第20話「新しい朝にご挨拶ください」
「人間の持つ能力の中で最も地味で、かつ最も有用なものは何か知ってる?」
かつて、学生の頃だったろうか。よく一緒にいてくれた友人がこんなことを尋ねてきたことがあった。
「『最も地味で最も有用』って。二冠ってことか?」
俺は少しひねくれたような問い返しをした。友人は首をひねって「いや」と呟き、
「厳密に言うなら、地味さと有用さを最も兼ね備えたというか、地味さと有用さのパラメータ合計値が最も高いというか」
「もう何言ってるか分かんないよ」
俺は笑った。その時の冷たい空気の澄んだ匂いの記憶が、併せて蘇る。友人も笑ったと思う。
「なんかちょっと冴えない感じになっちゃったけど、正解は何だと思う?」
「『地味だけどすごい』みたいな能力ってことか。『忘れる』とかかな」
友人は「ぶっぶー」と不正解の音を口から出して、どこか得意そうに告げた。
「それは全然地味じゃない」
「どういう基準だよ」
「簡単かつ明確な基準だ。その単語が小中高の教科書に何回登場するか」
「マジか」
彼はまるで呼吸するように適当なことを言った。しかも、すぐにそれと分からないような形で――まるで世界の真実を語るような口調で唐突に言及するので、その度に一瞬信じてしまう。全く学習しようとしない俺の反応が面白かったのか、彼はよくそれを繰り返した。
「嘘だよ」
そして、いつも即座にその虚構を明かした。
「嘘かよ」
その後で、少しだけ本質的なことを言うのだ。
「正解は、『慣れ』だ」
――
数日が過ぎた。俺がこの世界――パティアレゴスで突然目覚めてからの話だ。
初めての世界、初めての社会、初めての街、初めての人。極めつけに、初めての言語。オールレンジから「はじめまして」に完全包囲された環境で、初日はアキルとして振る舞えるよう、取り繕うのに正直必死だった。
しかし、慣れというのは恐ろしい。俺はこの環境に早くも馴染んでいた。目覚めたその日にクナに自分がアキルではなく陽であることを明かし、精神的な孤独感を分かち合うことができたのが大きいのだと思う。
アキルの記憶に触れながら、少しずつ実感としてこの世界を理解していく中で、家族と過ごす時間を心から楽しく、かけがえのないものと感じるようになった。
仕事は相変わらず忙しく、楽しいとまでは言えないが、職場の仲間達と連帯して支え合う経験は決して悪くない。少なくとも戸籍管理官としての責務を果たすことで、一定程度は自分がこの世界に存在することの正当性というか、「ここに居てもいいんだ」という意識に繋がっている。
勿論、日本にいる家族のことが気にならないといえば嘘になる。しかし、書棚にあるアキルの日記には、数日おきにアキルが経験している日本での様子が書き込まれ続けていた。何故かこちらからは日記に対して記述することができない状態であるため、意思の疎通を行うことはできない。それでも、アキルが日本で俺の役割をこなしてくれていることで、混乱はほとんど生じていない様子が伝わってきて、それが大いに安心感を与えてくれていた。翻って、俺もこちらの世界でアキルを安心させられるような働きをしなければならないというモチベーションが湧いてくる。
そんなわけで、今日も少し早く起きて掃除と洗濯をこなし、朝ご飯をクナと一緒に作った。3月も終わりに近づいており、暖かい気候が続いているのだが、子ども達は相変わらず朝起きるのが苦手だ。相変わらず、というのは日本の子ども達、星羅・昴・或斗のことを念頭に置いているのでやや正確さに欠けるが、アキルの記憶にあるセーラ、スバールバルライチ、アルタもほぼ似たようなものだったので結局は「相変わらず」朝が苦手ということになる。起こされない限りは基本的には起きない。ちなみに、アルタだけは数日に一度は自分で目覚め、朝から何やら活動していることがあるが、何をしているのかはアキルも俺も深く詮索してこなかった。或斗の場合は恐らくテレビゲームなんだと思っていたが、アルタは何をしているのだろう。
