第19話「長い一日の終わりにご休息ください」
アキルは、自分と入れ替わっていた。
可能性として想像しなかったわけではない。異世界に自分がもう一人いて、自分の意識がその異世界の自分の身体に転移した。では異世界の自分はどこに行ったのか。同様に、元の自分の身体に転移していたと考えれば一応の辻褄は合う。いや、何が起こってこんなことになったのかわからない以上、辻褄が合った「だけ」と言うべきだろうか。
「これは……本当のこと?」
クナが日記の文面に目を落としながら慎重な声音で告げた。日記には、俺の仕事のことや日本のこと、社会の仕組みや世界の広がりについて非常に興味深いといったことが書かれていた。これまでの端的な報告書のような形式からすれば考えられないほど饒舌に心情が吐露されているが、その気持ちはよく分かる。俺も今日の日記を書こうとしたら、恐らく筆が止まらないと思う。
「そう、だね。家族の名前も合ってるし、向こうの世界のことも正確に書かれていると思う」
「うん。いや、ええとね、そうじゃなくて……ごめん、大丈夫」
クナは何やら一人で考え始めた。彼女には何か気に懸かることがあるのかもしれない。俺には見えていないことがあるのだろうか。
それはそれとして、この日記の記述は俺にとっては心からありがたいと感じられた。日本で俺の家族や自身の責任の類がどうなっているのか、ずっと心のどこかに引っかかっていた。しかし、そこには俺の代わりにアキルが居てくれる。誰よりも信頼できる自分の分身だ。
俺の持つ記憶は現代日本の情報を含んでおり、恐らくこの世界におけるアキルの記憶より容量が大きいと予想される。これを上手く処理して対応できるのか少々不安に感じたが、記載されている通りなら、恐らく俺と同様に何とか対応したのだろう。
アキルなら、俺の家族を大切にし、守ってくれる。この点については確信できる。だから安心できる。仕事もPTAも、何とか回してくれるだろう。寧ろこの世界の経験を持っていることで、新しい視点を基礎に俺なんかよりずっと上手くやってくれる可能性すらある。
自分の中に重くわだかまっていた大きな懸念が一つ解消され、俺は大きく息をついた。これは同時に、俺がこの世界のアキルの家族を彼に代わって守らなければならないことを意味する。現代日本よりずっと危険が多いだろう、このパティアレゴスで。
アキルの日記の末尾にはその心配が綴られていた。自分が居なくて、クナや子ども達はどうなってしまうのか、と。
「この日記に俺が書いたら、アキルに届くかな」
アキルの日記を読んだ自分と同様、何とかアキルを安心させてやりたくて、俺はぽつりと零した。クナは少し思案して、やってみよう、と机の引き出しから筆記具を取り出した。普段アキルが使用している、ペン先にインクを付けて記述するタイプのものだ。ちなみに、戸籍課の業務で利用しているのも同じ筆記具である。
早速書き込もうとペン先を日記に押し当てると――書けなかった。インクが、日記の紙面に付着しない。染み込んでいかない。ペン先と紙の表面が透明な薄い膜で仕切られているかのように、一切の書き込みを行うことができない。
「貸してみて」
クナが筆記を試してみるが、同じだった。彼女は紙面をめくり、表紙や裏表紙、その他日記の隅々までチェックした。
「おかしい。この日記は別に、魔術具じゃないの。普通の紙をまとめただけ。なのにこんな……」
クナには珍しく、少しだけ早口で、普段より冷静さを失っているように見えた。せっかくアキルとコミュニケーションを取ることのできる可能性を見出したのにそれが叶わない。加えて、彼女の考える世界の仕組みに合致しない現象が単純に理解できず、空恐ろしく感じているのだと思われた。
「魔術」なんてものの実在するこの世界ではどんなことが起こっても不思議ではないのでは、というのが俺の率直な感覚だが、クナの眼にはこの日記が異常な存在に映るらしい。それは例えば、現代日本で科学的にあり得ない事象に遭遇したような感覚なのかもしれない。それこそ、心霊現象の類のようなものだろうか。
彼女はもう一度、先程現れたアキルの日記の記述に目を走らせ、それからゆっくりとその表紙を閉じた。
「――分からない。ので、一旦忘れることにします」
「さすが、切り替えが早い」
俺が笑うと、クナも首を傾げ、可笑しそうに笑った。
その後、俺は寝台に座ったクナに正対し、自身の家族のもとにアキルが居てくれるなら安心できるということ、アキルに代わって当面は自分がクナや子ども達を守っていきたいということを伝えた。クナと子ども達は、アキルの記憶を持つ俺にとっては本当の家族と同じように愛しく、大切な存在であるということを。
「ありがとう。さっきも伝えたけど、私はあなたをアキルだと思って接することにするよ。それとも、アキラって呼んだほうがいいかな?」
「……二人だけの時は、よーくんんって呼んでくれると嬉しい」
少し恥ずかしかったが、思い切って伝えてみた。「陽」という名前の漢字は「よう」と発音するのが一般的であること、それを捉えて月音は昔から俺のことを「よーくん」と呼んでいたことを説明すると、クナは少し恥ずかしそうに「よーくん」と呼んでくれた。
