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「ああ、そうだ。店にはうちの親も来てるから」
駅前の通りを歩いていると、ふと思い出したというように、一美がそんなことを言い出した。
思わず足が止まった萌を、一美は「どうした?」と問いかけるような眼差しで振り返る。
彼が本当に判らないのか、それともとぼけているだけなのかを見抜くことは、萌には難しい。思わずマジマジと見つめて、間が抜けた声で返してしまう。
「……はい?」
今晩は、仕事の帰りにちょっと何かを食べるだけだった筈。そんな席に、『うちの親』なんて、いるわけがない。
萌はきっと聞き間違えたのだ、と自分の耳を疑いつつ――それを願いつつ、彼を見上げる。けれども一美は、まるでなんでもないことのように、続けた。
「父と母が、たまたま同時に身体が空いたんだ。一時間くらいだけらしいけどな。店で落ち合うことになっているから」
彼の声が呆然としている萌の右の耳から左の耳へと通り抜けていく。
――この自分が、一美のご両親に会う?
なぜ、一美は、こんなに普通の顔でそんなにとんでもないことを言えるのだろう。
我に返った萌は、きっぱりと断言した。
「無理です!」
「何故」
いかにも心外、というふうに訊き返してきた一美に、萌は必死で理由を考える。いや、考えるまでもなくたくさんある筈なのだけれど、どれを挙げたらいいのか判らない。
萌はうつむいて、もごもごと口ごもる。
「そんなの……だって……」
「別に、深く考えなくてもいいだろう? 俺たちは付き合って半年以上になるんだぞ? しかも、俺は君にプロポーズまでしている」
「それは――」
「ああ、その返事は焦らなくていいから。君が好きなだけ悩んでくれ。取り敢えず、今は時間がないから行くぞ」
澄ました顔でそう言うと、一美は彼女の手を引いてまた歩き出そうとする。
なんだか自信満々なその様子に、『あの言葉』を言われて以来、ずっとグズグズと考え続けている萌は、ちょっとムッとする。
(わたしばかりがおたおたしているなんて、ズルイ)
胸の中に湧き上がってくる反抗心のままに、萌は彼の背中にムスッと言葉を投げつけた。
「十年くらいかかったら、どうするんです?」
「は? ああ。それでも、まだ君は三十二だろ? 今時、三十代前半で初産なんて珍しくない。まあ、色々大変だから三十五は越して欲しくないけどな」
さっくりと返されて、萌はいっそうムキになる。
「じゃあ、その挙句、先生のことを振っちゃったら?」
萌にしたら爆弾発言だった筈なのに、一美はチラリと彼女を見下ろして、薄く笑った。
「できるなら、な」
そんなことには絶対にならないと確信しているようなその態度に、萌はムウッと唇を結ぶ。そんな彼女を見て、一美は堪えきれなくなったように小さな笑い声を漏らした。
自分が振られるなんて、少しも考えていないのだろうか。
萌は足を踏ん張ってその場に留まると、更に言い募る。
「ホントに、いいんですか?」
精一杯の力を込めて睨み付けた萌を、一美はジッと見つめてきた。そして、不意に彼女の手を持ち上げたかと思うと、抗う隙を与えずその指先にくちづける。
「!」
中指の辺りに柔らかな温もりを感じ、声をあげるより先に萌の頬は火を噴いたように熱くなる。
咄嗟に振り払おうとした手を、彼はぎゅっと握り締めた。そして、ニッと笑う。
その不敵な笑みに、萌は何だか頭の天辺からバリバリとかじられて、自分が無くなってしまうような気がした。何か言おうとしても、言葉が出てこない。
一美はふっと笑みを消したかと思うと、黙ったままの萌の目を見つめて同じ言葉を繰り返した。
「できるなら」
そして、手を繋いだまま歩き出す。
萌が彼に勝てるわけがない。
子どものように手を引かれ、彼女は一美の両親が待つ先へと向かうしか為す術はなかった。
*
いつもの行きつけの店の筈なのに、今日の萌には全然違う場所に感じられる。
「そう、小宮山さんとおっしゃるの。萌さんとお呼びしても良いかしら?」
向かい合って座っている一美の母、一香は、六十歳を越えているとは思えない若々しさに溢れている女性だった。
定規でも入っているかのように真っ直ぐに背筋を伸ばして微笑むことなくそう問われても、萌にできるのは頷くことだけだ。
「はい」
「もっと力を抜けよ。取って喰われやしないから」
ガチガチに緊張しているのが明らかな萌に、一美が呆れた声を出す。
人の気も知らないで、と思いはしても、彼を睨み付けることすらできない。
食事が主体でなくて良かった、と萌はしみじみと思う。
指一本動かすのにも難儀しているのに、食事なんてとんでもない。とうてい胃が受け付けそうになかった。
