在に向けるものだったりはしないだろうかという気がしてくる。
一美と一緒にいて、キスをされたり抱き締められたりすると、確かにドキドキする。けれど、それ以上に、安心してしまうのだ。特に、彼の大きな身体に包み込まれていると、何も考えずにその中に閉じ籠っていたくなる。
それは、恋とは違うのかもしれない。子どもが大人に甘えているようなもので、『男の人』を好きになるのとは、違うのかもしれない。
だったら、プロポーズを受けてはいけない気がする。
そんな対等ではない気持ちで結婚したら、きっと、いつか愛想をつかされてしまう。今の一美の想いは信じているけれど、自分がこんなでは、この先どうなるか判らない。
それに、一美は萌のことを好きだとはっきりと伝えてくれるけれど、こんな自分のどこを見て、そんなふうに思ったのだろう。話に聞く限り、彼がこれまで付き合ってきた女性と萌とは、大きく違っている。
何故、一美は、彼女たちのうちの誰かではなく、この自分を選んだのだろう。自分に、選ばれるだけのものがあるだろうか。
考え始めれば、次から次へといろいろなことを思ってしまう。
――主には、マイナスの方向に。
『結婚』――それは、ずっと一緒にいるという『約束』だ。その『約束』をもらって、『家族』になって。
――でも、それは、本当に変わらないものなの……?
そんな囁きが萌の心の中に忍び込む。
一美のことは信じている。信じているけれども、怖い。自分がこの先も彼のことをつなぎとめておけるだなんて、とてもではないけれども思えない。
今の彼との関係はぬるま湯のように心地良くて、これがずっと続いてくれることを願ってしまう。『今』が変わらず続けばいいと、祈ってしまう。自分が欲しいものが何なのか、それすらも、時々判らなくなりつつある。
一美からプロポーズをされてから、萌の中の何かがおかしくなっているような気がした。最初は「プロポーズの返事をどうしよう?」から始まったのに、その答えが出ないままに次の疑問が湧いてきて、それが解決しないうちにまた次が生まれてくる。自分の中を掘り下げるほどに、わけが解からなくなってくる。
グルグルグルグル思考は螺旋を描くように回っていって、次第にそれは避けようのない一点を目指していくような気がした。
萌は息を一つついて、次の病室に足を運ぶ。
「失礼します。検温ですよ」
そう声をかけながら、カーテンを開けた。
そのベッドにいるのは、発熱が続いているという訴えで入院してきた、生後八か月の男の子だ。入院して三日目で、熱は下がってずいぶん元気になっている。来た時は水分も取ろうとしなかったけれど、今はミルクもぐいぐいと飲むようになっていた。もうじき、退院になるだろう。
「お加減いかがですか?」
ニッコリ笑ってそう声をかける。
「あ、お陰様で、ずいぶん元気になりました。ミルクも普段通りに飲んでますよ。離乳食も食べ始めました。機嫌もいいです」
母親も嬉しそうに、いつも萌が訊いている項目を先回りしてスラスラと答える。
「そうですか。良かったですねぇ。あ、ホントだ、ご機嫌さんだ」
体温計を脇の下に挟みながら萌が笑顔を向けると、その子もニコッと笑い返してきた。じきに、ピピッピピッと電子音が響く。
「はい、今日もお熱はありません」
「ねえ、元気になって、良かったよねぇ。ほら、ゆうちゃん、ミルク飲もうか」
そう言って、母親が用意してあった哺乳瓶を子どもの口元にあてがう。
「はい、ゆうちゃん、いただきまぁす」
優しそうな、母親の声。そして、ふわりと漂ったミルクの香り。
不意に、萌の胸の底がズクンと痛みを訴えた。チラリと脳裏に閃いた、既視感。
――何だろう?
一瞬、足元の床が消え失せたような、奇妙な感覚に襲われる。けれど、それは本当にわずかな間のことで、萌は小さく頭を振って気を取り直す。寝不足気味だから、立ちくらみをしたのかもしれない。
萌はもう一度笑顔を浮かべて、母親に声をかける。
「じゃあ、飲んだミルクの量を、また忘れずに書いておいてくださいね」
「あ、はい」
子どもに意識を注いでいる彼女の返事は、気もそぞろだった。
――赤ちゃんのお世話をしているお母さんって、そういうものよね。
そう、周りのことなど、全然気にも留めなくなるものだ――他の子どものことなど。
そんな考えが頭をよぎって、萌は首をひねる。何故、そんなふうに思ったのだろう、と。いくら世話に集中していても、周りを無視してしまうほどではないというのに。
――まあ、いいか。
変なふうに考えてしまったことを怪訝に思いながらも、萌はそれ以上追求しようとはしなかった。大したことではない。深く考える必要のないことだと、自分に言い聞かせて。
それは、あまり追い掛けてはいけないことのような、気がした。