嬉しい。可愛い。どうしても口角が上がるのを抑えられず、口元を覆って顔を背けると、クナが素早く回り込んで顔を覗き込んでくる。それをきっかけに、硬い寝台の上でバタバタとじゃれ合うような形となった。やがて俺はクナの腕を取り、その小さな身体を抱き締めた。
この人は自分の妻であり家族だと心から感じることで、初めて葛藤なく彼女を抱き締めることができた。クナも俺の背に手を回してそれに応えてくれる。
「――あ」
クナが何かに気付いたような声を上げたので、俺は彼女を抱き締める手を緩めた。
「指輪、持ってたよね。ちょっと見せて」
会長の指輪のことだと理解して、指輪を外してクナに渡した。彼女も指輪に興味があったのか、と思ったが、そういえば彼女は「彫刻師の見習いのようなことを始めた」とアキルの記憶から今朝確認していた。よくよく思い起こせば――クナの彫刻師とは、魔術具に魔詩を彫り込む魔術彫刻師のことではなかったか。
クナは 机の上の魔術具の明かりを再度灯すと、机から取り出したルーペのようなもので観察を始めた。なんか、昼にも似たようなことがあったな……。
「あなたは私たちを守ってくれるって言ったから」
指輪に真剣な視線を注ぎながら、しかし彼女の口調はどこか楽しげだった。
「少しだけ、魔詩をいじってもいいかな?」
「え……大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ」
その口調には確信があった。クナが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう。月音であれクナであれ、俺は全面的に妻を信頼している。
「分かった。任せる」
「ありがとう」
クナは俺に笑顔を向けると、暗い部屋を出て階下へ駆け下りていった。それから、すぐに今朝の出勤の際に抱えていた鞄を持って上がってくる。恐らく、彼女の仕事道具が入っているのだろう。
「大丈夫、すぐ終わるからね」
仕事道具の中から、クナは先端の尖った彫刻刀のような道具を複数取り出して見比べ、中でも最も小さな物を手に取った。俺がじっとその様子を眺めていると、歌うように教えてくれた。
「燐刻刀っていうんだよ。魔術具に魔詩を記述するには、これで魔力の通り道を描くの」
それから、彼女は注意深く指輪の細やかな模様――魔詩を見極めると、手にした小さな刃を指輪に近づけた。瞬間、彼女の手にした燐刻刀の先端に小さな白色の光が灯り、細かな模様を刻み始める。手元はほとんど動いていない。光だけが繊細に動き、文字のようなものを刻み付けている。
その幻想的な光景は数分も続いただろうか。光が消え、同時にクナの吐息が聴こえた。
「できた」
短時間とはいえ、繊細な作業に非常に大きな集中力を要したに違いない。クナは大きく伸びをして、数秒その姿勢で固まっていたが、すぐにテキパキと道具を片付け始めた。
「お疲れ様。なぁ、今のは……何をどうしたの?」
何一つ分かっておらず少々恥ずかしいような気もしたが、率直に尋ねた。クナから指輪を渡され指を通してみるが、特にこれまでとの違いを感じない。魔力を流してみても、これまでと同じように障壁が半径1.5メートルの球状に展開する点は変わらない。
「装着者の意志に基づく分岐とその帰結を追加したよ。『広がれ』って思ってみて」
広がれ、というのはこの障壁のことだろうか。言われるがまま「広がれ」と念じた瞬間、知覚していた障壁の範囲が一気に拡張された。感覚値だが、恐らく半径10メートル程度になるのではなかろうか。
唖然としてクナを見やる。
「上手くいった、かな。これでお家まるごと守れるね」
得意げな様子のクナに、俺は驚きを隠せなかった。確かに、家がすっぽりと入るくらいのサイズだ。懸念していた夜間の自宅への襲撃にも対応できるかもしれない。
「いや、そんな簡単にできるものなのか? 凄すぎるんだけど」
「種明かしをするとね」
クナは小さく舌を出して笑った。
「その『会長の指輪』、正式には『カストゥム・パルヴォルム』っていうんだけど、魔術彫刻師の間ではかなり有名な魔術具なの。だから効果と、大まかな魔詩の構成は大体想像が付いていたんだよね。変えたのだって、条件分岐と有効範囲の記述とか微調整だけだし」
だからといって、そんなに即座に対応できるものだろうか。職場への「識鑑の球」導入の際に協力してもらった魔術彫刻師の仕事ぶりがアキルの記憶にあったが、一箇所の修正にも数日とかのレベルで時間をかけて、レヴィと必死で対応していた。そのことを問うと、彼女は素っ気なく答える。
「そういう大規模で複雑な魔詩は、影響範囲の調査とか修正後に変なことになってないかとか、すごく慎重にやらなきゃいけないんだよ。今直したのはちょっとしたところだからね」
クナは簡単なことのように言うが、恐らくそれは正確ではない。指輪の魔詩は決してシンプルではない。あのレヴィが「ふくざつ!」と驚いていたレベルだ。その構造を瞬時に把握し、修正箇所を特定し、何をどう書くべきかを即座に考案し、的確にそれを実現した。
アキルすら知らなかったことだが、クナは魔術彫刻師として途方もない才能を秘めているのではないか。
「いや、クナはすごいよ」
「またまたー」
「尊敬する」
「いやいやー」
その夜クナの隣で、ちょっと直近の記憶にはないくらい深く眠ることができた。
とにかく、この長い長い一日がようやく終わった。