こっそりとため息をつく萌に、今度は一香の隣に座っている美彦がこれまた表情を変えることなく、言った。
唐突に。
「私たちのことは、『お義父さん』『お義母さん』でいいから」
「え」
「皆、『岩崎先生』だから、呼び方に困るだろう?」
それはそうなのだけれども、無表情にそう言われても、その発言がどんな真意を含んでいるのか、萌にはさっぱり判らない。
素直に「はい」と答えた方が失礼にならないのか、それとも「いえいえ、そんな」と言うべきなのか。「いいえ」と答えても、ではどんなふうに呼んだらいいのか、見当もつかない。
萌が答えを決められずにいると、先回りをして、一美が答えてしまう。
「そうだな、それがいい。結婚前提で付き合っているのだし」
「!」
何の前触れもなく暴露してしまった一美を萌は今度こそ睨み付けたけれど、彼はしれっと澄ました顔を返しただけだった。
恐る恐る前に座る二人に視線を移しても、一香も美彦も平然としている。もしかしたら、事前にそのことについては聞いていたのかもしれない。
萌は、色々な意味で限界を迎えつつあった。
もう、無理だ。
「あの……」
蚊の鳴くような声を振り絞る。と、一斉に三人の目が注がれた。
いたたまれない。
「あの、ちょっと、お化粧室に……」
殆ど全身の力を掻き集めるようにしてそれだけ言って、何とかペコリと会釈を残して席を立つ。
ぎしぎしと音を立てるのではないだろうかと思いたくなる両脚を必死に動かして、萌は真っ直ぐに化粧室へと向かった。個室に入って鍵を閉めて、そこでようやく、自分が息を詰めていたことを知る。
受験や就職の時の面接よりも、緊張する。
幼い頃から色々な人と接してきたからか、今まで人と対峙して言葉に詰まる、ということはなかった萌なのに、もう、緊張で心臓が壊れてしまいそうだ。
多忙な一美の両親をあまり待たせるわけにはいかず、萌はその場で深呼吸を繰り返すと、意を決してドアを開ける。
と、その瞬間、固まった。
「萌さん、少しいいかしら?」
目の前に立っている一香にそう言われ、首を横に振ることができようか。いや、できない。
萌は声もなく、頷く。と、一香は「よし」というふうに顎を引いた。
その様子が、しばしば一美が見せるものとよく似ていて、萌は何となくホッとする。
(そういえば、先生はお父さんよりもお母さんに似ているかも……)
そう思うと、少し気が楽になったような気がした。もっとも、あくまでも『気がした』だけだったけれども。
やっぱり萌は落ち着かなくて、何となくモジモジと左の親指の爪をいじった。
そんな彼女に、一香は相変らず動かぬ表情のまま、言う。
「一美がお付き合いしている方を紹介すると言ってきたのは、初めてなのよね」
その声音からは、彼女が自分の発言についてどんなふうに感じているのかは、さっぱり掴めない。
口を挟めずにいる萌に、一花は肩をすくめて寄越した。
「うちのことは聞いている? どんな家庭なのか、ということを」
「はい……」
萌は頷く。
あの日『クスノキの家』に萌を迎えに来て、彼女の『家族』について知った夜、帰りの車の中で一美は自分のことについても話してくれた。実は朗から聞いてしまったのだと告白した萌に、構わないさと笑った後で。
あの時、彼は言った。
「別に、家族に対して積極的に何かを感じていたわけじゃない。傍にいてくれなかったと恨むほど、子どもじゃないしな」
しばらく無言。そして、再開。
「いや、どうだったのだろう。自分でも判らないな。君から家庭を持ちたいと言われた時にあんなにムキになってしまったのは、もしかしたら何か自分の中でわだかまりがあったからかもしれない。まあ、少なくとも、あの両親を見ていて、自分も同じような家庭を作りたいと思ったことがなかったのは、確かだ。あの二人は何の為に結婚したのだろうか、と首を捻ることはあったがな」
何も言えずにいた萌に、彼は肩をすくめて続けたのだ。
「多分、家の為だったのだろう。母の実家の病院を盛り立てるには、最高の相手だったろうからな、父は」
そんなことを言った一美が何を思っていたのか、その素っ気ない口調からは察することができなかった。
一美には父親と母親が揃っていて、その両親は立派な人だ。でも、彼にとって『幸せな』家庭だったかと言えば、そうではなかったのかもしれない。
萌のそんな物思いを、淡々とした一香の声が遮る。
「私も夫も仕事ばかりで、家にいることは年間を通しても数日でしかなかったわ。その生活を後悔する気持ちはないし、三十年前に遡ったとしても同じことをする。決して一美のことを愛していないわけではないのよ。でも、医者としての自分をやめることもできなかったのよね」
一香はニコリともせずに、きっぱりと言う。本当に、後悔の欠片も感じさせない声で。