「おはよう! 起きろー、学校ー!」
子ども達は三人で同じ部屋で寝ている。セーラはもう中学1年生ということで、日本の感覚であれば男兄弟とは部屋を分けてあげたいと考える家庭もあるかもしれないが、現在のカイ家――アキルの本名がカイ・アキルなのでこのように称するが少し不思議な言い方だ――の居宅事情からすると難しい。そもそも部屋数が足りない。しがない公務員の身の上であり、直近で高給取りになる予定もないので、自立して家を出ていくまでは我慢してもらうしかないだろう。
ここエデュカシアでようやく気持ちが落ち着いてきた今日のこの頃、我が家の経済的な事情に思いを致すと情けないような申し訳ないような気持ちにもなるが、子ども達自身は全く気にしていないようだ。時折兄弟で激しいケンカをすることもあるが、「それぞれ居室を分ける」という発想がそもそもないらしい。それはそれで少し切ないものだと思う。
住宅問題の根本には、約10万の人口を抱え、なおも人口増加の続く王都の宅地開発政策における供給量の不足があると推察される。であるならば、公僕の末端を担う我が身、いずれにせよ責任の一端を感じてしまう。
子ども達を起こしに部屋に入り、声をかけて寝台の横で暫し待つが、誰も起きようとしない。やむなく、俺は強権を発動することにした。
「あと10秒で起きない場合、全力でこちょこちょする」
途端に布団――といっても現代日本の上質な綿布団や羽根布団とは異なる、リネンと重い羊毛の掛け布団である――が跳ね上がり、まずはアルタが寝台から飛び出し、階下へ駆け下りていった。続いてのそのそとスバルが起き上がって着替えを始める。伸びた髪の毛が鬱陶しそうだ。
「7、6、5、4……」
セーラは…………反応がない。ギリギリまで粘るつもりなのか、本当に眠っているのか。いずれにせよ言ったことは守らなければならない。
ちなみに三人は、三段ベッドのような形状の寝具で眠っている。一番下は引き出しのように可動式になっており、下からアルタ、スバル、セーラに割り当てられている。概ね、起きる順番と一致しているのが面白い。さらに驚くべきことには、三段ベッドというつくりやその割り当てまで日本の海地家と同じである。気付いたときには笑ってしまった。
「3、2、1、0!」
俺はスバルのベッドの枠に足をかけ、上段ベッドのセーラの掛け布団を一気に引き剥がすと、脇腹を鷲掴みにした。
「起きろ!!!」
「ぎゃああああああああ!!!」
叫びを上げ、手足を全力でばたつかせて抵抗するセーラ。しかし父の腕は容易に引き剥がすことはできない。数秒脇腹をくすぐった後、そのまま両手で抱えて寝台から引きずり下ろした。
「やめろー!!」
「起きないのが悪い」
セーラはジタバタと暴れ、俺の背中を殴りつけているが、構わず肩に担いだまま階下に連行した。
「おはよう」
クナは俺達の様子を見ると、微笑んでセーラに挨拶をした。
「下ろせー!!」
「おはよう、だろ」
「おろはよー!!」
微妙な言い方だったので、さらに少しくすぐりを追加。セーラは「ぎゃああ」とさらに悶絶し、それからぐったりとして、小さく「おはよう…………」と告げた。これでやっと下ろせる。
「なんで私が全力で暴れてびくともしないんだ…………」
肩で息をしながらセーラが床で独りごちているのが耳に入ったが、聞き流す。そりゃ娘にはまだまだ負けられないよ。
「アキル、みんな起こしてくれてありがとう。そろそろ出発したほうがいいんじゃない?」
クナに促され、ちらりと我が家に一台きりの壁掛け時計に目をやると、確かにいい時間だ。今日は職場への出勤ではないため、少し早い。
「パパ、今日はどこ行くの?」
早速着替えの終わったアルタから不思議そうに問われ、俺はそっとその頭を撫でた。
「PTAの役員会。初仕事だな」