「あの子がね、女性を紹介してくれたのは、初めてなのよ――本当に。嬉しかったわ。それに、あなたを見る、あの子の目。誰かをあんなふうに見つめる眼差しも、今まで見せたことがなかった」
小さな、ほんとうに小さなため息。
それは、ほっと安堵して思わず漏れてしまった、というふうに萌には聞こえた。
(やっぱり、『お母さん』なんだ)
鉄面皮な一花がこぼしてみせた心の欠片に、萌はちょっとうれしくなる。
「親らしいことなんて何一つしてこなかったけれど、あの子に幸せになって欲しいと思うのよ。仕事に没頭するなら、それはそれでいいと思っていたけれど、大事な誰かを見つけられたなら、私はその方が嬉しいわ」
顔の筋一つ動かさずにそう言った一香だけれども、何となく、雰囲気が柔らかい。思わず、萌は呟いていた。
「先生に、そう言ってあげたらいいのに……」
一香にマジマジと見つめられ、萌は心の中の呟きのつもりが外にこぼれていたことを知る。
「! 失礼しました、すみません!」
「いいえ」
九十度以上腰を折った萌に、一香は静かに首を振った。
「そうね。私たちは言葉が足りなすぎたかもしれないわね。でも、まあ、今更でしょう?」
もう遅い、と肩をすくめた一香に、萌は真っ直ぐに目を向ける。
その眼差しを受けた一香は、微かに目を見開いた。それまでのビクビクした色がその目の中から消え失せていることに、萌自身は気付いていない。
「何も言わないでいるよりも、言ってあげた方がいいと思います。岩崎先生は、ご両親について、多分、色んなことを誤解しています」
「……誤解?」
訝しげに、一花はその言葉を繰り返した。
萌は、コクリと頷く。
「はい。あの、お二人は、お互い想い合ってご結婚なさったんでしょう?」
それは、先ほどの一香の言葉から何となく感じ取れたことだった。
一美が言っていたように仕事が第一で、彼女自身が誰かを大事に想ったことがないのなら、息子のことを「仕事よりも大事な相手を見つけてくれて嬉しい」とは言わない筈だ。
唐突な萌の質問に、一香がきれいに整った眉を微かにひそめる。
「ええ、そうよ。彼が医者になってすぐの頃、私が指導していたの。三年付き合って、結婚したわ」
やっぱりだ。
萌は一香の目をしっかりと捉えて続ける。
「それも、先生は知りません。勘違いしてます」
「勘違い?」
「はい、お二人が結婚されたのは仕事の為だと思うって言ってました」
「まあ」
呟くようにそう言いながら、一香は瞬きをする。今の今まで、本当に思いも寄らなかったようだ。
彼女は少し黙って考え込んで、そして微かに口元に笑みを浮かべた。
「そうね。一度話してみようかしら」
「先生、喜びます、きっと。それに傍にいるのにちゃんと話さないなんて、もったいないです」
答えて、萌はニコッと笑う。両親のことについて、一美が思っていたのと違っていたことが何だか嬉しい。
そんな萌の笑顔をしげしげと見つめて、一香が言った。
「あなた……意外にしっかりしているのね」
「え? あ、すみません! 偉そうなこと言いました」
思わず一歩退き、また深々と頭を下げる。けれど、萌の出過ぎた物言いに一香は首を振ると、微かに笑みを含んだ声で言った。
「いいえ。あなたの言うとおりだわ。私たちには時間と言葉が足りてないのよね」
そうして、肩をすくめて、今度ははっきりと微笑んだ。
「一美があなたを連れてきた時、悪いけれど、対等な立場には見えなかったわ。今まで道子さんから聞いてきた方たちとは随分タイプが違っていたし。ただ、猫可愛がりしているだけなのかと思っていたのよ。でも、あの子にはむしろそういう相手の方がいいのかもしれないとも思ったわ」
的を射た一香の台詞に、萌はちょっと顎を引いた。
常々感じていたことを、彼に一番近いともいえる存在から改めて言われると、そこはかとなく落ち込む。
そんな萌の表情を見て取ったのか、一香が苦笑した。
「『思った』のよ。今は違うわ……あの子は面倒な子でしょうけど、よろしく頼むわ」
「いえ……こちらこそ……」
「ああ、私のことは『お義母さん』でね。夫のことも『お義父さん』と呼んであげて。あの人も喜んでるのよ」
そう言われ、萌は思わず内心で「あれで?」と呟いてしまう。
美彦は眉一つ動かさずにいたけれど。
妻である一香がそう言うのならばそうなのだろうと、萌は自分を納得させた。
「さあ、そろそろ戻りましょう」
一香の促しに従って、萌は化粧室を後にする。
来た時の緊張は、いつの間にか、随分と薄らいでいた。
――『おとうさん』と、『おかあさん』。
萌は、胸の中でつぶやいてみる。美彦と一香をそう呼び、一美の申し出を受ければ、いつか自分達もそう呼ばれるようになる。
その時、心の奥底で、チクリと何かがうずいたような、気がした。